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【つの版】ウマと人類史EX09:甲斐黒駒

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 4世紀後半、倭国には朝鮮半島から本格的にウマがもたらされます。ウマの飼育・繁殖・利用のノウハウも渡来人/帰化人によってもたらされ、倭国の各地に牧場が設立されました。これらについて見ていきましょう。

◆馬◆

◆娘◆

天之斑駒

 8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』によれば、スサノオが高天原に赴いた時、天斑馬/天斑駒(あめのふちこま)というウマがすでにいました。「天にいる斑毛の馬(駒=子馬)」の意です。スサノオはこれを捕まえて秋の田の中に放ち、収穫寸前の農作物を踏み荒らさせました。さらにその皮を生きたまま尻のほうから剥ぎ取り(生剥・逆剥)、アマテラスらが機織りをしている建物の屋根を破って投げ入れたので、驚いた侍女が死傷し、アマテラスは天岩戸に引きこもったといいます。とすると神代には高天原にウマがいたわけですが、その起源はどう語られているでしょうか。

『日本書紀』の一書によれば、むかし月の神ツクヨミが姉のアマテラスに命じられて葦原中国に赴き、ウケモチ(保食神)に出会いました。ウケモチは口から食物を吐き出して彼をもてなしたため、怒ったツクヨミに斬り殺されます。するとウケモチの頭から牛馬が生え、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生じたので、アマテラスはこれを回収させて高天原に持ち帰らせたのだといいます。

 ゆえに日本では神代から(高天原に)牛馬や蚕がいたというわけですが、後世の神話に過ぎません。ただ食物の神の死体から蚕や五穀とともに牛馬が生じたのですから、当時は牛馬が農耕と結び付けられていたことはわかります。『古事記』では高天原を追放されたスサノオとオオゲツヒメの間に同様の話がありますが、ここでは頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が生まれたとあり、牛馬については記されていません。馬の皮と蚕の起源についての話はチャイナにありますから、これを参考にして後から付け加えられたのでしょう。戦国時代の『荀子』賦篇には「蚕の身体は柔軟で、頭は馬に似ている」とあります。

 むかしある人が遠征に出て、家には娘だけが残された。彼女は一匹の牡馬を親しく養っていたが、寂しさのあまり馬に戯れにこう言った。「お前が父さんを連れ帰ってくれたら、お前の嫁になってあげる」。すると馬は縄を切って駆け去り、彼女の父のところへたどり着いた。父は驚き喜び、この馬に乗った。馬は自分が来た方向に向かって悲しげに鳴いたので、父は「わしの家に何かあったのか」と訝しみ、急いで家に帰ってきた。
 娘は喜んだものの、馬は娘を見るたび発情して様子がおかしかったので、父は密かに娘から事情を聞き出した。そして「娘を馬にやるなど家門の恥じゃ」と怒り、弩で馬を射殺すると、その皮を剥いで庭にさらした。女が憐れんでその皮に触ると、馬の皮は彼女に覆いかぶさり巻きついて、どこかへ飛んでいった。父は探し回ったが見失ってしまった。
 数日後、大樹の枝の間に、女が馬の皮に巻き付かれたような虫が見つかった。両者は合体して蠶(蚕)と化し、樹上で糸を紡いでいたのである。その糸は太く立派だったので、隣家の女がこれをとって養うと、収入が数倍になった。それでその樹木を「喪」と同音の「桑」と呼ぶようになったという。

『捜神記』第14巻より

『古事記』には、スサノオの娘スセリヒメと結婚したオオクニヌシはウマに乗ってヤマトに行こうとしたところを妻に押し留められたとありますから、ウマは天孫降臨以前に(スサノオによって?)高天原から天下っていたことになります。『日本書紀』崇神紀には埴輪の起源として「人やウマを墳墓に殉葬する代わりに、それらをかたどったものを埴土で作って副葬させた」と記されていますが、ウマなどをかたどった埴輪が出現するのは5世紀以後のことですから、それを遡って言及したに過ぎません。

馬飼鞍作

 ウマを飼育する職能集団(部曲/かきべ)を「馬飼部(うまかいべ)」といいます。『古事記』や『日本書紀』によると、神功皇后は軍船を率いて海を渡り、三韓征伐を行いました。新羅国王は恐れおののき、「これより天皇のご命令に従って馬甘(うまかい)/飼部となり、毎年船を遣わしてウマや奴隷を貢納いたします」と申し上げたので、皇后は彼を捕らえて飼部にしたといいます。そして応神天皇の時には、前述のように百済から二頭の良馬が献上されています。実際にウマが倭地に到来するのはこの頃からです。

 ウマが渡来したからには馬具も必要です。鞍などの馬具を作成する職能集団が鞍作部です。『日本書紀』雄略紀には雄略7年に鞍部堅貴が百済から渡来したとありますが、応神20年に一族を率いて渡来帰化した阿知使主(あちおみ)が鞍作部の祖を連れてきたとの伝承もあります(坂上系図)。阿知使主らの子孫は弁韓安羅(アラ)国を出自とすることからアヤ氏と名乗り、漢の皇室の末裔として漢氏(倭漢氏/東漢氏)と称しました。なお『古事記』では阿知使主を「阿知吉師」とし、百済から来た阿直岐と同一視しています。

『日本書紀』履中紀にはウマが出てきます。仁徳天皇が崩御した後、住吉仲皇子は太子(履中)を殺して帝位を簒奪しようとしましたが、太子はウマに乗ってヤマトへ逃れ、反撃して帝位についたといいます。また履中5年9月に淡路島へ狩りに赴いた時、河内飼部が天皇の乗騎の轡をとって従っていましたが、島に鎮座するイザナギ神が託宣を下し「血のにおいに耐えられぬ」と告げました。そこで占わせると「飼部の黥(いれずみ)のせいです」と出たので、以後飼部は黥をしないようにさせたといいます。馬飼部は奴隷的な賤民として扱われていたようですが、この頃には地位が向上したのでしょう。

