【つの版】ウマと人類史:中世編17・契丹西遷
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
アヴァール人やマジャル人との戦いを通じて、欧州には「騎士」と呼ばれる人々が出現しました。彼らは11世紀末、セルジューク朝の崩壊に乗じて東ローマに呼び寄せられ、十字軍運動を開始します。その頃、北西ユーラシアでは何が起きていたでしょうか。欧州から東へ戻って行きましょう。
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北褥九離
西暦1000年にマジャル人がウンガリア/ハンガリー王国を建国した頃、その東にはペチェネグ(Pecheneg)がいました。彼らはテュルク系の騎馬遊牧民で、名はテュルク語で「義兄弟(トルコ語:bajanak)」を意味します。
『隋書』などによると、7世紀には鉄勒諸部族がモンゴル高原から黒海北岸にまで広がっていましたが、北褥九離は恩屈、阿蘭、伏嗢昏とともに拂菻の東にいたといいます。とすると黒海北東岸から北カフカースあたりにいたことになりますが、異説もあります。
紀元前2世紀、漢の張騫が訪れた西域諸国のひとつに康居があります。これはタシケント近郊のカンカ遺跡を拠点とした騎馬遊牧民と都市住民による国家で、トカラ語kankaが「石」を意味することから、トカラ系やサカ系のルーツを持つともいいます(タシケントはテュルク語で「石の町」を意味します)。彼らは匈奴やエフタル、突厥や薛延陀に服属し、唐の羈縻支配を受け入れました。のちシル川以北のカザフ草原にカンガルという部族連合を形成し、ペチェネグ、オグズ、キプチャクなどに分かれたというのです。
経緯はどうあれ、ペチェネグが9世紀初頭頃ヴォルガ川を渡って西へ到来したことは確かです。彼らはオグズやハザールに圧迫されて黒海沿岸部にたどり着き、ハザール、ルーシ、ブルガリア、マジャルと激しく争いました。東ローマは彼らと手を組んでブルガリアやルーシと戦わせています。ルーシ王スヴャトスラフはハザールとブルガリアに大打撃を与えましたが、972年にペチェネグに殺され、その頭蓋骨は髑髏杯にされたといいます。
スヴャトスラフの子でキリスト教(正教)に改宗したウラジーミルもペチェネグの侵略に悩まされ、988-992年頃にはキエフの南からドネツ川流域にかけて要塞群を建設しました。これは「大蛇の長城」と呼ばれ、支配下にある諸部族の有力者たちを引き抜いて移住させ、防衛に当たらせたと『原初年代記』にあります。
伝説によると、キエフ南東のトルベジュ川のほとりでルーシとペチェネグが対峙した時、双方から代表を出して相撲で決着をつけようということになり、ルーシ側の代表が勝ちました。喜んだウラジーミルはここに町を建て、ペレヤスラヴ(名誉を奪い取った)と名付けたといいます。ペチェネグはしばしばキエフを包囲し、服属を迫りました。ただその勢力は一枚板でなく、共通のカガンもいなかったようで、ルーシ側の傭兵になって戦うペチェネグもいました。1015年のウラジーミル死後の後継者争いでは、スヴャトポルクがペチェネグの援軍を得てキエフに進軍しています。
ウラジーミルの子ヤロスラフは、海の彼方からヴァリャーグ(ヴァイキング)たちを呼び寄せてスヴャトポルクらを撃ち破り、ルーシ王(大公)となりました。しかし1023年に異母弟ムスチスラフがチェルケス人やハザール人を率いてキエフを攻めます。ヤロスラフはムスチスラフと和平してドニエプル川の東を治めさせ、成文法『ルーシ法典』を作って国内を整備しました。
