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【つの版】度量衡比較・貨幣22

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 11世紀末に始まった十字軍運動は、フランク/ローマ・カトリック世界を押し広げ、交易を活発化し、イスラム世界や東ローマからの先進文明を大規模に取り入れることにも繋がります。ことに海上交易を生業とするヴェネツィア共和国は、この時代に大きく発展しました。

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威尼台頭

 ヴェネツィアは十字軍運動を支援することで、アドリア海から東地中海に進出し、東方交易を掌握して繁栄しました。シチリア王国やピサ共和国、ジェノヴァ共和国、東ローマ帝国など周辺諸国はヴェネツィアの台頭を嫌い、合従連衡して自らの勢力を伸ばそうとします。

 1171年、東ローマの帝都コンスタンティノポリスでヴェネツィア人がジェノヴァ人地区に攻め込み、放火して大部分を破壊しました。皇帝マヌエルはヴェネツィア人の一斉逮捕と財産没収を行い、ヴェネツィアは報復として宣戦布告します。1172年、ヴェネツィア艦隊はギリシアで東ローマ海軍と戦いますが、疫病の流行により撤退し、追いつかれて大きな打撃を受けます。両国は国交断絶状態となり、ヴェネツィアは東ローマにおける権益を奪還すべく、シチリア王国やセルビア人と手を結んで東ローマを脅かしました。

 1180年に皇帝マヌエルが崩御すると、息子アレクシオスが即位しますが幼少で、母后マリアが摂政となります。彼女はフランク人が築いた十字軍国家のひとつアンティオキア公国の公女であり、「ラテン人」(ローマ・カトリック教徒)を優遇したので、正教徒の「ローマ人」(ギリシア人)は怒りを蓄積していきます。1182年4月、マヌエルの従弟アンドロニコスは正教徒の支持を得てクーデターを起こし、マリアを毒殺しました。興奮して暴徒と化した群衆はラテン人の居住地区に襲いかかり、虐殺と略奪が行われます。

 これにより東ローマとカトリック諸国の関係は悪化し、シチリアやハンガリーが侵略してきます。ヴェネツィアは弱みに付け込んで1183/84年に東ローマと国交を回復させ、投獄されたヴェネツィア人の釈放と賠償金の支払いに応じさせています。1185年には皇帝アンドロニコスが暴動で殺され、イサキオス2世が即位しますが、翌年ブルガリアが独立しています。

 1192年、ヴェネツィア共和国の元首(ドージェ)にエンリコ・ダンドロが就任しました。彼は頭部の負傷によりほとんど失明していましたが、東ローマとの戦闘や交渉で長年活躍した人物で、精力的に国政改革を行います。まずヴェネツィアから全ての外国人を退去させて財産を没収し、翌年にはハンガリーに奪われていたアドリア海東岸の要衝ザーラ(ザダル)を攻撃、各地の拠点を回復します。また1193/94年には通貨制度改革も行います。

 この頃、ヴェネツィア周辺では多種多様な貨幣が使われていました。最も信用のあったのは東ローマのヒュペルピュロン金貨で、その他の東ローマ産貨幣もひっくるめてベザント(ビュザンティオン/ビザンツの)と呼ばれました。これは対外取引用の高額貨幣で、国内では重さ2g程度のビロン貨(銅と銀の合金)のデナリが使われました。これには銀が1/4未満、0.5g弱しか含まれておらず、銀1g3000円で換算すれば1500円程度です。しかもデナリは次第に銀の含有量を下げていき、ついには銅貨同然となっていました。

 1140年にはシチリア王ルッジェーロ2世がドゥカート(公/元首の)と名付けた銀貨を発行していますし、十字軍運動で刺激を受けた神聖ローマ皇帝や英仏の王たちも、やや大型のデナリウスを発行し始めています。これは「12世紀のルネサンス」と呼ばれる文化・経済の発展を後押ししました。

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 1193年、エンリコ・ダンドロはペロポネソス半島南端の岬にちなんで「マタパン」と名付けた銀貨を発行しました。重さ2.18g、銀純度98.5%で、旧来のデナリ26枚と等価とされます。銀1g3000円とすれば約6000円、1デナリは230円ほどです。これはドージェ(ドゥクス)が発行したことからドゥカートと呼ばれ、また前のデナリより大きいことからデナロ・グロッソ(denaro grosso「大きいデナリ」)とも呼ばれるようになります。高い純度を持つ銀貨であるグロッソは、以後地中海世界の基軸通貨となりました。

聖戦走利

 第三回十字軍の呼びかけから10年が経過した1198年、ローマ教皇は新たな十字軍を西欧諸侯に呼びかけます。しかし神聖ローマ皇帝のフィリップは教皇が支援する対立皇帝オットー4世との戦いで忙しく、十字軍遠征などしている暇はありませんし、フィリップを支援するフランス王フィリップ2世も彼と戦う英国王リチャードも十字軍どころではありません。

 そこでシャンパーニュ伯、ブロワ伯、フランドル伯など、有力なフランス貴族や騎士たちが十字軍に参加することになります。フランス王フィリップは教皇と対立していましたから、彼らはどちらかと言えば教皇派で、フィリップと対立していた人々です。主要な指導者が相談した結果、まずエジプトを攻撃すると決まり、ヴェネツィアに輸送を依頼することにしました。出発準備中の1200年に指導者のシャンパーニュ伯ティボーが病死し、北イタリアのモンフェラート侯ボニファーチョが後任の指導者に選ばれます。