 4世紀末から5世紀に倭王権の中心地となり、渡来/帰化人が多く住み着いた河内には、ウマの牧が多く作られ、馬飼部が置かれました。6世紀初頭に仁徳系の王統が断絶した時、河内馬飼の荒籠(あらこ)という人が越前に使者を送り、倭王の遠縁にあたるヲホド王(継体天皇)を説得して擁立したと『日本書紀』にあります。当然軍事力を握っていた人物でしょう。河内の東の倭(ヤマト、奈良県)にも倭飼部(やまとのうまかいべ)がいました。

甲斐黒駒

 5世紀後半に在位したとされる雄略天皇はウマを用いて盛んに狩猟や戦争を行っており、馬飼を斬り殺しただの古墳(誉田陵)の土馬が化けて出ただの、ウマに関する話も多くあります。そして雄略13年9月に「甲斐の黒駒」に関する話が記されています。雄略は短気でちょくちょく人を処刑する男でしたが、ある人を処刑しようとした時に思い直して赦免し、刑場に人を遣わして止めさせました。使者は急ぎの余りウマに鞍をつけていなかったので、ほっとした彼は「ぬばたまの甲斐の黒駒、鞍着せば命しなまし(鞍を着せていたら命はなかっただろうな)、甲斐の黒駒」と歌を詠んだといいます。

 甲斐国(山梨県)では早くも4世紀後半にはウマが飼われており、日本最古級のウマの歯が見つかっています。甲斐国造の墓とみられる甲斐銚子塚古墳が出現するのもこの頃ですし、雄略朝の時期にあたる5世紀後半にはウマや馬具の副葬も行われています。ただこれは雄略朝で実際あった事件というより、日本書紀編纂時に伝わっていた和歌に後から物語をつけただけかも知れません。山国である甲斐や信濃では早くからウマが飼われ、各地を結ぶ荷駄や乗用馬、軍馬や早馬として用いられたことでしょう。

 また半島や大陸に最も近い九州でも古くから牛馬が飼育されていました。継体天皇6年(512年)4月には「百済に使者を派遣し、筑紫国の馬40匹を賜った」とあります。欽明天皇7年(546年)正月には百済に馬70匹と船10隻、同15年(554年)正月には馬100匹・船40隻・援軍1000人を送っており、これらも筑紫から運ばれた可能性があります。遥か遠くの甲斐から百済までは輸送するだけでも大変でしょう。

 6世紀末から7世紀にかけて倭国の権勢を握った人物に、蘇我馬子(うまこ)がいます。欽明天皇11年(550年)が庚午(かのえうま)なので、この頃に生まれたためではないかともいいます。

 蘇我馬子は西暦592年11月に敵対関係にあった崇峻天皇を暗殺しますが、その実行犯は東漢駒(やまとのあやの・こま)、別名を坂上駒子(さかのうえの・こまこ)といい、馬子に責任を負わされて殺されました。東漢氏は応神天皇の時に渡来した阿知使主の末裔で、駒はその分家の坂上氏に属し、彼の末裔からは壬申の乱で活躍した坂上老(おゆ)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂らが出ています。彼らは代々軍事氏族として朝廷に使え、弓馬の道をおさめた武人でした。

 蘇我馬子の姉を堅塩媛といい、欽明天皇の妃となって用明天皇や推古天皇を生みました。用明の子・聖徳太子こと厩戸(うまやど)皇子は、母が厩の前で産気づいたというジーザスめいた伝承を持ちますが、敏達天皇3年(574年)甲午(きのえうま)に生まれているため、午年生まれにちなんで名付けられたことは有り得そうです。

 後世の『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬数百匹が献上された時、太子は甲斐国から来た四脚が白い黒駒を見出しました。舎人(従者)の調使麿に命じてこれを飼育・調練させ、同年9月に試乗したところ、黒駒は天高く飛び上がって東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ったのち、三日後に戻ってきたといいます。

 推古天皇20年(612年)正月、天皇が群臣と酒宴を催した時、蘇我馬子は寿歌(ことほぎのうた/祝歌)を奏上しました。天皇はこれに答えて「蘇我の子らは、馬ならば日向の駒、太刀ならば呉(くれ)の真刀(まさひ)。蘇我の子らを大君が用いるのはもっともなことだ」と歌ったといいます。

 互いに褒めあったようでもあり、蘇我氏が天皇より下の道具(馬)に過ぎないことに釘を差したようでもありますね。また甲斐ではなく日向の馬としたのは、呉の真刀ともども、蘇我氏が西の遠方と関わりが深いことを示唆しているのかも知れません。そしてこの翌月、推古天皇は自らの亡き母である堅塩媛を欽明天皇の陵墓に改めて合葬し、皇太夫人として祀っているのですから、このやりとりはその前フリです。

 馬子の後も蝦夷・入鹿(別名は鞍作)が跡を継ぎ、専横を極めた蘇我氏でしたが、645年に中大兄皇子によって入鹿が誅殺され、蝦夷も追い詰められて自刃します。中大兄皇子は倭国の実権を握りますが、同盟国の百済・高句麗は唐・新羅によって滅ぼされ、多くの難民が倭国に亡命しました。倭国は国防のため彼らを東国などへ遷し、牧を管理させることになります。

◆黒◆

◆駒◆

【続く】

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