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【つの版】度量衡比較・貨幣160

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1770年代前半、欧州ではフランスとオーストリアが同盟し、ポーランドがロシア・プロイセン・オーストリアに分割され始めます。英国はインド東部を制圧したものの、北米植民地で課税に関する問題から反英感情が高まり、独立戦争に発展しました。その経緯を見ていきましょう。

◆米◆

◆国◆


大陸会議

 英国から独立することになる13の北米植民地は、成立の経緯も入植者も経済基盤も多様で、統一政府は存在しませんでした。大きく北部/ニューイングランド(ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット)、中部(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア)、南部(メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア)に区分され、総人口は黒人奴隷を併せても300万人に満たず、その全てが反英独立派とは言い難い状態です。

 1774年9月5日、ジョージアを除く12植民地の代表はペンシルベニアの都市フィラデルフィアに集まり、第一回大陸会議を開催しました。これは1765年に9植民地の代表が集まって開催された印紙法会議を先例とし、英国議会から押し付けられた懲罰的な一連の諸法案「耐え難き諸法」に対抗するために開かれたものです。しかして、議論は紛糾します。

 ペンシルベニア代表のジョセフ・ギャロウェイは、独立ではなく英国との妥協を提案します。印紙法・タウンゼンド諸法・耐え難き諸法などには不法であるとして反対でしたが、独立を選べば戦争が起きて双方が損失を被りますし、英国が保証する自由や権利、軍事力や経済的恩恵が得られなくなります。ならば北米植民地連合からも英国議会に代表を送り込み、あるいは連合議会を設立して本国に政治的圧力をかけ、英国の臣民として不法を正し、内側から改革を行えばいいわけです。この意見は保守派から支持されました。

 10月20日、大陸議会は「同盟規約(Continental Association/大陸同盟)」を締結し、英国とのすべての貿易をボイコットして経済的圧力をかけ、「耐え難き諸法」の撤廃を求めました。これは同年12月1日から発効し、翌1775年9月10日までに諸法が撤廃されない場合に有効となると定められます。これにより英国とその植民地は経済的打撃を被りますが、北米植民地自体も貧窮に陥れるため、質素倹約や植民地内での産業発展が奨励されました。また1775年5月には第二回の大陸会議が開催されるとも決定されます。

 これに対し、ヴァージニア植民地議会の議員パトリック・ヘンリーは英国の支配に対する抵抗運動を呼びかけ、1775年3月には「我に自由を与えよ、しからずんば死を」という語句で結ばれた有名な演説を行いました。他の議員らの反対により武装蜂起は否定されたものの、まもなく英国軍と植民地民兵との間で本格的な武力衝突が勃発します。

英米衝突

 1775年4月19日、英国軍はボストン北西のコンコードにあったマサチューセッツ植民地民兵部隊の武器庫の接収作戦を開始します。同様の武器接収作戦はしばしば行われてきましたが、今回の動きは事前に民兵側に察知されており、彼らは軍需物資のほとんどを安全な場所に移したのち、武装して待ち構え迎撃を行います。激しい銃撃に劣勢となった英国軍はボストンへ撤退しますが、反乱を起こした民兵たちは追撃して多数の英国兵を殺戮し、そのままボストンを包囲します。植民地総督トマス・ゲイジ率いる英国軍は4000人ほど、反乱を起こした民兵は6000から8000人に達しました。

ボストン周辺地図

 ボストンは半島の突端にある港町で、民兵たちは半島の付け根を占領したものの、制海権は英国海軍が握っていたため海上補給は容易でした。ゲイジは守りを固めつつ英本国へ援軍を要請しますが、北米植民地ではこれに呼応して相次いで民兵による武装蜂起が起き、独立戦争が始まりました。

 5月10日、民兵たちは防備が手薄だったニューヨーク北方の英国軍の砦を占領し、銃や大砲を接収します。同日に開催された第二回大陸会議は、各地で勃発する民兵の蜂起を押し留めることはできず、北米植民地同盟の意思決定の主体とならざるを得ませんでした。しかし民兵たちは英国軍の正規兵に比べて数は多かったものの訓練でも装備でも劣り、指揮系統も一本化されておらず、英国軍が本腰を入れて鎮圧に乗り出せば敗北は必至です。

 1775年6月14日、大陸会議は植民地連合を防衛するため「大陸軍」の創設を決定し、翌日ヴァージニア出身の軍人ジョージ・ワシントンを総司令官に任命しました。彼は中流郷紳ジェントリである農園主の出自で、フレンチ・インディアン戦争では民兵を率いて戦い、戦後は裕福な農園主および植民地議会議員として活動していました。1732年生まれですからこの時43歳、年齢でも実績でもカリスマ性でも問題ありません。彼は当初は固辞しますが7月3日に就任し、アメリカ独立戦争の指揮をとることになります。

 6月17日、ボストンの英国軍は増援を加えて反撃態勢を整え、「大陸軍」による包囲網に果敢な突撃をかけます。これにより敵将ジョセフ・ウォーレンを討ち取り、半島部から敵軍を撃退しますが、双方に大きな被害が出ました。大陸軍はボストンの北のケンブリッジに撤退し、ニューヨークまで来ていたワシントンらの到着を待ちます。しかしこれ以後は双方攻めあぐね、大陸会議は英国との和平交渉を行い始めます。

