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【つの版】度量衡比較・貨幣123

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 戦国時代から江戸時代にかけて、和人と蝦夷(えぞ/アイヌ)との交易は松前に拠点を置く蠣崎/松前氏が担っていました。蝦夷地(北海道)からは海産物や毛皮、砂金などの他、樺太・満洲を介して大陸の産物がもたらされ、和人は鉄器や漆器、米、木綿などを売ってそれらを購入していました。しかし両者は交易の利権を巡って争い、しばしば武力衝突を起こしています。

◆黄金◆

◆神威◆


部族再編

 かつての和人/倭人や、ヨーロッパ人と接触したアメリカ先住民のように、異国との大規模な取引は、小規模な部族同士の抗争や統合を推し進めます。蝦夷/アイヌは古くから河川や漁猟圏(イオル)ごとに無数の部族に分かれていましたが、15世紀から17世紀にかけて複数の部族の統合が進み、和人から惣大将そうだいしょう」「惣乙名おとなと呼ばれる有力首長が出現します。率いる部族の数が多いほど産物を多く集めることができ、他の部族集団や和人との交渉でも脅しがきいて有利になります。

17世紀アイヌ地図

 蝦夷地(北海道)に分布していた大規模なアイヌ部族集団のうち、和人が江戸時代に把握していたのは5つでした。和人地(松前・檜山)に最も近いのは、後世の歴史用語で「内浦うちうらアイヌ」と呼ばれた集団です。松前や函館の東、内浦湾西岸にいた集団で、かつてコシャマインがおり、寛文年間(1661-73年)にはアイコウインという惣乙名がいました。

 18世紀末には函館の東の戸井といから駒ヶ岳東麓の鹿部しかべまでがホレバシウンクル(沖の衆)、その北の長万部おしゃまんべまでがウシケシュンクル(湾の末の衆)と呼ばれたと記録されています。

 内浦湾の対岸の白老しらおいから新冠にいかっぷまで、現在の胆振いぶり地方東部および日高地方北部には、「シュムクル(スムンクル、シモクル)」と呼ばれる部族集団が居住していました。これは「西の衆」を意味し、松前や内浦湾からは東ですが、さらに東の集団から見れば西に住むため、彼らとの関係からそう呼ばれたのです。寛文年間には東端部のハエ(波恵川流域)にオニビシという惣乙名がおり、ハエクル(ハエの衆)を率いていたといいます。

 シュムクルの東、日高地方南部から釧路地方の厚岸あっけしまでには「メナシクル(メナシウンクル)」という部族集団が居住していました。これは「東の衆」を意味し、静内しずない川(染退シべチャリ川)を境として西をシュム(スム)、東をメナシと呼びました。また静内川から幌泉ほろいずみ(襟裳岬)までの住人をメナシウンクル、襟裳岬の東の広尾から根室まで(現十勝・釧路・根室地方)の住人をシメナシュンクル(奥東の衆)と呼んだともいい、狭義のメナシクルは日高地方南部の住人を指します。

 このメナシクルは、1618年のスペイン人宣教師アンジェリスの報告書に「松前の東方のメナシの国」として記録されています(松前藩は島原の乱まで蝦夷地での宣教師の活動を許可し、海外と交易していました)。それによるとメナシの国からは毎年百艘の舟が干鮭とニシン、貂ないし猟虎の皮を積んで松前にやってくるといいます。松前藩が編纂した史書『新羅之記録』にはそれより以前、慶長20年/元和元年(1615年)には「東隅」のニシケラアイヌが松前に来たと記されています。また陸奥盛岡藩(南部家)の記録によると寛永21年(1644年)、「目無めなしの蝦夷」が交易のため田名部たなぶ(現青森県むつ市田名部、陸奥湾北東岸の港町)に来たといい、松前氏を介さず下北半島などに到来する蝦夷もいたようです。

 シュムクルの領域の北、石狩川流域一帯(石狩・空知・上川地方)には、イシカルンクル(石狩アイヌ)が居住していました。石狩川/イシカラ・ペッとはアイヌ語で「曲がりくねった川」を意味するともいい、広大な石狩平野を潤す大河です。北は石狩湾/日本海に面し、南は太平洋側に通じる要地であるため古来栄え、明治時代には道庁所在地の札幌市が建設されています。寛文年間にはハウカセという惣乙名がこの部族集団を取り仕切っていました。

