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【つの版】ウマと人類史:中世編36・東方見聞01
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
モンゴル皇帝クビライの治世中、遥か西方のヴェネツィアから、マルコ・ポーロという男がやってきて、クビライに仕えていました。彼はクビライの晩年に故郷へ帰り、東方の奇想天外な情報をヨーロッパに伝えたことで有名です。彼の話を口述筆記したのが、かの『東方見聞録』です。
◆東◆
◆方◆
東方見聞
いわゆる『東方見聞録』というタイトルは、1914年(大正3年)に日本で刊行された中学校の東洋史教科書によるものだそうで、もとは『世界の驚異に関する書(Livre des Merveilles du Monde)』『世界の記述(Devisement du Monde)』と呼ばれていました。また『百万の書(Il Milione)』とも呼ばれましたが、これは本書があまりに誇張が多いことによるともいいます。ここでは日本語として馴染みのある『東方見聞録』で統一しましょう。
彼の話を口述筆記したのは、ルスティケロというピサ出身の男でした。この頃ピサは独立国でしたが、1284年に勃発したジェノヴァ共和国との海戦で大敗を喫し、1290年には主要港ポルト・ピサーノが破壊されました。ルスティケロはこれらの戦いでジェノヴァの捕虜となりましたが、1298年に同じ牢獄に入れられたヴェネツィア人マルコ・ポーロと知り合いになったのです。
1298年9月、ヴェネツィア共和国はジェノヴァとの海戦で大敗を喫しており、マルコもこの戦いか、その前後に捕虜となったと思われます。ルスティケロは彼の話を口述筆記するとともに、自分が聞きかじった様々な物語を付け加えてしまいました。マルコの話もだいぶ大げさだったとは思われます。
マルコは1299年8月に身代金が払われて釈放され、ルスティケロもおそらく同時期に釈放されて、『東方見聞録』は世に出ることとなります。ふたりともイタリア人ですが、本書の現存最古の写本はイタリア語訛りの古いフランス語で書かれており、当時のヴァロア・アンジュー伯シャルルには標準フランス語で書かれた写本が献上されています。両者の敵であるジェノヴァを脅かすため、フランスの王侯貴族に東方の情報を伝えて、モンゴル帝国と手を組めば面白いぞ、と思わせようとしたのでしょう。
父叔遠旅
さて同書によれば、マルコの父はニコロ、叔父はマフェオといい、代々続くヴェネツィアの交易商でした。この頃、ヴェネツィアは東ローマ帝国をフランス人たちに征服させて作ったラテン帝国(フランス人によるロマニア帝国)を経営しており、エーゲ海各地の島々を手に入れ、東地中海と黒海を我が物顔で支配していました。ニコロとマフェオもコンスタンティノポリスで商売に携わっていましたが、東ローマの亡命政権ニカイア帝国が勢力を伸ばし、1260年にコンスタンティノポリスを奪還すべく攻め込んできました。
ニコロとマフェオは、危険を察して財産を全て宝石に換え、クリミア半島の港町ソルダイア(スダク)へ脱出します。果たして1261年にコンスタンティノポリスはニカイア帝国に再征服され、東ローマ帝国が復活します。この頃、クリミア半島はモンゴル帝国ジョチ・ウルスの支配下にありました。
当時のジョチ家当主はジョチの子ベルケでした。ニコロとマフェオは東へ向かい、ジョチ・ウルスの首都サライに到達するとベルケに謁見し、宝石を献上して庇護を願います。ベルケは彼らを歓迎して、宝石の価値の二倍の対価を与えました。しかし1年間滞在した後、ベルケは南のフレグと大戦争を始めたので、二人はサライの北の都市ブルガルを立ち去り、沙漠を横断して中央アジアの都市ブハラに到達します。当時のブハラはチャガタイ・ウルスの支配下にあり、アルグが当主でしたが、帝位継承戦争でクビライについたため、アリクブケ派との戦争状態にありました。1264年にアリクブケがクビライに降伏すると、フレグとアルグはクビライへ使節を派遣し、ニコロとマフェオはこの使節に同行することになりました。
1266年、二人はクビライに謁見し、ヨーロッパに関する様々な情報に関する質問を浴びせられ、順序正しく事細かに返答しました。クビライはこれを聞いて喜び、ローマ教皇に対する使節として送り出そうと考えつきました。そこで彼らに書簡と口頭の言葉を与え、モンゴル人貴族のコガタルを付き添わせて送り出しましたが、書簡の内容は「キリスト教の教理に精通した立派な学者と、エルサレム教会にあるキリストの墓前の灯火の聖油を少し送って欲しい」というものだったといいます。
三人はクビライから黄金の通行証(牌子)を授かり、旅行中は馬なり護衛なり何でも無料で供給を受けられることになりましたが、途中でコガタルは病気になって脱落し、二人だけで西へ向かった末、1269年にキリキア・アルメニア王国の港町アヤス(現イスケンデルン)に到達しました。4月に十字軍勢力の治める街アッコに至り、教皇の全権使節テオバルドに話を伝えたところ、ローマ教皇クレメンス4世は1268年に亡くなっており、まだ次の教皇が決まっていないと告げられました。
クレメンス4世はフランス王ルイ9世、その弟シャルル・ダンジューと手を結んで、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の子らを討ち取り、教皇権力を強めんとした男でした。またフレグの子アバカが1265年に即位した時、彼が父と同じくネストリウス派のキリスト教徒で、東ローマ皇帝の皇女を妃としていたことから同盟を呼びかけたことがあります。
