【つの版】ウマと人類史:近世編14・建州女直
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
16世紀後半、モンゴル帝国(韃靼/北元)はアルタン・ハンの下、なお明朝を脅かす強国でした。しかしモンゴルの東方には、この頃不穏な動きが現れます。かつて金朝を築いた女真/女直族が再び台頭し始めたのです。
◆Jo◆
◆ciki◆
女直前史
そもそも女真族は、殷周以前からチャイナの北東(マンチュリア、遼東)に居住していた「粛慎」という部族集団に遡ります。濊貊・朝鮮・夫余・高句麗といった部族集団とは言語が異なり、ツングース系の言葉を話していたと思われます。粛慎・女真/女直はツングース語ジュルチェン(民)の音写です。彼らは森林狩猟民として弓矢に長け、動物の毛皮を交易品として各地に輸出していました。のち魏晋では挹婁、北魏では勿吉、隋唐では靺鞨、遼宋で女真(女直)と呼ばれるようになりました。
ツングースとはテュルク諸語で「豚」を意味するトングズが訛ったものといい、食糧として豚を飼育することが盛んで、豚を飼わない遊牧民とは文化が異なっていました。豚/猪は雑食性で、地面を掘り返して餌を食うため、草原で飼育すると沙漠化を進めますが、森林地帯では湿潤な森がドングリなど豊富な食糧を恵んでくれますし、人糞も食べます。魏志東夷伝挹婁条には「豚を多く飼育し、豚の皮や脂を纏う」とあります。こうした森林狩猟民は古くはチャイナの北部にも広がっており、北狄と総称されましたが、乾燥化と森林の消滅によって北東へ追いやられたようです。濊貊・夫余・高句麗、鮮卑やモンゴルのルーツも、広くは森林狩猟民に遡ります。
彼らは夫余・高句麗・渤海国など近隣の諸国と争いつつ混じり合い、文化を吸収しました。最初に「女真」と名乗ったのは、アムール川(黒水)流域に住み渤海国と対立していた黒水靺鞨です。10世紀に契丹が渤海国を滅ぼすと、靺鞨の南部・西部の諸部族は契丹に服属します。これを熟女真といい、契丹に従わない遠方の女真は生女真と呼ばれました。契丹は彼らと交易を行い、族長たちに財宝や官職を授けて手懐けました。
12世紀初め、生女真は現在のハルビン市を中心とする完顔(ワンギヤ、王)部によって統一され、契丹遼朝に反旗を翻します。族長の阿骨打は皇帝に即位し、国号を大金とします。この金朝は遼朝と北宋を滅ぼして華北を征服しますが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされ、華北や遼東の女真族はモンゴルに服属します。日本遠征にも女真族の兵が駆り出されました。
1368年に元朝がチャイナから撤退し、遼東地方を支配していたモンゴル人将軍ナガチュも1388年明朝に降伏すると、明朝は女真族に呼びかけてモンゴルの支配から離脱させ、族長らに財宝や官職をばらまいて服属させました。しかしモンゴルの影響はなお強く、本格的に明朝が遼東へ進出するのは永楽帝の時代になってからです。
建州三衛
1403年(永楽元年)、永楽帝は女直南部の胡里改(オランカイ、トナカイ/oroを飼育する者の意か)部の長である阿哈出(アガチュ)を建州衛指揮使に任命し、李誠善/李承善の姓名を授けました。建州とは渤海国が綏芬河流域の双城子(現ロシア沿海州ウスリースク)に置いた地方行政区画です。
のち胡里改部から斡朵里(オドリ)部が分離し、孟哥帖木児(モンケ・テムル)がその長となったため、明朝は建州衛を分けて建州左衛(現北朝鮮の咸鏡北道会寧市)を増設し、孟哥帖木児をその指揮使とします。この孟哥帖木児はのちの史書では孟特穆(メンテム)とも記され、清朝の太祖ヌルハチの遠祖とされますが、その先祖来歴は不明です。
