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【つの版】ウマと人類史31・上帝之鞭

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 古代編の締めくくりとして、フン族の大王アッティラと、その後のフン族について見ていきましょう。

◆AKIRA◆

◆AKIRA◆

上帝之鞭

 アッティラ(Attila)という名を東ゲルマン系のゴート語やゲピド語で解釈すれば、atta(父)に指小辞 -ila を加えたもので「小さい父」「父ちゃん」「おやっさん」ほどの意味です。attaは印欧祖語にまで遡り、ヒッタイト語やギリシア語にもあるほどで、英語のdad(父)と同語源です。dadに指小辞をつけたのがdaddyですから、アッティラはダディ(父ちゃん)の意です。

 テュルク語es-til(大きな海)やatli(騎兵)、at-dil(馬の舌)だとの説もありますが、あまり支持されていません。この頃のフン族は、出自がテュルク系やモンゴル系だとしてもゴート族やアラン人の影響が強かったらしく、フン族の王がゴート系の名を持っていても不思議はありません。トルコ人がメフメト/ムハンマドというアラビア系の名を持ったり、英国人がジョージ/ゲオルギオスというギリシア系の名を持ったりもするではありませんか。

 アッティラの名は周囲に「おやっさん、オヤブン」としてそう呼ばれていたからなのか、本名なのかすら判然としませんが、父親に似ていたから「小さな父」と呼ばれたのでしょうか。彼は前述のとおりムンズク(Mundzuk)の子で、兄にブレダ、伯父にルーア、叔父にオクタルがいます。それ以上は系譜が遡れません。彼らの名はテュルク系っぽくはあります。

 彼の生年も不明ですが、391年頃に生まれたアエティウスとは幼馴染だったそうですから、その頃でしょうか。また15年も年齢が離れていて406年頃の生まれともいいます。父は早くに死んだようで、叔父オクタルが430年頃に、伯父ルーアが434年に逝去すると、兄とともに王位を継ぎました。391年生まれとすれば43歳のおっさん、406年生まれなら28歳のおっさんです。

 ブレダとアッティラの兄弟は東ローマ皇帝から莫大なカネをせびりとり、436年にはブルグント王国を滅ぼすなど、ドナウ川北岸を自在に往来して東西ローマ帝国ににらみをきかせていました。どちらが東でどちらが西を担当したかわかりませんが、当時のフン族の根拠地はパンノニア(ハンガリー)にあり、ブダペストのブダ地区はブレダの名にちなむともいいますから、ブレダが東でアッティラが西でしょうか。

 パンノニアとは、カルパチア山脈とディナル・アルプス山脈、アルプス山脈に囲まれた広大な盆地で、10万km2に及ぶ大平原を中央部に持ちます。ヨーロッパの中央部にありつつ遊牧適地で、古来多くの遊牧民がここに住まいました。フン族の後はアヴァール人が割拠し、その後はマジャル人がやってきてマジャル/ハンガリー王国(ウンガリア)を建国しています。

 445年にブレダが逝去すると、アッティラが兄の王国も受け継ぎます。スキタイや匈奴のように三つに分けるとすれば、ブダペストを単于庭としてパンノニアが単于領、ルーマニアやモルドバ、ウクライナが左賢王領、オーストリアや南ドイツが右賢王領となるでしょうか。おそらくアッティラの帝国はドナウ川流域に限られ、クリミアや北カフカース、ヴォルガ川から東には別の王国があったのでしょう。スキティアのようにウクライナに本国があるのなら、彼がいるパンノニアは西に寄りすぎています。

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 だとしても、彼の帝国は甚だ強力でした。経済的には東西ローマ帝国からの略奪品(や貢納・交易)に依存していますが、遊牧民のオヤブンたるもの手下に気前よくそれらを分配するのが仕事で、ケチケチして私腹を肥やすなどもってのほかです。そのためには絶えず周辺諸国へ軍事的圧力をかけ、ミカジメや戦利品をとり続けねばなりません。衰えたりといえどローマ帝国は大文明国には違いなく、富や人口も遊牧民とは桁違いです。

 447年、アッティラはドナウ川下流部を渡って下モエシア(ブルガリア北部)に侵入し、黄金6000リブラの貢納を滞納していると東ローマを脅しました。ゴート系の将軍アルネギスクルスはマルキアノポリス(現ヴァルナ近郊)から出撃して迎撃しますが、ユトゥス(ヴィート川)の戦いで敗れ、マルキアノポリスはフン族に破壊されます。フン族はさらに南下してトラキア地方の諸都市を荒らし回り、帝都コンスタンティノポリスに迫ったのち、ギリシア本土に侵攻してテルモピュレーまで到達しました。ローマ人はこの恐るべき蛮族の大王を恐れ、神が人類を罰するために遣わしたとし、「神の鞭(ラテン語:Flagellum Dei)」と呼んだといいます。

