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【つの版】ウマと人類史:近世編16・後金建国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1592-98年、日本の豊臣秀吉は大軍を派遣して朝鮮を制圧し、明朝を脅かしました。秀吉の死で日本軍が撤収しどうにか収まったものの、朝鮮全土は荒廃し、防衛軍を派遣した明朝は財政破綻に追い込まれます。こうした状況で、マンジュ国王ヌルハチは勢力を広げました。

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万暦三征

 1572年に10歳で即位した万暦帝は、名宰相・張居正に政治を委ね、国庫には銀にして400万両の余剰が積み上げられました。銀1両12万円として4800億円です。しかし1582年に張居正が失脚すると、万暦帝は宦官たちを重用して悪政を敷き、蓄財に走って贅沢三昧の生活を送るようになります。官僚も軍人も腐敗堕落して賄賂が横行し、民は重税に喘ぎました。

 1592年2月に寧夏で起きたボハイの乱は、アルタン・ハンの没後のモンゴルの混乱により侵入が増え、辺境警備が厳しくなってきたことの現れでした。徴兵で送られてくる兵士は役に立たず、寧夏では雇われの私兵(家丁)が投降したモンゴル人ボハイに率いられていましたが、明朝の巡撫(監督)は兵士への給与支払いを滞らせて私腹を肥やし、反発を招いたのです。ボハイらは長城の外からモンゴル軍を呼び寄せ、河西回廊の諸城もことごとくボハイに降ったので、明朝は大いに動揺しました。李如松らの活躍で寧夏城が陥落し、9月に平定されたものの、『明史』によれば反乱鎮圧の費用は80余万-200余万両(960億-2400億円余)に達しました。

 同じ頃、南の播州(現貴州省遵義市)では楊応龍の乱が勃発していました。楊応龍は苗族の土司(世襲の現地総督)で、唐代より代々播州を治め、朝貢・納税・派兵の義務を負いながらもほぼ独立していました。これに対し五司七姓と呼ばれる他の在地勢力が反発し、明朝に「彼に謀反の疑いあり」と訴えます。1592年、楊応龍は銀2万両を上納して刑罰を免れますが、朝鮮情勢を受けて明朝の出兵は少ないと見、五司七姓に対して報復行動を行います。その軍勢は14-15万もおり、朝鮮の役が収まった後の1600年にようやく鎮圧されましたが、その費用も200-300万両に達したといいます。

 これらに対して、7年に及ぶ朝鮮の役に注ぎ込まれた費用は780余万両(9360億円余)にも達しました。他の二つはともかく、朝鮮の役は帝都北京を目指しての国家規模の侵略ですから、対応も本気度が違います。しかし明朝は各地に皇族を封建して藩王としていたため、中央政府の歳入は400万両しかなく、直轄地には軍事費を賄うため重税がのしかかりました。

 重税は反乱を呼び、反乱鎮圧のために重税がかかるという悪循環が続き、明朝は荒廃します。1598年には遼東総兵の李如松がモンゴルの反乱兵の奇襲に遭って戦死し、1601年に父の李成梁が呼び戻されて復職したものの、1608年に再度罷免されています(1615年に逝去)。

女直抗争

 さて、1589年に建州女直を統一してマンジュ国としたヌルハチですが、同じ頃には海西女直(フルン国)でも統一運動が起きています。王台の死後ハダ部は力を失い、イェヘ部の首長ナリンブルがフルン国の盟主となります。イェヘ部の首長はイェヘ=ナラ氏といい、ウラ部の首長ナラ氏の分家でしたが、この頃にはモンゴル系の移民が女直系ナラ氏を滅ぼしてイェヘ=ナラ氏を号していました。明朝との距離はマンジュ国のほうが近いため、フルン国はマンジュ国を滅ぼして明朝との交易を独占しようとします。

 明朝はヌルハチ率いるマンジュ国を支援し、朝貢の権利書である勅書を500通まとめて授けて交易を盛んにし、友好的な緩衝国としていました。もともと勅書は各地の族長に分散して授けられ、権力集中を妨害していたのですが、この頃になるとそうも言っていられません。

 朝鮮の役で明朝の防衛が手薄になった隙をつき、ナリンブル率いるフルン国は1593年6月にマンジュ国を攻撃します。これは撃退されますが、9月にはモンゴルのホルチン部と連合して兵を増やし、3万の大軍で攻め込んで来ました。ヌルハチはスクスフ川北岸に精鋭を潜ませ、自ら100騎を率いて奇襲し、敵を釣りだして伏兵に襲わせ、大勝利を得たといいます。明朝はヌルハチを讃えて竜虎将軍の号を授け、イェヘ部はやや衰えました。

 この頃、ハダ部は南のマンジュ国、北のイェヘ部の間で板挟みの状態にあり、明朝と友好関係を結んで支援を受けていました。1599年5月、ナリンブルがハダ部を攻めると、ハダ部首長メンゲブルはヌルハチに援軍を要請します。ヌルハチは早速2000の兵を援軍として送りますが、自らは兵を率いてハダ部を攻撃し、メンゲブルを捕縛・処刑してハダ部を滅ぼしました。メンゲブルの子ウルグダイはヌルハチに仕え、イェヘ部と戦うことになります。