1636年頃に編纂された『満文原檔』によると、むかしエングレン・ジェングレン・フェクレンという三人の天女がブクリ山(長白山/白頭山)に天下り、ブルクリ湖で沐浴していました。するとカササギが飛んできて嘴から木の実を落とし、フェクレンがこれを飲み込むと妊娠して男児を産みました。彼はブクリ・ヨンションといい、オドリ城に赴いて族長(ベイレ)となりましたが、その子孫がメンテム(孟特穆)だといいます。『史記』殷本紀には「簡狄が玄鳥の卵を飲んで妊娠し、殷の始祖を産んだ」とあり、夫余や高句麗にも類似の神話があります。1635年、ヌルハチの子ホンタイジがアムール川下流域の諸部族を平定した時、現地のフルハ族から「我々もあなたもブクリ・ヨンションの子孫だ」としてこの神話を聞いたといいます。翌年ホンタイジは大清皇帝に即位していますから、女直族統一のため族祖神話を新たに作ったのでしょう。金朝の完顔氏にはこうした族祖神話がなく、「先祖は高麗(高句麗/渤海国?)から来た」とあるばかりです。
1410年、永楽帝は阿哈出とその子・釈迦奴を伴って韃靼討伐を行い、戦功により釈迦奴に李顯忠の姓名を賜いました。翌年阿哈出が逝去するとその跡を継ぎ、弟の猛哥不花(モンケ・ブカ)は豆満江流域に設けられた毛憐衛の指揮使に任じられます。彼らは明朝に朝貢して支援を受けつつ勢力を広げ、南の朝鮮王国と戦っています。永楽帝はアムール川河口部のヌルガンにまで遠征軍を派遣しましたが、恒久的な支配は及ぼせませんでした。
朝鮮王国(李氏朝鮮)は、1392年に高麗の武将・李成桂が高麗国王を廃位し、権知高麗国事と名乗ったことに始まります。翌年明朝は国号を「朝鮮」と改めさせ、李成桂を権知朝鮮国事に任じました。1401年には李成桂の子(太宗)が朝鮮国王に封じられ、1418年にその子(世宗)が即位すると最盛期を迎えます。朝鮮は北方の女直族(オランカイ)の地へ遠征軍を派遣し、領土を巡って激しい戦いを繰り広げました。
1426年に釈迦奴が、翌年に猛哥不花が相次いで逝去し、李満住と撒滿哈失里がそれぞれ跡を継ぎました。父が釈迦奴という名ですから、満住の名は文殊菩薩にちなんでいるともいいます(釈迦如来の脇侍は文殊・普賢の両菩薩ですね)。彼は建州左衛の指揮使である孟哥帖木児の娘を娶り、連合して朝鮮と戦いましたが、1433年に孟哥帖木児は敵対する別の女直族に襲撃され、息子の阿古ともども戦死してしまいます。明朝は孟哥帖木児の弟の凡察に跡を継がせますが、阿古の弟の董山と仲違いし、建州左衛は分裂します。
朝鮮はこれを好機として建州女直を攻撃して大勝利を得、毛憐衛は解体してしまいました。李満住は宗主国たる明朝に紛争調停を依頼します。1442年、明朝は建州左衛を分けて建州右衛を増設し、董山に父の跡を継がせて左衛指揮使とし、凡察を右衛指揮使に任命しました。ここに建州は三衛に別れたのです。凡察は1450年頃に逝去し、子の不花禿が跡を継ぎましたが、彼はのちに騒擾罪によって殺されています。
李満住と董山は建州衛・建州左衛を保ちましたが、1466年に明朝に対して反乱を起こし、1467年に征討を受けて滅ぼされます。明朝は満住の孫の完者禿(オルジェイト)、董山の子の脱羅(トロ)に跡を継がせ、1506年に脱羅が逝去すると子の脱原保が跡を継ぎました。しかし、彼らはヌルハチの直接の先祖ではありません。
寧古塔城
伝承によれば、董山の別の子に錫寶齊篇古(シベオチ・フィヤング)なる者がおり、その子福満(フマン)は六人の子を儲けました。その一人を覚昌安(ギオチャンガ)といい、ヌルハチの祖父にあたります。福満とその父は実在が定かでありませんが、ギオチャンガは明朝の史料に教場/叫場(チャオ・チャング)として現れ、実在の人物のようです。
16世紀頃、現在の黒龍江省牡丹江市寧安・海林付近に、ギオチャンガたち六人兄弟(六氏族の長)が住んでいたといいます。女直語で「六」をニングタ(ningguta)というところから、彼らはニングタ・ベイセ(六人の族長)と呼ばれ、その住処はニングタ城(寧古塔城)と呼ばれました。寧安はかつて渤海国の都・上京龍泉府が置かれた要地です。
彼らはやがてこの地を離れ、遼河の支流・渾河の支流であるスクスフ川(蘇子河)のほとりにやってきました。現在の遼寧省撫順市の近くです。
彼らはスクスフ(蘇克素護)部と称し、フネへ(渾河)、ワンギヤ(完顔)、ドンゴ(董鄂)、ジェチェン(哲陳)とともに部族連合を形成しました。これが建州女直の五部です。他に鴨緑江方面の三部が加わることもありました。東に大きく広がっていた建州女直は、朝鮮や他の女直に圧迫され、明朝の支配領域に近い渾河流域にまで縮んだのです。