1037年にムスチスラフが死ぬと、ヤロスラフはその領土を受け継ぎ、ルーシは再統一されます。ペチェネグは混乱をついてキエフを攻めますが撃ち破られ、その一部はルーシの傭兵部族として南部辺境に駐留、「黒頭巾(チョルヌイェ・クロプキ、テュルク語でカラ・カルパク)」と総称されました。ヤロスラフはバルト海から黒海に至る大国の君主となり、ポーランド、ハンガリー、ノルウェー、フランスに王女らを嫁がせ、息子には東ローマの皇女を娶らせるという繁栄ぶりでしたが、1054年に彼が世を去るとルーシは再び分裂していきます。
この頃、ペチェネグは東方からやって来たキプチャクに圧迫され、ハンガリーやバルカン半島に押し寄せます。東ローマは1018年にブルガリアを征服していましたが、ペチェネグはブルガリアの残党と手を組んで反乱を起こしたりしたため、東ローマはキプチャクと結んで彼らを討伐しています。部族連合が解体したペチェネグは吸収され、12世紀には姿を消しました。
欽察草原
キプチャクは、もとはキメク(Kimek)という部族連合の一部族です。西突厥は十部族連合を中核としていましたが、そのひとつで漢文史書に「処木昆」と記されるのがキメクのもとではないかともいいます。7世紀中頃に西突厥が崩壊すると、キメクはバルハシ湖の北からウラル川に至るカザフスタン草原に部族連合を形成したのです。
キメクとはテュルク諸語imak/yamak(友人、仲間)を語源とし、「一」を意味するikiと合わせたiki-imak(一つの仲間)を意味するともいいます。彼らはキメク、ヤマク、キプチャク、タタール、バヤンドゥル、ラニカズ、アジュラドという七部族から構成されており、総称してキメクといい、クマン(Kuman)ないしクン(Kun)とも自称しました。キプチャク(Qipchaq)とは「中が空洞になった樹の幹」を意味するテュルク語qobuqに由来するとされ、騎馬遊牧民というよりは森林の狩猟民がルーツと思われます。ウイグルにも「始祖は二本の樹木を親として生じた」との伝説があります。
1055年頃、キメク・キプチャクの一部はハザールやペチェネグの衰退に乗じて西方へ進出し、ウラル川とヴォルガ川、ドン川を渡って黒海北岸に侵入しました。ルーシでは彼らをポロヴツィ(Polovtsi)と呼びましたが、これは「薄い黄緑色の人」を意味するとされます。肌の色が黄色だったからというわけでもなく、草の色から「草原の民」と解するのがよいかも知れません。彼らはカン(khan)と呼ばれる中小の部族長たちに率いられ、ルーシの諸侯と戦ったり同盟したりしながら勢力を広げ、ペチェネグを駆逐してバルカン半島やハンガリーにまで到達しました。
日本で源平の合戦があった1185年、ルーシの諸侯のひとりイーゴリがポロヴェツィと戦い、捕虜となったのち脱走しました。彼の事績を歌った叙事詩『イーゴリ遠征物語』はルーシ/ロシアに語り継がれ、19世紀末にはオペラ『イーゴリ公』が作られました。その中に日本で「韃靼人の踊り」と呼ばれる曲がありますが、これは本来「ポロヴェツ人の踊り」です。
キプチャク/クマン人はペチェネグと大差ない烏合の衆ではありましたが、その勢力は侮れず、かつ200年以上もこの地に住み着いて繁栄しました。またキリスト教徒でもイスラム教徒でもないため、宗教法に基づいて両宗教で奴隷とすることができました。特にイスラム世界では騎馬遊牧民のマムルーク騎兵が重宝され、奴隷商人が進出してせっせと彼らを購入し、輸出しています。イスラム世界では彼らがいた北西ユーラシア一帯を「キプチャク草原(ペルシア語:ダシュティ・キプチャク)」と呼びました。ラテン語ではクマン人の住む領域として「クマニア(Cumania)」と呼びます。
呼密黒汗
アラル海の南のホラズムでは、1077年にセルジューク朝のマムルーク・アヌーシュテギーンが総督に任命され、北方からの侵略を防いでいます。彼の子孫はセルジューク朝が崩壊すると自立し、ホラズムの王を称しました。その東、マーワラーアンナフルには西カラハン朝があり、セルジューク朝に服属しています。さらに東には東カラハン朝が栄えていました。
