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【つの版】ウマと人類史15・匈漢大戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 前134年、漢の武帝は馬邑に匈奴の軍臣単于を誘き寄せて伏兵を潜ませましたが、作戦は失敗しました。これにより両国関係は悪化しますが、匈奴と漢の間にはまだ交易関係が結ばれています。

◆戦◆

◆戦◆

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衛青出陣

 馬邑の事件から5年後、前129年秋、漢は4人の将軍に各々1万騎兵を与え、衛青は上谷(張家口市懐来県)、公孫賀は雲中(フフホト)、公孫敖は代(張家口市)、李広は雁門(朔州市)から出撃させました。いずれも黄河屈曲部の東側で、北上すれば単于庭(モンゴル国中央部)に至ります。しかし公孫賀は戦果を挙げられず、公孫敖は7000騎を失う大敗を喫します。李広は負傷して捕虜になりましたが、匈奴の子供の馬と弓矢を奪い、脱走して帰還しました。ただ衛青だけが沙漠(ゴビ)を越えて蘢城(オルホン渓谷)にまで至り、首級や捕虜を獲得すること700人に及びました。衛青以外の将軍たちは罪により囚人とされ、カネを出して罪を贖い平民となります。

 このうち公孫賀公孫敖は北地郡義渠道の人で、隴西の李広ともども騎兵部隊を指揮する将軍として功績がありましたが、衛青はこれが初めての戦場です。彼は河東郡平陽県(山西省臨汾市堯都区)の出身で、母親は奴隷という低い身分にあり、彼自身も匈奴と接する辺境で羊飼いとして人に使われる身でした。ただ匈奴の事情に精通し、騎射の腕前も優れていたといいます。のち彼の姉・衛子夫が武帝の寵愛を受けて皇女を生んだため、衛青はにわかに出世して車騎将軍となったのです。姉のおかげとはいえ彼の軍事的才能は本物で、幾度も功績を建てることになります。前128年にはついに姉が皇太子となる劉拠を生み、衛青の権勢は並ぶ者がなくなりました。

 同年冬から翌年秋にかけて、匈奴は反撃とばかり国境地帯を襲撃します。特に漁陽(北京)や遼西(遼寧省錦州市)の被害が大きく、漁陽太守は撃ち破られ、遼西太守は戦死しました。漢の将軍の韓安国は燕からの援軍を得て匈奴を撃退しますが、匈奴は西の雁門を襲撃し、1000人余りを殺傷・掠奪します。前127年秋、衛青は3万騎を率いて雁門から出撃し、李息も代から出撃して匈奴を打ち破り、首級と捕虜は数千に及んだといいます。チャイナの史書の兵数や戦勝報告は、ほぼ10倍程度に誇張されているため鵜呑みにはできませんが、漢は匈奴との戦いで勝つことが可能になって来たのです。

 前126年、衛青は再び雲中から出撃し、黄河沿いに西へ進んで楼煩と白羊王を河南(オルドス、河套)において撃破し、首級や捕虜、家畜を多数捕獲します。また黄河沿いに進んで隴西(蘭州)まで至り、河套と寧夏を漢の領土として組み入れ、朔方城を築城して秦代の長城線を確保します。

 同年冬、軍臣単于は在位35年で世を去ります。彼の太子(左賢王)は於単でしたが、軍臣の弟で左谷蠡王の伊稚斜が自立して単于と称し、於単を打ち破ります。於単はやむなく漢へ亡命し、漢は喜んで彼を涉安侯に封じますが数カ月後に死去しました。

張騫帰還

 またこの年(前126年)、張騫は匈奴の混乱に乗じて脱出し、西域の情報を得て漢に帰還しています。彼は前139年に匈奴に捕まり、10年以上も隴西地方で生活し、匈奴の女性を娶って子を儲けていましたが、監視が緩んだのを好機として脱出し、西へ向かいます。そして数十日進み、大宛という国に到達します。ここはウズベキスタンのフェルガナ盆地です。捕まったのが蘭州を出てすぐなので青海湖あたりで暮らしていたとしても、ホータンやカシュガルを経てフェルガナまで3000km近くはあります。1日36kmとして80日以上はかかりますね。