 皇帝テオドシウス2世はやむなく黄金を貢納しますが、アッティラは要求をエスカレートさせ、シンギドゥヌム(ベオグラード)から東は海に達するまでのドナウ川南岸地域に幅5日ぶんの空白地を設けよと言い出しました。449年、皇帝は彼と外交交渉を行うべく使節を派遣し、彼の側近のオネゲシウスやエデコに接触して妥協策を協議しました。実は大使らはエデコをカネで買収してアッティラを暗殺させようとしたのですが、エデコはカネを受け取っておいて主君に報告し、激怒した彼は大使らを酷く罵ったといいます。

 この使節団の中にいたパニオンのプリスコスは、アッティラに直接謁見しており、彼やフン族について記録を残しています。それによれば、アッティラは筋肉質で背が低く頭が大きく、くすんだ黄色い顔、低い鼻、浅黒い肌を持っていました。両目とも斜視で、口ひげは薄く、あごひげには白毛が混じっていました。406年生まれとしてもこの時43歳、391年生まれなら58歳の老人ですから、白髪交じりの年齢だったのでしょう。その宮廷は豪奢な分捕品で満ちていましたが、彼自身は質素な木製の食器を用い、清廉であったといいます。またフン族は自分たちの言語のほかゴート語やギリシア語、ラテン語を用い、その統治はローマよりも明快で優れているとして、祖国へ帰ることを望まないローマ人もいたそうです。漢と匈奴のようですね。
 ローマ人貴族フラウィウス・オレステスは、ローマ帝国がフン族にパンノニアを割譲した時、自分の所領があるためそこに残り、アッティラに仕えました。彼は書記官として対ローマ外交で活躍しています。アッティラの死後は西ローマ帝国に仕え、息子を最後の西ローマ皇帝に擁立しました。
 またプリスコスの伝説によれば、ある羊飼いが土中から剣を掘り出して彼に献上しましたが、アッティラは「これは勝利を約束する軍神(マルス)の剣だ」と喜んだといいます。ヘロドトスはスキタイが軍神の御神体として剣を祀っていたと記録していますから、それと関係があるのでしょうか。

西方進軍

 この頃、西ローマ皇帝にはウァレンティニアヌス3世が在位していましたが、実権は将軍アエティウスが握っていました。彼はアッティラ率いるフン族と友好関係にあり、秘書官コンスタンティウスを送ってオレステスともどもパイプ役としていたようです。しかし450年春、ある事件が起きます。

 ウァレンティニアヌスの姉ホノリアは31歳になっていましたが、弟の命令により独身でした。彼女は執事を愛人としましたが、皇帝の姉にふさわしくないとして、バッスス・ヘルクラヌスなる元老院議員と結婚するよう命じられます。腹を立てたホノリアは、自分の指輪に手紙を添えてアッティラのもとへ送り、「望まぬ結婚から助けてほしい」と要請したのです。アッティラは「皇女がわしに求婚したのだ」と解釈し、西ローマ帝国の半分を持参金として寄越すよう皇帝に要求しました。皇帝は仰天し「無効である」と告げましたが、アッティラは引き下がらず、西へ移動して圧力をかけます。

 同年7月、テオドシウス2世は落馬事故により崩御します。この時、有力な将軍アスパルが自分の部下マルキアヌスを帝位につけ、先帝の姉を娶らせました。アスパルとマルキアヌスは対フン強硬派で、貢納の支払いを停止して国内の財政再建につとめましたから、アッティラはより弱体で貢納や戦利品が望めそうな西ローマ帝国や西ゴート王国へ目をつけたのです。ヴァンダル王ガイセリックも西ゴート攻撃を求める使者を送っていました。

 ホノリアは幽閉され、彼女と皇帝の母プラキディアは心労のあまりか11月に60歳で世を去り、西ローマ帝国は風前の灯となります。慌てたアエティウスは和平を求めますが突っぱねられ、フランク族の後継者争いにおいても対立します。ついにアッティラはフン、ゲピド、東ゴート、ルギイ、スキール、ヘルール、テューリンゲン、アラン、ブルグントその他の従属諸族を率いて西方へ進軍を開始しました。その数は50万にも達したといいます。

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 451年、アッティラの軍勢はストラスブール、ボン、マインツなどライン川沿いのローマ都市を次々と攻め落とし、マインツで兵を二つに分け、一方はモーゼル川沿いにトリアー、メッツを占領、西へ進んでランス、パリを落とします。他方は北へ進んでケルンを陥落させ、西へ進んでフランク族の割拠するベルギー各地を蹂躙、セーヌ川を渡ると6月にはロワール川沿いの都市オルレアン(ケナブム・アウレリアニ)を包囲します。ここが落ちればアッティラ軍はガリア中南部まで攻め込み、西ゴート王国までやって来ます。少なくともアルプス山脈から北はフン族のものになるでしょう。