 李成梁が1601年に遼東総兵に再任したのは、こうしたヌルハチの台頭を明朝がようやく危険視し始めたこともあります。1607年にはフルン国のホイファ部が内乱に乗じてヌルハチに制圧され、李成梁は残ったイェヘ部とウラ部を支援することでヌルハチに対抗しようとします。ヌルハチはウラ部の首長ブジャンタイに娘を嫁がせていましたが、彼女が虐待されたとして1613年にウラ部を攻め滅ぼします。またヌルハチは明朝やイェヘ部と結んだ弟シュルガチを粛清し、明朝に反旗を翻しはじめます。

後金建国

 1616年、57歳のヌルハチはヘトゥアラを都としてハンに即位し、ゲレン・グルンベ・ウジレ・ゲンギェン・ハン(全ての国に利益をもたらす、素晴らしいハン)と名乗ります。また国号をマンジュ国から「アイシン(黄金)」と改めます。12世紀に完顔阿骨打が建てた金朝と同名であるため、その復興を宣言したものです。また元号を建てて「天命(abkai fulingga)」とし、天命を受けた天子であることを宣言しました。漢名は大金ないし金ですが、完顔氏の金と区別するため、後世では「後金」と呼びます。

 この時代、チンギスの子孫しかハンを名乗れないという原理は薄れつつあり、既にハダ部の首長がオン・ハンと号していた前例があります。またモンゴルのハンではなく女直族(ジュルチェン)のハンであれば、かつて金朝の天子をモンゴル人が「キタイのアルタン・ハン(契丹国の金王)」と呼んでいたこともありますから、その天命を引き継いだのだとも言えます。当のモンゴルではアルタン・ハンの没後は内乱が続いて分裂し、正統なハーンはもはやチャハル部周辺しか治められていませんでした。

 これに先立つ1615年、ヌルハチは麾下の諸部族を再編して八旗制を創始しました。もと1601年に四旗制として始まり、それを倍増したものです。まず有事の際に兵士となる成年男子300人を供出し得る集団をニル(矢)とし、5ニル=1500人を1ジャラン、5ジャラン=25ニル=7500人を1グサ(旗)としたもので、4グサ=3万人、8グサ=6万人の兵士となります。各集団には長が任命され、平時は領主、戦時は将校として戦うわけです。

 ヌルハチは八旗のうち三旗を統括し、他の五旗には彼の親族が複数の旗王(グサイ・ベイレ、貝勒)に任命されます。これらには女直族だけでなく、ヌルハチに服属した漢人や朝鮮人、モンゴル系諸部族もおり、マンジュ国・アイシン国は最初から多民族・多言語の複合国家でした。

 1618年、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明朝と戦うことを宣言します。数合わせのために重複する内容を含んでいますが、「父や祖父を殺害した」「誓いを破って国境を侵犯した」「イェヘ部と同盟して我らを侮った」といったものです。ヌルハチはさっそく撫順など周辺の城を陥落させ、明朝を挑発しました。

 1619年4月、明朝はイェヘ部や朝鮮にも兵1万ずつを出させ、呼号10万の軍を四路に分けてヘトゥアラへ進軍させます。これには李如松の弟・李如柏も遼東総兵として加わっており、数の上ではヌルハチの不利でした。ヌルハチはヘトゥアラ近郊のサルフでこれを迎え撃ち、奇襲をかけて主力部隊を散々に撃破、壊滅させます。明軍の諸将は連携をとらず勝手に動き、砂嵐が起きて銃砲も使えず、地の利を持つアイシン軍に各個撃破されました。

 大勝利を得たヌルハチは勢いに乗り、イェヘ部を征服します。1620年には瀋陽・遼陽を征服、ヘトゥアラから遷都して遼東半島を征服します。さらに進んで万里の長城の東端である山海関を脅かし、明朝は大いに動揺します。モンゴルの諸部族は中立を保っていましたが、1624年にはモンゴル東部のホルチン部がヌルハチに帰順します。彼らも八旗に編成され、降伏した漢人らとともに明朝と戦いました。

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 明朝では1620年に万暦帝が崩御し、長男の常洛(泰昌帝)が即位しますが在位1ヶ月で崩御し、その子・由校(天啓帝)が即位していました。しかし宦官の魏忠賢が国政を牛耳っており、明朝は風前の灯です。

 しかし1626年1月、ヌルハチは山海関に隣接する寧遠での戦いで重傷を負います。寧遠を守る明将の袁崇煥は、ポルトガルから輸入した大砲を城に据え付け、徹底抗戦してヌルハチを負傷させたのです。ヌルハチは撤退して8月に68歳で崩御し、後継者争いののちホンタイジが跡を継ぎます。彼は父の築き上げた帝国を拡大し、やがて国号を大清と改めることになります。

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【続く】

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