 この石狩アイヌと接していたのが、樺太アイヌ(レプンモシリウンクル/離島の衆)の一派である余市アイヌです。その勢力は、南は石狩湾南岸の余市町(小樽市の西)、北は天塩・利尻・礼文・宗谷を経て樺太にまで及び、寛文年間にはハチロウエモン(八郎右衛門)という和人名を持つ惣乙名に率いられていました。内浦アイヌがかつての「渡党」、シュムクルとメナシクルが「日ノ本」とすれば、石狩アイヌと余市アイヌは「唐子」に相当します。

 松前・檜山の北、日本海側の後志しりべしは蝦夷地のうちですが、松前藩の知行地として蝦夷/アイヌとの商場が置かれます。蝦夷地の日本海側は対馬海流によって京都・大坂に通じ、北は樺太を経て大陸へ通じていますから、太平洋側より早くから開け、和人の進出も盛んでした。これに対し太平洋側は奥州・坂東に通じていたものの定期航路は乏しく、経済的に不利でした。蠣崎/松前氏が蝦夷と和人の交易を独占すると、その傾向はますます強くなり、自由交易を禁じられた蝦夷/アイヌには不満が高まっていきます。

 また蝦夷地では元和3年(1617年)頃から砂金採取が盛んになり、半世紀に渡りゴールドラッシュが続きました。元和5年(1619年)には5万人、翌年には8万人もの和人が蝦夷地に到来し、松前藩は砂金掘りから月に金1匁を運上(納税)させましたが、最盛期には月に金30匁を採取した者もいたといいます。彼ら砂金掘りの中には本土でご禁制のキリシタンもおり、アイヌたちと勝手に商売をしたり、権益を巡って争ったりしていました。

鬼菱殺害

 事の始まりは寛永17年(1640年)、内浦湾南岸の駒ヶ岳(北海道駒ヶ岳)の噴火でした。山体崩壊によって生じた岩屑なだれは、内浦湾に流れ込んで遥か十勝にまで達する大津波を引き起こし、700名が死亡します。火山灰は陸奥国津軽地方に降り注いで凶作が発生し、寛永20年(1643年)まで全国規模で続いた「寛永の大飢饉」の一因になったともいいます。松前藩領/和人地や蝦夷地でも影響は大きく、凶作や飢饉が発生しました。しかし農耕地が乏しく、食糧を本土からの輸入に頼る和人地では、蝦夷地からの産品を本土に売って食糧を調達するしか生き延びる道はありません。

 これにより、蝦夷/アイヌには納入する海産物や毛皮等の増産が求められ、漁猟圏(イオル)を巡っての部族同士の抗争が激化しました。ハエの首長のオニビシは、静内川の漁猟圏を巡ってメナシクルの首長センタインと争い、双方に多数の死者が出ました。決着がつかないまま慶安元年(1648年)にセンタインは亡くなり、カモクタインが彼の跡を継ぎます。

 承応2年(1653年)、オニビシは多くの部衆を率いて戦いカモクタインを討ち取りますが、メナシクルは染退(静内)の首長シャクシャインをカモクタインの後継者とし、抗争を続けました。松前藩は交易品確保のため両者の仲裁を行い、承応4年/明暦元年(1655年)に和解が成立します。

 この時、オニビシは松前藩に取り入り、以後の領地争いに関して有利な裁決が下されるよう取り計らいます。シュムクルは松前藩に近く、メナシクルは遠いのですから、「夷を以て夷を制す」のコトワザ通りにオニビシが松前藩/和人の手先となって勢力を拡大するのなら、互いにWIN-WIN関係です。この状態で10年ほどが経過しました。

 ところが寛文3年(1663年)、今度は洞爺湖の南の有珠山が七千年ぶりに大噴火を起こします。火山活動は同年8月(旧暦7月)いっぱい続き、膨大な量の火山灰や軽石、火山噴出物が海を越えて奥州にまで到達しました。麓の壮瞥そうべつでは3メートル、白老では1メートルもの灰や石が積もり、沖合い5kmまで灰が海面に降り積もって陸地のようになったといいます。

