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【つの版】度量衡比較・貨幣126

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国はフランスとの戦争の軍資金を集めるため、1695年にイングランド銀行を設立します。しかし当時の英国では銀の流出と銀貨の劣化が進み、大量の贋金が横行していました。英国はこれに歯止めをかけるため、同年貨幣の大規模な改鋳を開始します。これを主導したのが、かのアイザック・ニュートンでした。

◆ハイパー◆

◆インフレーション◆


牛頓先生

 アイザック・ニュートンはユリウス暦1642年のクリスマスに、英国東海岸のリンカンシャーの村ウールスソープに生まれました。祖父ロバートは牧羊で財を成し、1623年に村の領主の地位を邸宅と農園ごと買い取った人物で、貴族ではありませんが郷紳ジェントリ階級と自作農ヨーマンの間ほどに属します。

 彼の息子アイザック(子と同名)は37歳の時、1642年に郷紳の娘ハナ・アスキューと結婚したものの、半年後に若くして亡くなります。ハナはその半年後に忘れ形見として息子アイザックを産み、3年後に近隣の牧師バーナバス・スミスと再婚して3人の子を産みました。幼いアイザックはニュートン家に残って祖母に養育され、内向的で偏屈な性格に育ちました。

 1661年、グラマースクールからケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した彼は、講師の小間使いとして働く見返りに授業料や食費の援助を受ける免費学生(サイザー)として学問に励み、恩師バローに数学の才能を認められて奨学金を受けるまでになります。しかし1666年にペストがロンドンで流行し、1年半の間故郷に戻って思索と研究、実験に耽りました。有名な「万有引力の法則」の発見、流率法(微分積分学)の研究、プリズムによる分光の実験などはこの時期に行われています。

 1667年に大学に戻ると、ニュートンはフェロー(大学研究員)に就任して研究費を得られるようになり、次々と論文を発表したほか、反射望遠鏡を作成して高い評価を得ています。1669年には恩師バローから名誉あるルーカス教授職のポストを譲られ、以後33年間その地位にとどまりました。1672年には王立協会会員に選出され、1687年には『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア・マテマティカ)』という重要な学術書を刊行しています。

 また国王ジェームズ2世がケンブリッジ大学に干渉した際、大学の全権大使としてこれをはねのけたことから、1688年には庶民院(下院)の議員として大学から選出されます。ただ気難しくてプライドが高いため他人と衝突することが多々あり、ドイツの数学者ライプニッツ、同じ大学の学者フラムスティードロバート・フックとは特に激しく敵対していました。論争や過労も相まって、壮年期のニュートンは一時精神に変調をきたし、被害妄想をつのらせ攻撃的になっていきます。こうした状態のニュートンに助け舟を出したのが、19歳年下の教え子である貴族チャールズ・モンタギューでした。

銀貨改鋳

 モンタギューは名門貴族の生まれで、1683年からケンブリッジ大学でフェロー職としてニュートンに師事したのち、下院議員に選出されて政界で出世しています。1693年には国債制度を制定し、1694年には財務長官に就任し、イングランド銀行設立にも尽力した人物です。1696年、彼は恩師ニュートンを王立造幣局監事に就任させ、貨幣改鋳を協議しました。

 近世英国の貨幣制度は16世紀後半のエリザベス女王によって確立されましたが、メキシコやペルー、日本から大量の銀が流れ込むことで欧州では価格革命が発生し、銀の価値が1/3に下落しました。ところがインドなどアジア諸国には価格革命が波及するのが遅れ、大量の銀が欧州から流出しました。日本も17世紀中頃には鎖国体制に入り、金銀の輸出量が減少しています。さらに相次ぐ戦争で軍事費がかさみ、英国では輸入決済のための銀貨が大量に流出し、ついには貨幣用の金属が払底しました。

