【つの版】度量衡比較・貨幣161
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1775年、北米植民地では英国の支配に反抗する民兵の武力蜂起が勃発し、翌年7月に独立を宣言して国号を「アメリカ合衆国」としました。アメリカはフランスなど欧州諸国に支援を求め、独立戦争を継続します。ここで少し立ち止まり、アメリカ独立の経緯や意義について見てみましょう。
◆Anarchy in◆
◆the U.S.A.◆
米合衆国
United States of Americaという語句は、独立宣言の半年前の1776年1月2日に、大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンの副官スティーブン・モイランにより、ワシントンの親友ジョセフ・リードへの手紙に書かれたのが初出とされます。ついで4月6日にはバージニア州の新聞(ガゼット)に匿名で書かれたエッセイに現れ、最初に公開出版された例となりました。これが6月に独立宣言の草稿に採用され、7月4日の最終版にも用いられたのです。
それ以前、1775年5月の大陸会議では「United Colonies(植民地連合)」が採択されていました。colonies/単数形colonyはラテン語Colonia(耕作地)に由来し、入植地・植民地と意訳されます。ただ英国から独立するとなると、本国からの移民により建設されたことを含意するcolonyでは少々具合がよろしくありませんし、国王がいないのでkingdom(王国)とも名乗れません。そこでstateという語が持ち出されます。
stateはラテン語status(立つ、態度、姿勢、立ち位置、状態)に起源を持つ語で、14世紀頃には「政治的態度」転じて「(独立した)国家」の意味となります。英国から独立した主権国家としてやっていこうというのですからふさわしいでしょう。こうしてcoloniesはStatesに置き換えられ、それらが連合しているものとしてUnited Statesと呼称されたわけです。
なおバージニアはstateではなく、ラテン語res publica(公共のもの)を直訳した「Commonwealth(公衆の財産、共和国/共同体)」を名乗り、ペンシルベニアやマサチューセッツ(当初はstate)、1785年にバージニアから独立したケンタッキーもそう名乗っています。一応はstateと同義のものとして、これらも含めてUnited Statesと総称されます。
説常識論
モイランの手紙から8日後の1776年1月10日、ペンシルベニアの首都かつ大陸会議の開催地であるフィラデルフィアで『コモン・センス(Common Sense/常識)』という小冊子が刊行されました。これはペンシルベニアのジャーナリストであるトマス・ペインの匿名の著作で、1部2シリングほどでしたが、平易な文章で「独立は必要だ、それが常識である」と説いたため熱狂的に受け入れられ、3ヶ月の間に12万部が飛ぶように売れたといいます。
トマス・ペインは1737年に英国ノーフォークのコルセット職人の家に生まれ、初等教育を受けたのち父の店で修行を始めますが、16歳で家出して船乗りとなり、様々な職業を転々としました。1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介されて北米植民地へ渡り、月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任として活動を開始します。彼は政治や賃金、年金などについての論文を執筆し、独立運動を激烈に煽り立てました。
彼は聖書を引用して君主政の悪を説き、世襲制を罵倒し、王を神聖な存在とみなすことを否定します。イスラエルの最初の王サウルは暴君で、その即位は神に望まれなかったとサムエル記にあり、英国の最初の王ウィリアムはフランスからの侵略者であった。世襲制は傲慢な愚者や幼児や老人でも国王としてしまい、王位継承を巡る争いは内戦や反乱のもとにほかならない。英国議会は共和政を忘れて君主政に毒されており、国王は何もせずとも年間80万ポンドの年金を得る。神のもとでは平等な同じ人間なのに、これは常識的に考えて不平等で理不尽ではないか!とペインは説いたのです。