 7月8日、大陸会議は「謙虚な請願」を作成して署名し、英国王ジョージ3世宛に上奏しました。起草者はヴァージニア出身の議員トマス・ジェファーソンですが、ペンシルベニア出身の議員で穏健派のジョン・ディキンソンらに書き直され、一連の問題の元凶は国王ではなく「無責任な閣僚たち」にあるとしました。また北米植民地は独立を望んではおらず、貿易と課税の問題について英国政府と話し合いたいだけであって、国王自ら問題解決のための計画書を作成して欲しいと請願しています。これはノアの方舟の逸話に因んで平和を求めるための「オリーブの枝の請願」とも呼ばれました。

 しかし、マサチューセッツ出身で急進派のジョン・アダムズはこの請願に不満を抱き、友人に宛てて「戦争は不可避だ」「海軍を組織し、英国の役人を捕獲すべきだ」と書き送ります。彼の手紙は英国側に押収され、「謙虚な請願」と同時期にロンドンに到着しました。英国政府は2つの文書を見比べて「何が『謙虚な請願』だ、不誠実極まる」と非難し、国王も請願を拒絶します。はからずもアダムズの予想通りになったわけです。

 8月下旬、大陸会議は英領カナダへの侵攻作戦を開始します。英国領になってから日も浅く、フランス系住民や先住民も多くいたため、彼らを反英国派に加わるよう説得して味方につけ、戦力を増やすのが目的でした。しかし彼らの多くは中立を保ち、大陸軍は英国軍が撤退したモントリオールを占領したものの、ケベックに集結した英国軍に迎撃されて大打撃を被りました。厳しい冬にも苛まれて大陸軍は苦戦し、大陸会議は別の手を探ります。

米仏接近

 1776年3月、ボストンから英国軍が撤退した頃、大陸会議はコネチカット出身の議員サイラス・ディーンを公使として欧州の大国フランスに派遣し、支援を要請させました。この頃のフランスはどうなっていたのでしょうか。

 ボストン茶会事件の翌年、1774年5月にフランス国王ルイ15世が天然痘により64歳で崩御しました。5歳で即位し59年もの間在位しましたが、在位の後半はオーストリア継承戦争や七年戦争に敗北して多くの海外植民地を喪失し、王太子や王妃にも先立たれて失意の晩年を過ごしています。また国政を顧みず公妾や寵臣に政治を委ね、国庫を何度も破綻させながらも贅沢三昧をやめなかったため、国民は国王と政府への信頼を失っていました。

 ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人、国政を牛耳っていたデギュイヨン公は宮廷から追放されましたが、跡を継いだルイ16世は19歳の若者です。王妃マリー・アントワネットとの間にはまだ子が産まれず、国内での立場は「絶対王政」には程遠い有り様でした。即位翌年には食糧危機に関する暴動が起きてヴェルサイユ宮殿を8000人の暴徒に包囲されています。かような体たらくでは、遠く北米の英国植民地で起きた独立運動を支援するどころではありません。英国を敵に回して戦争でも起こせば財政破綻待ったなしです。

 この頃、ボーマルシェという怪しげな男がいました。彼は本名をピエール=オーギュスタン・カロンといい、パリの中流時計職人の出身でしたが、1754年に21歳で王室御用達の時計職人となり、ルイ15世の王女たちの音楽教師となって立身出世を遂げた人物です。彼は王家や貴族、富豪らの信頼を得、外交官・実業家・劇作家としても活躍しましたが、数年前に遺産相続騒動に巻き込まれて公民権を剥奪され、国王の私設外交官として活動していました(フランスの女装スパイとして有名なシュヴァリエ・デオンと機密文書を巡って交渉していたのもこの頃です)。

 ボーマルシェは英国でペンシルベニア出身の法律家アーサー・リーと知り合い、英国の北米植民地に関する情報をリークされ、独立運動に協力するよう要請されます。そこで彼はフランスの外務大臣ヴェルジェンヌに報告書を書き送り、こう呼びかけました。「反乱軍がこのまま敗北すれば『見殺しにされた』とこちらを恨み、英国と結託して攻めてくるでしょう。そうなればこちらの敗戦は必至で、英国との国力差は開くばかりです。そうならないためには反乱軍を支援するしかありますまい。けれど正面切って英国と戦う余裕はまだありませんから、支援は極秘に行わねばなりません。それには英国の情報を正確に掴む必要があり、その任務にふさわしいのは私だけです」。要は大任を授かって活躍したいとの自己アピールですが、ヴェルジェンヌはこれに同意するようになり、国王も消極的ながら賛成しました。

 ボーマルシェはサイラスたちと協議し、フランスとスペインの両ブルボン家から200万リーヴルを融資され、さらに民間から出資者を募って貿易商社を設立します。そしてあくまで「彼個人の事業」という形で武器弾薬や義勇兵を集め、アメリカへ送り届けることにしたのです。この支援事業は英国の抗議やアメリカ側との意見の行き違いで難航しましたが、英国からの独立戦争に突入したアメリカは、世界で初めて外国からの支援を受け取ることになり、大いに勇気づけられました。

 そしてこの頃、大陸会議は英国から独立して独自の国家を樹立することを決定し、1776年7月4日に独立宣言を採択しています。国号は英国の支配から独立した邦(State)の連合体=「United States of America(略称U.S.A.)」すなわち「アメリカ合衆国」と定められました。これより英国は植民地の反乱軍ではなく、アメリカ合衆国という新国家と戦うことになったのです。

◆米◆

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【続く】

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