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【つの版】ウマと人類史:近世編23・哥薩大乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 コサックたちがシベリアの彼方のオホーツク海やアムール川まで到達し、清朝と小競り合いを繰り広げていた頃、モスクワ・ロシア帝国は西のポーランドと戦っていました。

◆Ще не вмерла◆

◆України◆


哥薩大乱

 ミハイル・ロマノフの子アレクセイは、教育係ボリス・モロゾフを宰相としてモスクワ・ロシア帝国を統治しました。彼の時代には中央集権が進められ、ツァーリ直属の側近や軍人が重用され、貴族会議や全国会議は骨抜きにされます。1649年には都市民と農民から移動の自由が剥奪され、貴族や聖職者が免税特権を利用して商人を保護することも禁じられ、聖職者が新たな土地を取得することも大幅に制限されました。

 また塩税などを課しての経済改革も行われますが、民衆の不満のために反乱を招き、これによりモロゾフらは一時失脚しています。外国商人の招致も進められ、1652年にはモスクワ郊外に居留地が設けられました。こうした中、隣国ポーランドで大反乱が勃発します。

 1648年、ポーランド領南東部の辺境地帯に住むコサックたちがフメリニツキーを首領として反乱し、クリミア・ハン国とも同盟して、ポーランド本国を脅かすほどの勢力となりました。彼らは自らの国を「ウクライナ(国)」と称し、1649年にはポーランド王から自治領として認められます。

 ウクライナとはスラヴ諸語で「境界(kraj)の内側(u-)」を意味し、『原初年代記』にもルーシ諸国の中枢をなすペレヤースラウ公国の範囲を示す語として現れますし、ルーシ諸国がリトアニアやポーランドに征服されると、その部分(クリミア・ハン国を除く現ウクライナの大部分)を指す語として用いられています。ポーランド語やロシア語では「境界(kraj)の(o-)」を意味する「オクライナ」と混同され、「あいつらは辺境の民だ」と蔑視しますが、キーウの盛んなりし頃のモスクワこそド辺境でした。

 正式な国号は「ザポロージャのコサック軍」ですが、歴史的にはコサック国家、あるいはヘーチマン国家(ヘーチマンシュチナ)と呼ばれます。ヘーチマンとはコサックの(かしら)を指し、ポーランド語のへトマン、ドイツ語のハウプトマン、英語のキャプテンに相当します。アタマン/オタマーンという呼び名もありますが、これはテュルク諸語に由来し、オスマン帝国の始祖オスマンも本名はオットマンでした。

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 この国家は現在のウクライナより小さく、南にはクリミア・ハン国とオスマン帝国、モルドバ公国があり、西と北はポーランド・リトアニア連合に囲まれ、リヴィウあたりはまだポーランド領でした。フメリニツキーらはポーランドに代わる同盟国(保護国)を求め、モスクワ・ロシアとオスマン帝国にそれぞれ使節団を派遣します。

 モスクワは北カフカースへのサファヴィー朝の侵略もあってポーランドとの戦争再開を好まず、了承しませんでしたが、オスマン帝国はクリミアと同様の保護国とすることを了承、1653年5月に使節団を派遣してフメリニツキーに標章を授けました。しかしコサックらの大部分は正教徒であったうえ、クリミアもポーランドに寝返っており、イスラム教徒のスルタンの下につくよりは、むしろモスクワと結んだがよいとの意見が強まります。

 1653年10月、モスクワ・ロシアはコサック国家ウクライナへ使節団を派遣し、ポーランドと断交してウクライナをロシアの保護国にすることを約束しました。1654年1月に両者の間で条約が結ばれますが、キエフ府主教らツァーリへの臣従誓約を拒む勢力も多くおり、一枚岩とはいきません。それでもこれによってモスクワ・ロシアはポーランドを完全に敵に回し、場合によってはクリミア・ハン国やオスマン帝国、スウェーデンなどとも戦わねばならなくなります。深入りすればロシアはまたも大損をこきかねません。

露波戦争

 1654年7月、ロシア軍4万余がポーランド国境を突破し、ドニエプル川上流を抑える要衝スモレンスクを包囲します。また南のブリャンスク、北のプスコフからベラルーシへ侵攻し、リヴォニアにもロシア軍が攻め寄せ、フメリニツキーらはロシア軍とともに西のヴォルィーニ地方へ攻め込みます。ポーランドはクリミアと組んで抵抗しますが、ロシア・ウクライナ連合軍の勢いを押し留められず、9月にスモレンスクは陥落し、1655年7月にはミンスクとヴィリニュスが陥落、9月にはリヴィウ、ブレストが攻撃され、ルブリンにフメリニツキーが入城しました。