英国と和解すれば、愚かな君主の臣民として隷属し続けることになる。英国軍は英国の利益を守るためにおり、英国が他国と戦争を起こせば、我々はその尖兵として駆り出される。英国が我らの親であるというなら、獣や野蛮人にも劣る。彼らは自分の子を取って食うだろうか。我々は英国のためにここに来たのではなく、英国の横暴から逃れて来たのではないか。この大陸は英国や欧州より広いし、住人には非英国出身者(オランダ・ドイツ・フランス系やその混血)もいるのに、なぜ英国を親だの母国だのと呼べるのか。
もし我々全員が英国出身だからとて、なぜ不法を押し付ける国王に従わねばならないのか。英国の最初の王ウィリアムはフランス人で、貴族も半分はフランス人の子孫なのだから、それなら英国はフランスに統治されるべきではないか。我々は理不尽を押し付ける英国ではなく、欧州諸国と自由に貿易を行い、政治的には中立となって、平和で豊かな繁栄を謳歌できる。こちらには豊かな森林があり、英国に勝る艦隊を建造できる。あちらは大西洋を渡って攻め込み、こちらは待ち構えて迎撃するのだから、どちらが有利かは明白だ……こう説かれれば、英国からの独立を躊躇う理由はないでしょう。
ペインはこうした説を独自に提唱したわけではなく、英国やフランスで長年議論されていた「社会契約説」に基づいています。人間は法や社会の規制のない自然状態では自由かつ平等であり、生まれながらに権利を持つとして社会構造や政治体制を論じたものです。1651年にはホッブズが『リヴァイアサン』を著して社会契約に基づき絶対王政を擁護していますが、1689年にジョン・ロックが『統治二論』を著して国王に対する人民の抵抗権があると説き、1748年にはモンテスキューが『法の精神』を著して権力の分立を唱え、1762年にはルソーが『社会契約論』を著して人民主権を主張しました。
これらの思想は、英国やフランスなどでは王権を揺るがす危険思想として弾圧されますが、北米植民地の知識人層にあっては英国に対する抵抗運動の根拠として重視されました。彼らは古代ギリシアの民主政、古代ローマの共和政を理想の国家体制とみなし、国王や皇帝など世襲君主を戴くことを拒絶し、理想国家を北米大陸に打ち立てようとの理想に燃えていたのです。
独立宣言
1776年6月には大陸会議の合議により独立宣言起草委員会が発足し、7月2日に独立の決議が可決し、7月4日に独立宣言が採択されました。この宣言には「すべての人間(Men/People)は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という基本的人権が掲げられ、人民はそれを守るために政府を組織でき、政府がそれに反する時は改造または廃止する権利(抵抗・革命の権利)があることを明言しています。すなわち、国の主権(sovereignty/最高権威・権力・決定権)は君主ではなく、その国に居住する人民が持つ(人民/国民主権)と宣言したのです。
こうした「君主を戴かない人民主権の共和国」の先例としては、古くはアテナイや共和政ローマ、近くはスペインから独立したオランダ、英国王を処刑して成立したイングランド共和国などがあります。古代ローマは共和政を名目上保ったまま元首政・帝政に移行し、ヴェネツィア共和国は元首(ドージェ)を、オランダは総督(stadhouder/統領)を戴き、ポーランドは議会が実権を握る共和国かつ国王を選挙で選んできましたが、アメリカ合衆国には国家元首はまだおらず、大陸会議の議長はいますが元首とも言えません。
英国(グレートブリテン王国)からすれば、北米植民地での反乱と独立宣言は受け入れ難いことでした。本国での反乱ではないとはいえ、放置すれば本国にも飛び火して国王や首相の首が飛びかねませんし、政府や議会の国内外でのメンツも丸つぶれです。七年戦争では一人勝ちしてフランスを始めとする欧州諸国から恨みを買っていますし、戦費にかかった多額の債務の返済もまだ終わっていません。なにより本国では船を建造する樹木にも事欠き、大部分を森林の豊富な北米植民地で建造していたのですから、世界の海を支配下に置いた大英帝国の維持にとっても死活問題です。一応カナダは英国側にとどまったものの、反乱に加担したり征服されたりすればおしまいです。
かくして英国は国家の威信をかけて「植民地の反乱」の鎮圧に乗り出します。アメリカ合衆国は存亡を賭けて抗戦し、反英感情の強いフランスやスペイン、オランダなど欧州諸国に働きかけて支援を要請します。英国は国際的に孤立し、アメリカ独立戦争は1783年まで8年間続くことになったのです。
◆We're Not◆
◆Gonna Take It◆
【続く】
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