 貨幣価値が変わらぬまま地金価格が高騰すると、貨幣を削り取って削りカスを地金として売却し、利ざやを稼ぐというせこい裏技が流行します。政府は厳罰をもって禁止しますが、これをやる悪党は跡を絶たず、1シリング(1/20ポンド=12ペンス)銀貨は10ペンスに縮み、6ペンスに半減し、しまいには4ペンス(1グロート)まで縮む有様となります。さらに造幣局の職人たちもこれに加担して収入を得ていたため、歯止めがかかりませんでした。

 1ポンド≒10万円とすると、1シリングは5000円、1ペンスは417円です。シリング銀貨が半分や1/3に削られても、銀の高騰により額面上は1シリングとして流通していたわけですが、当然市場は混乱しました。

 1695年、大蔵次官のウィリアム・ラウンズはニュートンの意見を採用し、「削り取られたシリング銀貨を回収して、新しいシリング銀貨を発行すべきである」「新銀貨の銀含有率は、削り取られたぶんを反映して旧銀貨の8割とし(平価切下げ)、縁には削り取り防止のため刻み目をつける」「貨幣回収を円滑にし貨幣流通量を維持するため、旧銀貨を造幣局に持ってきた者には、新銀貨を旧銀貨の2.5割増しで交換する(政府の損失分は消費税で補填する)」と提唱します。

 ジョン・ロックはこれに反論し、「1シリングの額面価値が定められた貨幣は、どれほど削り取られていようと1シリングである。旧銀貨を持って来た者には、1シリングの新銀貨を与えるべきである」と主張します。彼はイングランド銀行の最初の出資者であり、哲学者として高名であったため、モンタギューはニュートンよりこちらを支持しました。そしてトマス・ニールを造幣局長官に任命し、新貨幣の発行と交換に着手します。

 しかしニュートンの見立てた通り、旧銀貨の回収は難航し、新銀貨の発行や流通も滞ります。また銀貨改鋳の噂が広まると、国民は自分の資産の価値を守るため、手持ちの銀貨を金貨に交換するようになります。このため1ポンド(20シリング)の額面価値を持つギニー金貨は30シリング相当にまで高騰しました。英国政府は旧銀貨の使用禁止を布告しますが、国民は新銀貨を嫌ったため納税すら滞り、英国の経済は麻痺状態に陥ります。

造幣改善

 1696年5月、モンタギューの頼みで造幣局監事に就任したニュートンは、ニールから職務を委任され、ロックの意見を退けて急ピッチで旧貨幣回収と新貨幣鋳造を推進します。同年6月末までに回収できた銀貨は額面上は470万ポンドでしたが、銀の含有量は250万ポンドしかなく、200万ポンド以上が回収されていませんでした。新貨幣と旧貨幣の額面差は消費税でもまかないきれぬほど大きく、政府は補填のために借金せざるを得ませんでした。

 それでもニュートンは精力的に仕事を進め、溶融炉や加工機械を新設し、貨幣製造作業を数学の計算に基づいて効率化します。これにより当初は週に1.5万ポンドのペースだったのが週5万から10万ポンドもの速度となります。新銀貨はなおも嫌われたものの、大量発行と交換の利益によって次第に市場へ広がり、1697年7月までに686万ポンドほどが発行されました。1699年までに新貨幣は国内に行き渡り、大改鋳は終了します。ニュートンは同年には造幣局長官に昇進し、長年在任して汚職や偽造を摘発しています。彼は錬金術にも造詣が深かったといいますから、その知識が役立ったのでしょう。

 しかし、結局のところ銀の国外流出はとどまりませんでした。1701年にスペイン継承戦争が始まるとまたも軍事費が増大し、銀貨は密かに鋳潰されて銀塊に変えられ、金貨や金塊と交換されます。またポルトガルの植民地ブラジルでは1695年に金鉱山が発見され、英国との貿易決済に金を使用するようになります。このため英国では銀が流出して金が流入し、18世紀前半には事実上の金本位制に移行することになりました。

◆歯車◆

◆改善◆

【続く】

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