東西カラハン朝は内陸ユーラシアの交易路を抑えた一大文明国で、初期のイスラム・テュルク文化が花開きました。1070年頃、ベラサグン生まれのテュルク人貴族ユースフは、カシュガルの東カラハン王ハサンに教訓詩『クタドゥグ・ビリグ(幸福になるための知恵)』を献上しています。これはテュルク語で綴られた初めての長編文学で、イランの叙事詩『シャー・ナーメ』の影響を強く受けています。
1077-83年頃、バグダードへ亡命した東カラハン朝の王族マフムードは『テュルク語集成』を編纂してカリフに献上しました。これは史上最古のテュルク語の辞典です。当時のバグダードはセルジューク朝のスルタン・マリク・シャーの支配下にありましたから、テュルクについての様々な知識は喜ばれたでしょう。こうした文人の活動により、テュルク語は次第にペルシア語に並ぶ洗練された文明国の言語となっていきます。
しかし12世紀前半、東西のカラハン朝は東方から移動してきた新たな勢力に征服されます。それはカラ・キタイと呼ばれる契丹人の一派でした。この頃、ユーラシア東方では大異変が起きていたのです。
遼宋滅亡
1055年に契丹の興宗が崩御すると、皇太子の査剌(道宗)が即位します。彼は1066年に国号を大契丹国から大遼国と再び改め、1101年まで半世紀近く在位しました。遼は宋からの莫大な貢納や交易で国は富み栄え、平和を享受していましたが、次第に文化は爛熟し、支配層はチャイナ化していきます。
道宗も始めのうちは善政を行いますが、やがて遊猟と仏教に耽り、奸臣・耶律乙辛の専横を許します。乙辛は1075年に皇后と皇太子を讒言して幽閉・暗殺させ、自派の皇后を立てて権力を強めます。しかし1081年に皇太孫を暗殺しようとして露見し、宋に亡命しようとして誅殺されました。彼の治世に遼は乱れ、民衆には不満が鬱積し、亡国へと向かっていきます。
1101年に道宗が崩御すると、皇太孫の阿果(天祚帝)が即位します。父が祖父に殺されるという悲劇の生い立ちですが、彼は暗愚で政務を顧みず、諌める者を処罰して奸臣を近づけるという暗君でした。1100年には宋でも文人皇帝として名高い徽宗が即位しており、遼も宋も惰弱な暗君を頂くことになりました。
この頃、遼の東方では女真族が勢力を伸ばしていました。古代の粛慎・靺鞨の末裔でツングース諸語を話し、騎馬遊牧民ではありませんが森林の狩猟民です。彼らは完顔部の族長・阿骨打のもとに統一され、1114年に松花江の支流・按出虎水の河畔で遼に反乱を起こしました。翌年彼は皇帝を称し、国号を「大金」とします。女真語アルチュフは黄金の意で、砂金を産出したことによるといいます。
都は完顔部の拠点であった遼の会寧州で、現在の黒龍江省ハルビン市阿城区にあたります。1124年に会寧府、1138年に上京会寧府と改められました。ハルビンは松花江に呼蘭河やアルチュフ川が合流する地点で、交通の要衝でした。阿骨打は天祚帝率いる遼の討伐軍を撃破し、遼東まで進出します。
1120年、宋は金と盟約を結んで遼を挟み撃ちすることとし、山東から遼東へと使者を派遣しました。海路で盟約したことから「海上の盟」と呼ばれますが、宋では同年に南方で方臘の乱が起こり鎮圧に手を焼いたため、遼との戦いに出遅れることになります。遼でも1121年に皇太子候補を巡って争いがあり、金が着々と勢力を広げるのを許してしまいます。
1122年、天祚帝は再び大軍を率いて金を討伐に向かいますが、大敗を喫して陰山山脈まで逃亡します。南京(北京、燕京)の留守であった耶律大石は国を守るため皇族を勝手に皇帝に擁立し、宋と和平して金を防ごうとしました。宋はこれを拒絶して燕京を大軍で攻撃しますが、耶律大石らの必死の反撃に遭って落とせず、やむなく金に援軍を要請しました。1123年、金は居庸関で遼軍を撃ち破り、耶律大石を捕虜とします。阿骨打は大石を厚遇したもののまもなく崩御し、大石は脱走して天祚帝のもとへ逃れました。
