【つの版】ウマと人類史11・胡服騎射
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
紀元前140年頃、サカ族がシル川を越えてソグディアナやバクトリアに攻め寄せ、イラン高原南東部やインドにまで到達しました。この大移動を引き起こしたのは、シル川の彼方に住まう遊牧民たちでした。すなわち月氏、烏孫、匈奴といった、チャイナの史料に見える連中です。ここからはスキタイやサカを離れ、「匈奴編」に入ります。
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東方地理
まず、ユーラシア大陸東半の地理を見てみましょう。インド亜大陸がぶつかってヒマラヤとチベット高原が盛り上がり、ヒンドゥークシュ山脈との付け根部分にパミール高原を作りました。その北はキルギスから甘粛北部まで伸びる天山山脈で、北西にはシル川の北に伸び、東にはモンゴル高原南部にぶつかります。天山の北にはバルハシ湖があり、その南の平野はテュルク諸語でジェティス(七河地方)、ロシア語で訳してセミレチエといい、河川に潤される肥沃な土地です。多くの遊牧政権がここに首都を構えました。
そこから東に進むと、新疆北部のジュンガル盆地があります。南は天山、北はアルタイ山脈に挟まれ、半沙漠化してはいますがやはり遊牧適地です。天山の南、チベット高原やパミール高原に囲まれているのがタリム盆地で、中央にタクラマカン砂漠があり、その周囲にオアシス都市が点々と連なっています。アルタイ山脈やモンゴル高原の北にはシベリアがあり、ミヌシンスク盆地やバイカル湖を河川が繋いでいます。
その南側に、巨大なモンゴル高原があります。現在のモンゴル国と内モンゴル自治区、寧夏回族自治区にまたがり、南は甘粛省や陝西省、山西省、河北省北部にまで及び、北はバイカル湖の東側まで続いています。チャイナの本土(プロパー)地域にも、乾燥地帯や山岳地帯で騎馬遊牧民や牧畜民は普通に多く見られます。チベット高原も遊牧民が住む土地ですが、とりあえず置いておいて天山・アルタイ山脈付近から見ていきましょう。
考古青銅
考古学的な調査では、紀元前3500年頃から前2500年頃にかけて、アファナシェヴォ文化圏が存在しました。この文化の担い手は印欧祖族から早期に分離したトカラ語派の話者で、後世の文字資料からも古い印欧語の形を残しています。また金髪碧眼など、いわゆるコーカソイド系の外見を持ち、生活様式は半遊牧で、スポークのない車輪の荷車で移動しながらヒツジやヤギ、ウシやウマを飼育し、野生動物を狩猟していたようです。彼らを引き寄せたのは豊かな草原と金・銅・錫などの金属資源で、その交易路が各地の文化圏を結びつけました。彼らはこの地に青銅器文化を持ち込んだのです。やがて気候変動によってか、その多くは南へ移動し、タリム盆地や甘粛省にオアシス都市を形成しました。月氏や亀茲国の住民の祖先です。
甘粛省・臨夏回族自治州・ドンシャン族自治県の馬家窯文化(前3300-前2000)の遺跡では、前2900年頃と言われる青銅製のナイフが発見されています。これはチャイナでは最古級の青銅器ですが、ここはチャイナと言っても「隴西」で、中華ならぬ「西戎」の地ですから、トカラ語派話者などによって西方や北方から伝わったものでしょう。すぐ近くの蘭州は黄河のほとりにあり、河套地域と渭水流域(陝西盆地)を繋ぐ重要な地です。
前2300年頃、西からアンドロノヴォ文化圏が広がってきます。彼らはインド・イラン語派の祖語を話す「アーリヤ人」で、軽快なスポークつき車輪を発明し、二輪戦車を世界に広めました。ミヌシンスク盆地には牧畜・狩猟・漁労を営むモンゴロイド系のオクネフ文化が興り、遥か南東のオルドス(河套、黄河屈曲部)には朱開溝文化、その東の赤峰市では夏家店下層文化が始まります。牧畜と狩猟、粗放な農耕が生業でしたが、青銅製の刀子などが見つかっています。これらの地域での青銅器の製作と使用は、河南省の二里頭文化圏(夏王朝か?)で青銅器の製作が開始される前1700年代よりも早く、シベリア方面から伝わったもののようです。赤峰市や遼寧では、これより数千年前に謎めいた遼河文明が栄えていました。