 オニビシが取り仕切るシュムクルは白老から静内までの領域に居住していますから、この噴火の影響をモロに受け、川では鮭が取れず、山では鹿が取れなくなりました。松前藩からの増産要求も前回と同様に強まり、焦ったオニビシらは静内川を越えてメナシクルの領域へ侵入し、勝手に鮭や鹿を獲り始めました。天災が原因で事情は切実とはいえ、怒ったシャクシャインらはシュムクルとの戦争を再開し、彼らを川の西側へ追い返そうとします。

 追い打ちをかけるように、寛文7年(1667年)には支笏湖の南の樽前山が大噴火を起こし、またもシュムクルの領域に大量の火山灰が降り注ぎます。火山噴出物による河道閉塞も起き、飢えたシュムクルはますますメナシクルの領域へ押し寄せ、同年にはオニビシの甥のツカコホシがシャクシャインの息子カンリリカに殺されます。怒ったオニビシは賠償請求を行いますが先延ばしにされ、手下90人余を率いてシャクシャインの家に交渉に赴きます。

 この頃、静内に砂金掘りの文四郎という和人が住んで顔役となっており、オニビシは彼に説得され、シャクシャインから賠償品を受け取って帰りました。しかしシュムクルとメナシクルの対立は解決せず、オニビシは静内川の西側にチャシ(砦)を築いて警戒しています。翌寛文8年(1668年)4月、オニビシはシャクシャインとの交渉のため再び文四郎の家へ立ち寄りますが、数十人を率いて来たシャクシャインにより殺害されます。

寛文蜂起

 首長オニビシを殺されたハエクル・シュムクルたちは、松前藩に使者を遣わして調停を求め、また報復のために武器の提供を希望します。松前藩側は報復の連鎖が起こり事態の悪化に繋がるとしてこれを拒否しますが、シュムクルの使者でオニビシの姉婿であったサル(沙流郡)の首長ウタフが帰り道で体調を崩し、死亡します。記録に拠ると疱瘡(天然痘)であったようですが、「和人に毒殺されたのだ」との噂が広まり、大騒ぎになります。

 シャクシャインはこれに乗じて、シュムクルに和人に対する報復・共闘を持ちかけます。もとをただせば和人がアイヌに多大な要求をしたことが部族抗争の火種になったのですから、シュムクルは賛同してメナシクルと和解しました。共通の敵を持つことで長年の抗争に終止符が打たれたのです。シャクシャインの呼びかけは交易路を介して他のアイヌ部族集団にも伝えられ、東は釧路の白糠から、西は天塩の増毛に至る多数の部族が呼応します。

 寛文9年(1669年)6月、石狩を除く蝦夷地全土でアイヌの一斉蜂起が勃発しました。その数は2000人におよび、各地の商場や砂金掘りの集落が襲撃され、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺戮されました。驚愕した松前藩では家老の蠣崎広林が兵を率いて長万部の国縫くんぬいに出陣し、シャクシャイン軍を防がせつつ幕府へ急報を伝えて支援を求めます。幕府は津軽・南部・秋田の3藩に出兵準備を命じ、旗本で松前藩主の一族である松前泰広を指揮官として派遣しました。

 シャクシャインらアイヌ軍は狩猟民族として弓矢を主な武器としていましたが、勝手知ったる故郷ゆえ地の利があり、毒も罠も使うため侮れません。また和人との交易で火縄銃27丁を所有しており、対する松前軍は16丁しか持っていなかったため、津軽や南部から借り受けて70丁としています。戦闘は8月上旬まで続きましたが、内浦アイヌと石狩アイヌ・余市アイヌは中立を保って様子をうかがったため、シャクシャイン軍は静内まで後退して長期戦に備えます。やがて援軍を率いた松前泰広が到着して国縫の部隊と合流し、アイヌの分断をはかって恭順させたため、シャクシャインは孤立しました。

 松前軍はシュムクルの領域である厚真・沙流・新冠に陣営を築いたのち、戦いの長期化を恐れてシャクシャインに使者を送り、賠償品を支払えば助命すると告げます。彼はこれに応じて新冠の陣営に出頭しますが、酒宴の席で騙し討ちにされます。他の首長たちも同様に騙し討ちにされ、乱は同年のうちにおおよそ鎮まります。松前藩は翌年には余市に出陣してハウカセたちを恭順させ、大きな部族集団を解体・細分化して、蝦夷地における権力基盤を固めました。これより120年後の寛政元年(1789年)に至るまで、蝦夷地では大規模なアイヌの反乱はなくなります。

◆Over◆

◆ride◆

【続く】

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