ニコロとマフェオは、教皇の選挙が終わるまでの期間を利用し、アッコを出発してギリシアのヴェネツィア領ネグロポンテ(エウボイア島)を経、10年ぶりにヴェネツィアへ帰国します。しかしニコロの妻は亡くなっており、息子マルコは15歳で、別の叔父に養育されていました。ヴェネツィアの交易商人は長期の単身旅行者が多く、こうしたことはよくあったそうです。ニコロとマフェオはマルコに旅の物語を聞かせ、2年間をヴェネツィアで過ごしましたが、新たな教皇はなかなか選ばれませんでした。
馬可東遊
1271年、待ちきれなくなったニコロとマフェオは17歳のマルコを連れてヴェネツィアを出発し、アッコに向かいました。そこで先のテオバルドと面会して話し合い、エルサレムに行って油を手に入れ、「兄弟は忠実に使命の実行に務めましたが、教皇がいないので学者は連れて来れませんでした」というクビライ宛の書簡をテオバルドに書いてもらい、出発することにします。
三人がアヤスまで着いた時、当のテオバルドが新教皇に選出されたと連絡が来たので、急いでアッコへ取って返し、二人の僧侶を連れて再出発しました。しかし彼らは途中で戦争に遭遇して逃亡してしまい、結局三人だけが書簡と手土産を持ってクビライのもとへ向かったといいます。
1271年5月には、イングランドの王子エドワードが第9回十字軍としてアッコに到達し、フレグ・ウルスの当主アバカへ同盟を要請しています。アバカは要請に応じて騎兵1万を派遣し、シリアへ侵攻してアレッポのマムルーク朝軍を撃破していますが、エドワードの軍勢は1000人しかおらず、戦いの役にはあまり立ちませんでした。それでもアバカの脅しが効いて、マムルーク朝の君主バイバルスはアッコとの間で10年間の休戦条約を結んでいます。
アヤスを出発した一行は、ユーフラテス川を渡ってフレグ・ウルス領内に入り、アルメニア高原南部を経てモスルに達し、ティグリス川沿いに南下してバグダードに至りました。そこから北東へ向かって、フレグ・ウルスの首都タブリーズに到達し、イラン高原を南東に進んでケルマーン地方に入り、盗賊の襲撃を受けつつもホルムズ港に達しました。
ここから海路で進むかと思えば、陸路北東へ進んでバルフへ向かいます。妙にジグザグ進んでいますが、モスルからタブリーズ、テヘラン、マシュハドなどを経てバルフに向かえば早いのに、そうしなかったのは何故でしょうか。ともかくバルフからはバダフシャーンを経てパミール高原を東へ抜け、タリム盆地西端のカシュガルに到達します。そこからヤルカンド、ホータンを経てタクラマカン砂漠の南側を通り、沙州(敦煌)に達します。
沙州はタングート地方(旧西夏領)で、これより東はクビライ・カアンの領土(大元ウルス)に属します。さらに東に粛州(酒泉)、甘州(張掖)、涼州/エルグイウル(武威)、寧夏/エグリガイア地方のカラチャン(定遠)があります。ここから黄河沿いに東へ進むとテンドゥク地方があり、首都をテンドゥク(バヤンノール市南部の豊州か)といいます。これは唐の天徳軍に由来する地名で、キリスト教徒の王ゲオルギオスが統治しているといい、東方の史料に見えるオングト部の族長コルギスにあたります。オングト部は唐末からこの地域を支配していたテュルク系の部族です。
マルコによると、彼はキリスト教徒の王であった長老ヨハネの子孫です。チンギス・カンは「タタール人(モンゴル人)」の王となった後、各地を征服して支配下に置きましたが、やがて長老ヨハネのもとへ使者を派遣し、娘を妻にもらいたいと申し入れました。しかしヨハネは「わしの家来が何を言うか!」と激怒し、チンギスを口汚く罵ったので、チンギスは大軍を率いてテンドゥク平原でヨハネの軍勢と戦いました。この戦いでヨハネは戦死し、その領土はチンギスのものになったというのです。どうもケレイト族の王であったトグリルのことのようですが、オングトとケレイトは同じくキリスト教徒ではあっても、直接の繋がりはありません。コルギスはチンギスに服属した族長アラクシの玄孫にあたり、代々チンギス家の娘を娶る名家でした。
テンドゥクから東へ七日あまり(1日30kmとして210km)進むと、カタイ/キタイ(漢地)の近くの宣徳地方(現張家口市、モンゴル名はカルガ/門)に着きます。ここはモンゴル高原と漢地を繋ぐ中間地点にあたり、のち上都と大都の間にあることから「中都」が建設されたほどの要地です。ここから三日(90km)北東へ進むと、チャガン・ノール(白い湖)という街があり、クビライの離宮があります。張家口市沽源県あたりで、今も湖があります。ここからさらに北北東へ三日進むと、上都(Xanadu/ザナドゥ)に着きます。
ここには城壁に囲まれた大理石の宮殿と、黄金と漆で塗られた竹の御殿があり、各部屋には見事な絵画が描かれています。広大な庭園には泉や小川があって、様々な猛獣や猛禽が飼育されています。クビライは一年のうち6月から8月末まで、すなわち夏の間をここで過ごし、秋と冬は南の大都(テュルク語名カン・バリク、王都)で政務をとるのです。また春には南へ向かい海辺で過ごすといいますが、これは大都の外港である天津のことです。
さて、上都においてニコロ、マフェオ、マルコはクビライに謁見し、ローマ教皇の書簡と贈り物、エルサレムの聖なる油を献上して、これまでの事情を語りました。クビライは彼らを歓迎し、マルコ・ポーロを見どころのある若者だとして取り立て、17年間も仕えさせたといいます。この間に彼らはクビライの領土の各地を経巡り、見聞したのでした。
◆東◆
◆方◆
【続く】
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