前1500年頃、ヴォルガ川からアラル海、南シベリアにかけてカラスク文化が興り、同様に狩猟・牧畜・農耕を行い、青銅器を使用しました。この文化圏で見られる青銅器は、これ以前にウラル山脈からアルタイ山脈にかけての南シベリアに広がった「セイマ・トルビノ青銅器文化圏」に類似した形状を持ちます。担い手はモンゴロイドともコーカソイドとも、両者の混血ともいいますが、ウラル系諸族と推測されてもいます。実際ウラル諸語話者の父系血統であるY染色体ハプログループNは、遼寧からウラル山脈まで広く分布しており、北日本にも時々見られます。様々なルートがあったのです。
殷周戎狄
この頃、チャイナでは商(殷)という国が河南省を制圧し、政治・経済圏を広げています。その文化形式や神話伝説を遡ると、彼らの先祖は河北省や北京、遼寧省西部付近におり、徐々に南下して来た形跡があります。前2000年頃に河北省邯鄲市に興った下七垣文化は「先商文化」とも呼ばれ、これが南下して二里頭文化(夏王朝?)を併合したようです。彼らは青銅器文化を持ち、紀元前1000年頃に周に滅ぼされるまで繁栄しました。また殷商後期には二輪戦車が出現し、ウマと戦車のセットが西方や北方から到来していたことが明らかです。この頃に出現した甲骨文字には、殷商の周辺に鬼方・土方などの異民族がいたとあり、周代には戎・狄・胡と呼ばれました。
伝説によると、殷商の始祖は契といい、母は有戎氏の簡狄で、玄鳥(燕)が落とした卵を飲んで子を孕みました。まさに戎狄の出自です。「戎」とは戈(ほこ)と干(たて)を合わせた字で武装することを意味し、戦闘用の装備を戎器・戎衣といいます。狄は人が犬を飼っているからとも、犬のようだからともいいますが定かでありません。絨毯とは戎が羊毛から作る織物で、交易は狄(易)が北方から商品を持ってくるからともいいます。
また周の始祖は棄といい、母は有邰氏の姜原で、野原で巨人の足跡を踏んで子を孕みました。彼女は不気味に思って子を棄てましたが、牛馬は彼を踏まず、鳥は翼で彼を温めたので、母は「神(ふしぎ)だ」と思って拾い上げ棄と名付けました。彼は長じると農耕を好んだので、帝王の堯や舜から農師に任命されて后稷(穀物の主)と呼ばれ、母の故郷・邰(陝西省咸陽市武功県)に封建され、姫の姓を賜りました。
その子孫は夏王朝が乱れたため職を失い「戎狄の間(甘粛省慶陽市か)」に逃げ去りましたが、やがて農耕を行って民を集め、涇水の支流の漆水・沮水のほとりに豳(ひん、陝西省咸陽市彬県)という邑(都市国家)を建てました。殷末の古公亶父の時、薰育と戎狄が豳を攻め、財物と土地と民を求めました。彼は戦えば不利とみて豳を去り、60kmほど南西、岐山の麓の周原(陝西省宝鶏市岐山県)に移りました。これより国名を岐周と改めます。
薫育(くんいく)とは葷粥、獫允、昆夷などともいい、周の北方にいた部族集団です。上古の炎帝や黄帝の子孫とも、夏王朝が滅んだ時に王子の淳維が北方に逃れて建てたともされ、殷の時には鬼方といい、のち犬戎や匈奴と呼ばれました。葷粥(上古音hiuen-diok)・獫允(hIiam-giuen)・昆夷(ku'n-diei)・鬼方(kIuer-piang)・犬戎(k'uen-niong)・匈奴(hiung-nag)とも、推定される発音はおおむね「クン/フンヌ」です。
この頃、騎馬遊牧民はまだ生まれていませんが、ウマを飼育して二輪戦車を牽かせ、ヒツジなどを牧畜する青銅器文化圏は広く内陸ユーラシアに広まっていました。チベット系の羌族も半農半牧の民で、羌とは羊と人をあわせた文字です。殷商では羌族を捕らえて奴隷や生贄としており、その王墓には斬首された多数の羌の死骸が並べられ、甲骨文にも羌を捕らえることが記されています。陝西や甘粛まで殷商の軍隊が来たわけではなく、河南省などに分布していた羌が狩られたようですが、周は陝西盆地の奥に住んで羌族と通婚しており、始祖の母も姜(羌族の女)と呼ばれています。