 オルレアン付近には408年頃からアラン人が駐屯しており、サンギバン王に率いられて籠城、イタリアへ救援を要請します。アエティウスはフランク、ブルグント、アルモリカ(ブルターニュ地方の部族)、西ゴート王テオドリックらと同盟し、オルレアンを救出すべく北上します。アッティラは包囲を解いて後退し、6月20日にカタラウヌム(現シャロン=アン=シャンパーニュ)で大会戦が勃発しました。

 この時、アッティラは中央に陣取ってフン族の騎兵を率い、右翼には東ゴート族とゲピド族、左翼にはテューリンゲンなどゲルマン系諸族が配備されました。アエティウスはサンギバンが率いるアラン人の騎兵を中央に置き、自らは右翼にあってローマに従う諸部族の兵を率い(西ゴート王子トリスムンドが率いたとも)、テオドリック率いる西ゴート軍を左翼に配します。この戦いでテオドリックは戦死しますが、アッティラ軍も打撃を受けて陣営に戻ったところを包囲され、兵糧不足により撤退しました。

 452年、パンノニアに戻ったアッティラは、矛先を変えてイタリア半島に侵攻します。ハンガリーからイタリアへは、スロベニアやオーストリアのジュリア・アルプス山脈を越えればすぐです。アドリア海沿岸の都市アクイレイアは劫略され、ミラノに至るポー川北岸の諸都市はフン族の大軍に蹂躙されます。逃げ惑う人々は海上の沼沢地や干潟へ逃げ込み、杭の上に家を築いて家族や財産を守りましたが、これがヴェネツィアの起源です。

 しかしアッティラ軍にはゲリラと疫病と飢饉が襲いかかり、ポー川を渡ることはできませんでした。皇帝はラヴェンナを脱出してローマへ逃げた末、ローマ司教レオを使者として派遣し、貢納を支払って撤退させます。中世には「大教皇レオの説得でアッティラは去った!」と喧伝されますが、権威付けの与太話に過ぎません。帰国したアッティラは、またも東ローマ帝国侵攻を企図し、皇帝マルキアヌスに貢納再開を要求します。君臨し分配すれども統治は出来ない彼にとって、東西ローマ帝国は金づるに過ぎませんから、攻め滅ぼして支配下に置こうという考えはありません。

帝国瓦解

 しかし453年春頃、アッティラは突然死にました。彼はイルディコという美女を何人目かの妃として結婚し、祝宴をあげていたところでしたが、酔っ払って寝ている時に大量の鼻血を出して窒息死したというのです。406年生まれとすれば47歳、391年生まれなら62歳での死でした。死因は毒殺とも暗殺とも、イルディコによる復讐とも言われますが、過度の飲酒で脳溢血を起こしたのでしょう。イルディコがその後どうなったかは伝わりません。

 記録によると、アッティラの死後は長男のエラク(Ellak,「王」の意)が跡を継ぎ、弟たちとの争いに勝ってパンノニアに君臨しました。しかし454年にはゲピド族の長アルダリックが反旗を翻し、東ゴートなど従属部族たちが彼のもとに集い、ネダオ川(サヴァ川)のほとりで戦いを挑みます。この戦いでフン族は敗れ、エラク王は戦死し、フン族の覇権は潰えたのです。

 東ゴート族の有力者ティウディミールらは東ローマへ使者を派遣し、フン族に代わってパンノニアの領有権を認められます。その東のトランシルバニア地方はゲピド族が領有し、その他の諸部族も各地に割拠して、フン族の残りは東ローマ領内や黒海北岸へ去って行きました。アッティラの子らのうちデンキジックとイルナックが彼らの王とされます。同年にはアエティウスが西ローマ皇帝に疑われて殺され、翌年皇帝も殺されています。

 こうしてフン族の帝国は瓦解しました。黒海北岸にはクトリグル、ウトリグル、オグル、サダギルなど様々なテュルク系部族連合が興り、ブルガールもそのひとつとされますが、後世に作られた系譜はさておき、直接フン族の末裔というわけではありません。9世紀末にパンノニアを征服して国を建てたマジャル人は自らをフン族の末裔と称していますが、時代が離れすぎており、ナショナリズム界隈はともかく学術的にはあまり認められていません。

 ゲルマン系諸族の間では、アッティラの帝国やブルグント王国の滅亡などが叙事詩として語り伝えられました。叙事詩において彼はアトリやエッツェルと呼ばれ、ブルグントの王女グズルーン/クリエムヒルトを娶ったといいます。彼女はグンナル/グンテル(グンダハール)の妹で、英雄シグルズ/ジークフリートの妻でしたが、兄によって夫を暗殺され、復讐のためにフン族の王と再婚しました。そしてその力を持って祖国を滅ぼしたのち、アトリ/エッツェルをも暗殺したというのです(様々なヴァリエーションがあります)。イルディコとアッティラの死に関する話が膨らんだものでしょう。

 匈奴の末裔かも知れないフン族は消えていきましたが、テュルク系の言語話者である騎馬遊牧民の集団は、中央ユーラシア全域に拡散していきます。こうした混沌の中からブルガールやハザール、突厥が出現するのです。

◆洪◆

◆匈◆

【続く】

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