海西女直
この頃、建州女直の北東には海西女直と呼ばれる集団がいました。女直語ではフルン・グルン(フルン国)といい、もとは松花江の支流フルン川のほとりに住んでいましたが、15世紀中頃以降モンゴルの圧迫を受けて南下し、現在の吉林市(ギリンウラ)北方のウラを中心として国を形成したのです。盟主はウラ部族のナラ氏で、ウラ部の南にホイファ部がありました。海西の「海」とは日本海ではなくハンカ湖でしょうか。
16世紀中頃、ウラ部の首長の一族はさらに南下し、明朝と国境を接する遼寧省鉄嶺市開原付近(古代の夫余国の地)に分立してハダ部を立て、その北にイェヘ部が分立しました。ウラとは川の意で松花江(スンガリ・ウラ)を指し、ホイファ、ハダ、イェヘもそれぞれ住処を流れる川の名前から来ています。ハダ部は勢力を広げて周辺の女直族を服属させ、その長はついに非チンギス裔ながらワン・ハン(王汗、萬汗)と名乗りました。明朝の記録においては「王台」と記されます。
1557年(嘉靖36年)10月、建州右衛都指揮使の王杲(ワン・カオ)が明朝に反乱を起こし、撫順を襲撃して守備隊長を殺害、略奪を行いました。ギオチャンガも彼とともに明を攻め、撫順近くのヘトゥアラに本拠を置き、王杲の娘エメチを息子タクシに娶らせています。1559年、タクシとエメチの息子がこの地で生まれ、ヌルハチと名付けられました。
明朝は征討軍を派遣しますが次々と敗れ、モンゴルのトゥメン・ハーンもこれに呼応しました。慌てた明朝は王台に救援を要請します。1562年、王台は王杲と撫順で会盟し、侵略をやめさせました。
1570年、明朝は遼東鉄嶺衛の指揮僉事・李成梁を遼東総兵に任命し、女直族への対策を強化させました。彼は軍備を拡充しつつ女真族の内部分裂を図り、交易権の停止をちらつかせて抑止力としています。1572年、王杲は亡命女真人の引き渡しを巡って明朝と再び対立し、略奪や殺戮を再開しました。李成梁は1574年にこれを撃退し、王杲はハダの王台を頼って逃げ込みますが彼に捕縛され、明朝に引き渡されて処刑されます。
この時、ギオチャンガは王杲を裏切って明朝につき、功績により建州左衛指揮使に任命されました。王台は女直族全体に対して強い影響力を及ぼし、ギオチャンガ家とも通婚しますが、李成梁の分断作戦により統一はならず、イェホ部の反乱などに悩まされました。1582年に王台が逝去すると、女直族は有力な指導者を失って混乱・分裂します。
1583年、建州右衛の城主で王杲の子のアタイが反乱しました。アタイの妻はギオチャンガの孫娘だったため、ギオチャンガは息子タクシとともに反乱をやめるよう説得に向かいますが、ニカンワイランが明軍と手を結び、アタイ、ギオチャンガ、タクシを皆殺しにしてしまいました。ニカン(nikan)とは女直語で漢人(契丹語で金朝をniku[山]と呼びます)を意味し、「漢人の手先」というほどの蔑称でしょうか。李成梁はタクシの子ヌルハチを24歳で建州左衛指揮使に任命しますが、ニカンワイランも功績によりスクスフ部の長とされます。両者を争わせて共倒れを狙ったのでしょう。
ヌルハチは少ない手勢を集めて駆け回り、ニカンワイランを遁走させてスクスフ部を統一しました。1585年にはフネへ部を併合、1586年に仇敵ニカンワイランを明軍から引き渡されて処刑します。李成梁はヌルハチを支援するようになり、ヌルハチは1589年までに建州女直五部族を統一し、これをマンジュ・グルン(マンジュ国)と呼びました。語源は定かでありませんが、かつて建州女直を統治した李満住にちなむのかも知れません。これよりヌルハチはマンジュ国の首領となり、女直族統一に向けて動き出すのです。
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【続く】
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