【つの版】度量衡比較・貨幣80
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1580年、スペインはポルトガルと同君連合となり、領土を繋げば地球を一周する「太陽の沈まない帝国」となりました。そして彼らがもたらした大量の銀は、東アジアを含むグローバル経済の血液となっていったのです。
◆二対◆
◆一条◆
白銀流通
久しぶりにチャイナへ戻ってみましょう。明朝は海外貿易を表向きでは禁止していましたが、仲買商人の組合(牙行)などにより貿易は続いていました。日本は朝貢貿易や倭寇、琉球や朝鮮を介して明国と大いに貿易し、互いの産品を輸出入しています。明朝も北方の韃靼(タタール/モンゴル帝国)との戦争や朝貢貿易で多額の支出が必要ですし、小額貨幣の銅銭や信用がない紙幣(宝鈔)では受け取ってもらえませんから、国際的に価値が担保されている銀が通貨として普及しました。
1510年、明朝で専権を振るっていた宦官・劉瑾が帝位簒奪を目論んだとして逮捕・処刑され、財産は国庫に没収されました。当時の史料『震澤長語』によれば黄金1205万両、白銀2億5958万両が没収されたといいますが、後世には多すぎるとして黄金250万両、白銀5000余万両及び無数の財宝だとも、金銀数百万両に過ぎなかったともいいます。
銀1両≒銭1貫≒米1石≒金0.1両、銭1文≒100円とすると、銀1両≒10万円、金1両≒銀10両≒100万円です。震澤長語説なら銀換算3.8億両≒38兆円もの莫大な金額となります。金250万両+銀5000余万両なら銀換算7500万両≒7.5兆円です。劉瑾を密告したのは同じ宦官の張永で、宦官同士の権力争いだったようですからだいぶ盛られていると思いますが、これが「当時の明朝の歳入の10年分に相当した」ともいいます。とすると歳入は3800万両=3.8兆円か750万両=7500億円で、だいぶ開きがありますね。
漢代なら3.8兆円ぐらいはあったでしょうが、実際は嘉靖年間(1522-1566年)末の歳入が200万余両(2000億円)だったともいいます。大帝国の割に随分少ないですが、明朝は各地に親王を封建しているため中央政府の歳入は少なかったのでしょうか。あるいはこれは銀だけで、米がこの10倍ぐらいあったともいいます。それなら2.2兆円となっておさまりはつきますが。
一条鞭法
1572年、明朝では10歳の万暦帝が即位し、その傅(教育係)であった張居正が内閣首輔(宰相)となります。彼は幼帝の輔佐として合法的に国政を牛耳り、独裁権を確立して次々と改革を行いました。その最大のものが、全国的な丈量(検地)および税制改革の実施です。戦国大名が群雄割拠していた日本にくらべ、明朝は曲がりなりにも統一支配が続いていたので、彼の改革は官僚制度によって天下に広く行われました。
チャイナの税制は、基本的には中唐以来の「両税法」にもとづいて年に2回納税するものでしたが、数百年の間に銭納から物納になったり、社会階級に応じて特別税が加わったりと複雑化しており、庶民は混乱していました。張居正はこれを一本化(一条鞭法)して銀納のみとし、賦税(土地税)と徭役(人頭税)をまとめて支払うように定めたのです。そして徴税のために人口調査と土地面積の調査(丈量)が徹底され、これによって国庫には10年分の食糧と400万両(4000億円)の余剰金が貯えられたといいます。
万暦三征
しかし1582年に張居正が逝去すると、その党派は反対派によってたちまち失脚し、改革によって貯えられた余剰は暗愚な万暦帝とその取り巻きによって浪費されます。明朝の財政は再び悪化し、各地の反乱や豊臣秀吉の朝鮮侵攻を迎撃するための出兵で莫大なカネが費やされました。
以前書きましたが、1592年には寧夏でモンゴル人将軍ボハイの乱が起き、同年のうちに鎮圧されましたがその費用は80-200余万両に達しました。同年に播州(貴州省)では苗族の総督・楊応龍の乱が起き、1600年に鎮圧されるまで200-300万両を費やしました。豊臣秀吉が起こした朝鮮の役に注ぎ込まれた費用は780余万両に達し、国家財政は破綻しました。庶民は重税にあえぎ、各地で反乱が相次ぎ、それを鎮圧するためにまた重税を課すという悪循環に陥ります。明朝は満洲族の清朝が直接攻め滅ぼしたのではなく、先に李自成ら漢人の大反乱によって滅亡しているのです。
◆天◆
◆獄◆
【続く】
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