周はこうした反殷商勢力と手を結び、紀元前1000年頃に東方へ進出して殷商を滅ぼします。しかし犬戎は北方から周を脅かし続けました。前9世紀末に即位した周の宣王は衰えた国政を建て直し、大将の南仲に命じて北方遠征を行い、朔方に築城させて犬戎を防いだと『詩経』に歌われています。城とは土を版築で固めた壁のことで、万里の長城の元祖です。辺境防衛のために兵士が配備され、緊急時には狼煙を上げて諸侯を呼び集める仕組みでした。
ところが宣王の子・幽王は戯れに狼煙を上げて寵妃・褒姒を喜ばせ、諸侯は狼煙が上がっても集まらなくなりました。また幽王は羌族の申侯の娘を妃としていましたが、褒姒の子を王位につけたいと言い出したため申侯の怒りをも買います。前771年、申侯は犬戎と共に周を攻め、幽王を殺害して王と都を東方の洛邑に移しました。これ以後、諸侯は周王の権威と宗主権を認めつつも互いに争う乱世となります。
この頃、中央アジアや北カフカース、黒海北岸には、カラスク文化圏から広がった「スクダ」が拡散します。彼らは騎馬遊牧民であり、騎射を行い、荷馬車で移動し、青銅器や鉄器を使用しました。同様の波がモンゴル高原やオルドス、チャイナにも押し寄せたのでしょう。南シベリアにはタガール文化、オルドス地方にはオルドス(綏遠)青銅器文化、内モンゴル南東部から遼寧・河北にかけては夏家店上層文化が興り、いずれもスキタイと類似した文化でした。土着の牧畜・農耕民や都市民はその支配下に組み込まれ、ユーラシア規模の交易圏に加わったのです。
胡服騎射
のちに秦(チン)が統一し「チャイナ」と呼ばれることになる領域には、極めて種々雑多な部族集団が割拠していました。南方・東方諸族は「蛮夷」と総称され、北方・西方諸族は「戎狄」と呼ばれ、黄河中流域の「中原」に住む都市住民は「中夏」「華夏」と称するようになりますが、周が羌族と婚姻したように雑居混血しています。山西省から河北省にかけての狄は赤狄・白狄・長狄などの部族に分かれ、山西省の大国・晋を支えました。特に長狄族は背が高く、防風氏という巨人の末裔と信じられています。
晋の北方、河套地方には林胡・楼煩という遊牧民がおり、騎射に巧みでした。彼らはスキタイ系のオルドス青銅器文化圏に属し、「胡」と呼ばれていました。胡とはウシの顎の垂れ下がった肉(月)をいい、転じてアゴヒゲをいいます。胡はアゴヒゲを伸ばした民を指しますから、毛深い連中だったのでしょうか。山西省太原市の西に婁煩県があり、楼煩の故地とされます。晋は次第に勢力を広げて中原の覇者となり、周王に代わって諸侯に命令を下すほどになりましたが、狄や胡の襲撃は悩みのタネでした。匈奴はこうした胡の一派として、紀元前318年に初めて史書に現れるのです。
周が東方へ遷ったのち、その故地に興ったのが秦でした。出自は明らかに西戎で、もとは犬丘(甘粛省隴南市礼県)でウマを飼育していた牧畜民でした。紀元前9世紀頃、周王は彼らを秦邑(甘粛省天水市清水県)に封建し、西戎を防がせています。しかし前776年に西戎に敗れ、東の研邑(陝西省宝鶏市隴県)に国を遷しています。周王が東へ遷った時、秦国は功績があったとして岐山の西を任され、次第に東へ移動して陝西盆地を掌握したのです。前7世紀の穆公の時には一時西方の覇者となり、晋国にも介入するほどになりましたが、その後はしばらくぱっとしない状態になりました。
前5世紀になると、晋は内紛によって韓・魏(梁)・趙の三国に分裂し、韓と魏は河南省、趙は山西省に割拠します。秦は「趙とは先祖が同じだ」との神話を作り、黄河と函谷関を挟んで東方諸国と対峙しました。韓は比較的小国でしたが、魏は中原を抑える大国で、文化的にも先進国でした。趙は晋の旧領の多くを手にしており、北方の騎馬遊牧民と直に接していたため、軍事力では魏にひけを取らない大国でした。秦はこれらに対抗するため富国強兵を進め、漢中・巴蜀や西戎諸国を討伐して領土を広げます。紀元前359年からは先進国の魏から衛鞅(商鞅)を招いて国政改革を行いました。