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 大宛の住民はイラン系のソグド人と思われ、都市を築いて定住していました。前329年にはフェルガナ盆地の入口のホジェンドまでアレクサンドロス大王が来ていますが、ギリシア人はあまりいなかったようです。大宛の王は張騫を歓迎すると、漢の話を聞いて喜び、「以前からその国の富裕なことは知っていた。通商したいものだ」と言いました。また彼が月氏と手を結んで匈奴と戦いたいと望んでいると聞き、西の隣国の康居(タシケント)まで道案内をつけて送ってやります。康居は南の大月氏(ソグディアナ)まで張騫たちを案内し、ようやく目的地に着くことが出来ました。

 史書によれば、月氏はもともと青海湖の北、祁連山脈や敦煌の付近にいたのですが、老上単于の時代に匈奴に撃ち破られ、その王の髑髏が酒杯にされました。月氏のうち南下したのは南山羌と交わって小月氏となり、西方へ逃れたのは大月氏となります。始めはキルギスのイシク湖(熱海)付近まで移動し、先住民の塞(サカ)族を駆逐・服属させて居座りましたが、匈奴は烏孫の王・昆莫を派遣して討伐させました。大月氏は再び移動を開始し、最終的にシル川とアム川の間にあるソグディアナを征服したのです。

 この頃、アム川の南にはギリシア系文化を持つバクトリア王国がありましたが、前140-前130年頃までに「スキタイ」の侵入で滅亡します。このうちトカロイ(トカラ人、大夏)の勢力が強かったのか、これ以後バクトリアは大夏、トハーリスターン(トカラ人の地)と呼ばれるようになりました。張騫が来る少し前、大月氏国は大夏を服属させています。

 張騫は大月氏国に到達すると、その王(先代の王の夫人で女王だったともいいます)に「漢と同盟して匈奴と戦おう」と持ちかけます。しかし大月氏は豊かな土地を得て安定した生活を送るようになっており、復讐の心もなくなっていました。また漢が遠い国であることもあり、同盟は拒まれます。落胆した張騫は、この地で西域諸国の情報を集めた後、漢へ帰還の途につきます。彼らは南山(崑崙山脈)に並行し、羌族の地(青海省)を進んで帰ろうとしたのですが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留されます。しかし前126年の単于交替時に匈奴国内が混乱したため、張騫は甘父と妻を伴って脱出し、13年ぶりに漢へ帰国したのです。

 武帝は大喜びで彼を歓迎し、匈奴に阻まれて伝わることのなかった、貴重な西域の情報が初めて漢に伝わることになりました。それまでも周や秦漢は月氏や匈奴を介して断片的に情報を得てはおり、様々な西方の文化が伝来してはいましたが、直接に漢と西域諸国が繋がり始めるのはこれからです。武帝は張騫を功績により太中大夫とし、匈奴への遠征に従軍させました。

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 張騫によると、大夏では蜀(成都盆地)の布や竹杖が売られていました。驚いて商人に由来を尋ねると、数千里ほど東南の身毒(シンドゥ、インド)で買ったと言います。さらに聞くと、身毒から東へ2000里進んだところで蜀人がこれらを売っていると言います。そこで張騫は「蜀から身毒まで人が往来しているのなら、漢から蜀、身毒を経て大夏に至るはずだ」と考え、武帝に調査を申し出ます。面白がった武帝は張騫らを蜀から身毒へ向かわせますが、西南夷と総称される蛮族に道を阻まれ、進むことが出来ませんでした。ただという大きな国が発見されたので、漢はこれと国交を結んでいます。

匈漢大戦

 伊稚斜単于の時代には、もはや匈奴は毎年騎兵を率いて漢の辺境を攻撃するようになり、その被害は甚大でした。代、雁門、上郡、朔方など辺境の郡県は繰り返し襲撃され、住民は千人単位で拉致・殺傷されています。さらわれた人々は匈奴の各地に置かれた定住民用の集落や都市に配備され、農耕や機織りなどの奴隷労働を行わされたようです。また漢の圧政を逃れ、進んで亡命する者も割とおり、即戦力として採用されました。

 前124年春、衛青は3万騎を率いて匈奴の右賢王討伐に出撃します。他の5将軍も多数の漢兵を率いて出陣し、右賢王は恐れて逃走しました。漢軍は追撃しますが追いつけず、配下の裨小王(部族長)10余人、民衆男女合わせて1万5000人、家畜100万頭を捕獲して帰還しました。喜んだ武帝は衛青を大将軍に任命しますが、匈奴の襲撃はやみませんでした。前123年には漢の将軍の趙信が匈奴に降伏し、単于の姉を娶っています。