太祖・阿骨打が崩御すると、弟の呉乞買(太宗)が跡を継いで遼との戦いを続けます。1124年、大石は天祚帝に内通を疑われて陰山を脱出し、遼のモンゴル高原統治の拠点であった鎮州建安軍可敦城に逃れます。彼はこの地で七州十八部族の王として自立しました。孤立無援となった天祚帝は1125年に金の捕虜となり、1128年に病没しています。
遼が滅亡すると、金と宋の間で問題が起きます。1120年の「海上の盟」において、宋は長城以南の燕雲十余州を奪還し、金は長城以北のみを支配するよう定められていましたが、宋軍は燕京を陥落させるため、金に援軍を要請しています。金は燕京を引き渡す代償として銀20万両、絹30万疋、銭100万貫、軍糧20万石を要求し、宋はやむなくこれを飲みます。
かくて燕京以南の六州は宋に奪還されたものの、雲州などは金に占領されており、宋はこれを奪還するため遼の残党と密かに手を組みます。怒った金が1126年に宋へ出兵すると、徽宗は謝罪して退位し、帝位を子(欽宗)に譲ると首都開封を脱出して鎮江(南京の東)へ逃げました。金軍は一時撤退しますが、徽宗らは戻らず側近たちと自立の動きを見せたため、欽宗は徽宗を連れ戻して幽閉します。混乱に乗じて金は再び宋を攻め、同年に開封を陥落させて宋を滅ぼしました。これを宋の元号から「靖康の変」と呼びます。徽宗と欽宗は皇族や側近、宮女らともども会寧へ連行され、帝位を剥奪されて庶人に落とされたのち、金の爵位を与えられて幽閉されました。
1127年、欽宗の弟の趙構は南京応天府(河南省商丘)へ逃れて皇帝に即位し、南宋を建国します。商丘は春秋時代の宋国の首都ですから、宋を再建するには縁があり、大義名分が立つわけです。彼は金の追手や反対派と戦いつつ東へ向かい、建康(南京)を経て1132年に臨安(杭州)を都としました。金はそのまま華北を征服し、西夏を服属させ、マンチュリアから華北に及ぶ帝国を築き上げます。燕雲十六州どころか華北がまるまる奪われたのです。
モンゴル高原にいた耶律大石は、1130年に金の遠征を受けます。遠征軍の大将は1121年に金へ亡命していた遼の皇族・耶律余睹でした。大石は彼と密約を交わしたらしく、ある程度戦ったのち西へ逃げ、余睹も後を追いませんでした。大石はアルタイ山脈を越え、天山ウイグル王国の首都ビシュバリクへ移動します。ウイグルのカガンは彼らを迎え入れて臣従し、大石は1132年にジュンガル盆地のエミル(新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州タルバガタイ地区ドルビルジン県)で即位して天佑皇帝を号し、国号を大遼、元号を延慶とします。これが西遼で、イスラム世界では彼らの自称からカラ・キタイ(黒い/強い契丹)と呼ばれます。
1134年、大石はカルルク族の反乱を鎮圧し、東カラハン朝からセミレチエを奪ってベラサグンへ遷都し、クズオルドと改名しました。東西カラハン朝は彼に臣属し、1141年にはホラズム・シャーに貢納を課し、セルジューク朝の軍勢を打ち破っています。耶律大石はグル・ハンと称し、タリム盆地からアム川に至る広大な領域に覇を唱えました。
金によって遼と宋は同時期に滅亡しましたが、宋は南宋、遼は西遼として復活したのです。また金や西遼はモンゴル高原に支配を及ぼせず、諸部族は自立していきました。金も僅かな間に両大国の版図を獲得したため、国内では混乱が続きます。モンゴルはこのような情勢のもとに勃興します。
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【続く】
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