前318年、韓・魏・趙・楚・燕・斉の東方六国は、北方の匈奴や北西の義渠(西戎の国)と手を組み、秦を攻撃します。しかし秦軍は函谷関で連合軍を撃退し、匈奴や義渠も撃退しました。秦は前316年には蜀(四川盆地)を占領し、楚王を捕らえ、韓王と魏王を服属させるほどになります。
趙の武霊王は秦や胡に対抗するため、前307年に「胡服騎射」を導入しました。中原では二輪戦車(とそれに随行する歩兵部隊)が戦の主力で、平地が広がる中原や陝西盆地では活用できましたが、山岳連なる北方や西方ではあまり活躍できません。騎馬遊牧民はオルドスや甘粛に大勢いますが、ウマに乗ること自体が高等技術でしたから、彼らを傭兵とした方がラクです。しかるに武霊王は趙の軍人たちに騎射を習わせ、騎馬に適した「胡服(袖を絞った上着とズボン)」を着るよう命じたわけです。
紀元前3世紀前半頃とみられる、アルタイ地方の「スクダ」の墓であるパジリク古墳群には、コーカソイドとモンゴロイドの混血っぽい人物たちがミイラ化されて埋葬されていました。副葬品には遥かエジプトやイラン高原、インド洋、チャイナのものが集まっており、なんかファンキーな乗馬姿の壁画も残されています。これが「胡服」です。
王族や家臣らは反対しますが、王は強引に改革を推し進め、果たして趙は軍事的に相当強化されます。アッシリアでの騎兵導入から600年近く、アレクサンドロスの遠征から20年以上経過して、チャイナでもようやく弓騎兵が出現したのです(これ以前から多少はあったでしょうが)。また林胡・楼煩および中山国(北狄の一派が河北に建てた国)を打ち破って服属させ、北方に覇権を打ち立てました。
李牧防胡
武霊王は太子に譲位し引退したものの、権力を持ち続けたため疎まれ、前295年に幽閉されて餓死します。趙は秦の攻勢をしばらく食い止めますが、前260年には長平の戦いで大敗を喫します。楚もすでに湖北・湖南の大部分を奪われて東方に遷っており、秦の覇権は決定的となりました。王族の平原君と老将軍の廉頗は傾いた趙を支え、楚や魏と結んで秦に対抗し、燕軍を迎撃して首都の薊(北京)を包囲します。しかし平原君は前251年に逝去し、廉頗も讒言を受けて魏や楚へ亡命し、趙に残る名将は李牧だけとなります。
『史記』によると、彼は趙の北辺である代郡と雁門郡を守る将軍で、常に匈奴に備えていました。租税は幕府(軍政所)に入れて士卒を養い、毎日数頭の牛を殺して士卒に食べさせ、騎射を習わせました。また烽(狼煙)による警備体制を緊密にし、スパイを多数放って敵情を探らせました。ところが李牧は「匈奴が掠奪に来たら急いで砦に入れ。あえて戦う者は斬る」と布告していたため、士卒は不満に思い、匈奴は李牧を侮りました。
趙王は報告を受けて李牧を解任し、別の将軍を任命しますが、彼は匈奴が来るたびに出撃しては打ち負かされ、かえって被害が増えるばかりでした。趙王は李牧に謝罪して復任させ、李牧はまた数年間前の通りに行ったのち、いよいよ匈奴を討つことにします。彼は精鋭を選んで兵法を仕込むと、民を野に放って牧畜させ、匈奴を誘き寄せる餌とします。やがて匈奴の単于(君主)が周辺諸部族を率いて到来すると、李牧は奇策をもって敵軍を散々に打ち破り、単于は逃走しました。それから10年余りの間、匈奴はあえて趙の長城に近づかなかったといいます。
前233年、李牧は功績を認められて大将軍に任命され、秦の攻勢を防ぎました。彼は秦軍を見事に撃退しますが、秦は彼を排除するため趙の家臣を買収し、讒言によって死に追いやります。李牧の死から半年もしないうちに、趙は秦に敗れて征服されたのです。秦は続いて他の国々を征服し、前221年に天下を統一しました。秦王の政は自ら「始皇帝」と号し、万里の長城を築いて北方遊牧民(胡)の侵攻を防ぐことになります。
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【続く】
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