 前121年、漢は驃騎将軍の霍去病(衛青の姉の子)に命じ、隴西から出撃させました。彼は匈奴西部の王である休屠王を撃退し、天を祭る黄金の像(金人)を捕獲し、祁連山を攻撃して多数の敵を討伐しました。単于は渾邪王と休屠王が漢に敗れたことを怒り殺そうとしたので、二人の王は漢に降伏しようとし、漢に使者を派遣します。途中、渾邪王は投降を躊躇って休屠王に殺されますが、4万人の匈奴が漢に降伏しました。休屠王の家族は官奴とされ、太子の日磾は厩番になりましたが、14歳にして身長が8尺2寸(190cm)もあり堂々としていたので、武帝は彼を馬監(軍馬の監督官)とし、金姓を授けました。彼の子孫は代々漢に仕え、後漢末の金旋金禕は金日磾の末裔です。

 これにより、いわゆる「河西回廊」が開かれました。隴西・北地・河西は匈奴の侵略が少なくなり、漢は関東(函谷関から東)の貧民を河南(オルドス)の「新秦中」に移住させ、北地以西の守備兵を半減しました。西方の憂いは少なくなり、西域諸国への道が開け始めたのです。匈奴はこれを取り戻そうとますます攻勢をかけ、特に東方への侵入を強めました。

 この頃、将軍の李広と博望侯の張騫は右北平(北京)から出陣して左賢王を攻撃しますが、李広は張騫と合流する前に大軍に包囲されてしまいます。激戦の末に全滅寸前となったものの、張騫の救援で生き残ります。張騫は合流が遅れ漢軍を死なせた罪で死刑に相当しましたが、カネで罪を贖って平民となり、李広は功績により罪に問われませんでした。

 前119年、漢は衛青と霍去病に5万ずつ騎兵を与え、単于の本営を攻撃させます。趙信は単于に「漠北(ゴビの北)まで漢軍をおびき寄せれば、兵站が伸び切って衰弱します」と策を授けますが、漢は膨大な兵糧を輸送して漠北へ送りました。単于は精鋭を選りすぐって待ち構え、漢軍と激突します。この戦いで単于は大敗を喫し、騎兵数百だけを従えて北西へ遁走しました。漢にも莫大な被害が出、衛青は趙信の城まで辿り着いたのち帰還しますが、霍去病はさらに進軍して左賢王を撃破し、単于庭のある狼居胥山(ヘンティー山脈)まで到達します。彼はこの地で天を祭り、姑衍で地を祭り、翰海(バイカル湖)を目の前にして帰国しました。

 この戦いの際、李広と趙食其は衛青に命じられ、東の道を迂回して進んだものの、道案内がおらず道に迷い、衛青と合流できませんでした。衛青は帰途に彼らと出会いましたが、李広は恥辱のあまり自刎し、趙食其はカネで罪を贖い平民となったといいます。

 匈奴は漠南(内モンゴル)を剥ぎ取られ、漢は新たに獲得した地へ次々と兵や民を送って防衛を固めます。単于は趙信の勧めに従い、使者を漢に派遣して講和を請いますが、漢の使者が「外臣として国境へご機嫌伺いに来られよ」と告げたため、激怒して使者を勾留します。漢ではまたも遠征の準備を行ったものの、度重なる大遠征で国内は疲弊しており、霍去病も前117年に逝去したため、しばらくは取りやめとなります。

 この頃、張騫は武帝に上奏し、烏孫と手を結んで匈奴に対抗する策を献じています。烏孫もまた匈奴に追われて西方へ移動した部族で、先にいた月氏を駆逐してイシク湖付近やセミレチエを占拠していました。武帝は張騫を使者として烏孫へ派遣しましたが、烏孫も難色を示します。そこで張騫は烏孫の人々数十、馬数十匹を連れて帰国し、漢の偉大さを見せつけました。武帝は烏孫の馬を喜んで「天馬」と呼びましたが、張騫はそれから一年余りして亡くなった(前114年)といいます。

 前114年、匈奴では伊稚斜単于が世を去り、子の烏維が後を継ぎました。漢と匈奴の大戦争は、膨大な物資人員を専制君主の権力で使い潰せる漢の側が次第に有利となり、匈奴は領土を次々と奪われていきます。しかしそれは漢にも大きな負担を強いるものでした。

◆万里◆

◆長城◆

【続く】


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