 さらにこれに乗じて、スウェーデン王カール10世グスタフがポーランドに襲いかかります。スウェーデン軍はポーランド貴族の手引きでワルシャワ、クラクフをはじめポーランド領をほぼ征服し、国王ヤン2世はシロンスク(シレジア)に亡命する有様となります。スウェーデンはロシアにポーランド分割を持ちかけますが、ロシアはリヴォニア獲得のため11月にポーランドと休戦&同盟し、スウェーデンに対して宣戦布告します。

 これに対し、フメリニツキーはスウェーデンやオスマン帝国と結んでロシアと手を切ろうとしますが、1657年8月に急死します。スウェーデンはデンマークとの戦争も始まってポーランドから撤退し、残されたコサックたちは再びポーランドと手を結んでロシアに抵抗します。そこでロシアは1658年10月にスウェーデンと休戦すると、ポーランドとの戦争を再開します。

 1660年、ポーランドはスウェーデンにリヴォニアを割譲して休戦し(プロイセンもこの時ポーランドから独立)、コサックやクリミアとともにロシアに立ち向かいます。ロシア軍は占領したスウェーデン領から追い出され、ジリジリと戦線を下げつつ持ちこたえ、1667年にポーランドとアンドルソヴォ条約を結んで休戦します。

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 これによりコサック国家はドニエプル(ドニプロ)川を境に東西に分割され、ロシアはベラルーシとドニエプル右岸(西側)を返還し、20万ルーブル/100万ズウォティを支払う代わりに、ドニエプル左岸(東側)およびキーウとスモレンスクを獲得しました。

露波土争

 長年に及んだ戦争の末に、コサック国家ウクライナはポーランドとロシアに分割され、自治権も剥奪されてしまいます。ポーランドは「大洪水(ポートプ)」の時代と呼ばれるこの戦乱で荒廃し、ウクライナは「荒廃(ルイーナ)」の時代を迎えます。さらに右岸コサックのドローシェンコは、自分たちに相談もなくポーランドとロシアが自国を分割したことに憤り、ついにオスマン帝国と手を結んで両国に抵抗しました。

 1666年にはコサックとポーランド側タタールの、1672年にはポーランドとオスマン帝国の戦争が始まります。ポーランド王ヤン2世は1668年に退位し、新王ミハウが即位しますが弱腰外交に終始し、軍司令官のヤン・ソビェスキが議会の支持を受けて戦争を継続しました。1674年にミハウが逝去するとソビェスキが国王に選挙されます。

 彼は果敢に戦ってタタールやトルコを撃ち破り、1676年にオスマン帝国と和平条約を結ぶと、軍制改革に取り組んで疲弊したポーランドを建て直します。ドローシェンコらはロシア派に敗れて孤立し、同年9月にロシアに降伏します。しかしオスマン帝国は、フメリニツキーの子で捕虜としていたユーリーを傀儡ヘーチマンとし、右岸ウクライナに侵攻しました。

 ロシア・ウクライナ連合軍はオスマン軍を撃破しますが決着はつかず、1681年にバフチサライ条約を結んで停戦しました。両国の国境線はドニエプル川とされ、ロシアはクリミアに朝貢すること、コサックやタタールはドニエプル川を自由に往来できることなどが取り決められます。

 ロシアでは1676年にツァーリ・アレクセイが崩御し、子のフョードルが在位していましたが病弱で、重臣たちによって政治が牛耳られていました。1682年にフョードルが崩御すると重臣同士が権力を争い、フョードルの弟ピョートルが10歳でツァーリに擁立され、重臣ゴリツィンが実権を握ります。

 オスマン帝国は西へ目を向け、ハンガリーでの反乱に乗じて大軍を派遣、第二次ウィーン包囲を行います。しかしソビェスキらの援軍が敵陣に騎兵突撃して撃ち破り、オスマン軍は這々の体で撤退しました。ヨーロッパ諸国はこれを契機として対オスマン神聖同盟を締結、大トルコ戦争が始まります。

 ソビェスキは1686年にロシアを神聖同盟に加盟させ、見返りとしてアンドルソヴォ条約で結んだ国境線を固定します。ウクライナのコサック国家はポーランドとロシアに分割されて各々の自治領となり、国際的に独立を見捨てられたのです。ウクライナが独立国家となるのは、これより230年あまり後の1917年、ウクライナ人民共和国の成立によります。

 キーウ/キエフやスモレンスクの獲得は、ロシアに西欧の先進文明をもたらしました。幼いツァーリ・ピョートルは親政を開始すると国政改革を進め、ロシアを西欧列強と並ぶ近代国家へと発展させることになります。

◆露◆

◆西◆

【続く】

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