 1201年、呼びかけに応じた十字軍参加者はヴェネツィアへ集まり始めますが、怖気づいたり所領が大事だったりで、予定した3.4万人のうち1/3しか集まりませんでした。ヴェネツィア側はすでに船や糧秣を3.4万人ぶん準備万端整えて待っていたのですが、これでは有り金を全部集めても支払いができません。1万人ぶんにまけろとか借金して後で返すからとか言っても、契約済みなので解約できません。商売をナメてもらっては困ります。

 ヴェネツィアから目的地エジプトまでの輸送費用は、1年間で銀8.5万マルク(1マルク70万円として595億円)、4回の分割払いです。予定人数は3.4万人、馬4500頭です。1人あたり年2マルク(140万円)でパン・麦粉・野菜・葡萄酒が支給され、馬1頭あたり年4マルク(280万円)かかります。馬のほうが高いのは、人より体が大きくたくさん食べ、世話賃もかかるためです。一人や一頭あたりならば、当時としては法外な値段ではありません。

 協議の結果、十字軍はアドリア海東岸の港町ザーラ(ザダル)を攻略し、船賃の補填とすることになります。ここはヴェネツィア領でしたが、1183年にハンガリー王に占領されていました。しかしイスラム教徒相手ならともかく、相手は同じローマ・カトリックのハンガリー王国で、教皇とも手を組んでいます。十字軍内部でも大きな抵抗があったものの、結局ザーラ攻略に付き従うこととなり、ヴェネツィアをようやく出港しました。ザーラは数日で降伏しますが、知らせを聞いた教皇は怒って十字軍を破門します。ただ使者から事情を弁明されると大事の前の小事ということで破門を解除しました。たぶんがっつり賄賂を受け取ったのでしょうが、いい加減なものです。

 この頃、前東ローマ皇帝イサキオスの子アレクシオスが十字軍を訪ねて来ました。彼は叔父アレクシオスを打倒して父を帝位に戻したいと願い、ヴェネツィアと十字軍に支援を求めたのです。見返りとして銀20万マルク(1400億円)を支払うこと、東ローマ帝国が十字軍に参加すること、東西の教会が統合することが提示され、ヴェネツィアとモンフェラート侯はこれに賛成します。ヴェネツィアにとって都合のいい話ですから、すでに話がまとまっていたのでしょう。何も知らない十字軍の参加者らは躊躇し、一部の者は別行動をとりますが、結局大部分はこれに同意しました。

 同じ頃、ヴェネツィアはエジプトのアイユーブ朝と条約を結び、ヴェネツィア船舶の自由な入港と援助を保障される見返りに、アイユーブ朝領への遠征を支援しないことを約束しています。異教徒とはいえ、ヴェネツィアにとってアイユーブ朝は話せる相手で重要な取引先でしたから、これを攻めるよりは対立する東ローマを攻めたほうがトクです。十字軍はヴェネツィアの権益のために、イスラム教徒ではなく同じキリスト教国である東ローマ帝国を攻撃することとなったのです。

君府占領

 1203年7月、十字軍1万とヴェネツィア軍1万は艦船210隻に分乗し、コンスタンティノポリスに押し寄せます。東ローマ軍の主力も西欧やルーシからの傭兵部隊で、互いにカネのために激戦を繰り広げますが、戦意を喪失した皇帝アレクシオスは帝都を脱出してトラキアへ逃げ、イサキオスは釈放されて帝位に戻りました。しかし約束の20万マルクは支払われず、十字軍・ヴェネツィア軍は皇帝や帝都の住民と対立し、衝突や暴動が起き始めました。

 1204年1月、市民は新たな皇帝ニコラオス・カナボス、ついでムルツフロス(アレクシオス5世)を擁立して武装蜂起し、皇帝イサキオスとアレクシオスを殺害し、十字軍とヴェネツィア軍に退去を要請します。4月に両者は武力衝突し、アレクシオス5世は敗れて殺されました。十字軍は帝都を三日間略奪し、破壊と暴行、略奪と殺戮の限りを尽くします。

 ラテン人たちは東ローマ帝国を征服すると、ラテン帝国……正式には「ロマニア帝国(Imperium Romaniae)」を建国し、フランドル伯ボードゥアンを皇帝に擁立しました。十字軍の指導者ボニファーチョが皇帝になる予定でしたが、ヴェネツィアは強力な皇帝の即位を嫌い、彼には帝国西部のマケドニア地方が分与されてテッサロニキ王とされました。

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 ボードゥアンの領土は帝国の4分の1に限られ、ヴェネツィアは「帝国の8分の3」を獲得します。すなわちコンスタンティノポリスの8分の3、イオニア海沿岸やクレタ島など海上交通の拠点となる港や島々を領有したのです。さらにラテン人諸侯国の交易権も独占し、事実上東地中海の覇権を握りました。戦利品はヴェネツィアへ送られ、現在サン・マルコ寺院にある四頭立て馬車の銅像はこの時のもの(現在はレプリカ)です。

 しかし、東ローマの皇族はニカイアやトレビゾンド、エピルスなどへ逃れて亡命政権を建て、ラテン人たちから帝都を奪還すべく戦います。また北方のブルガリアはこれを好機としてロマニアを攻撃し、皇帝ボードゥアンは迎撃しますが捕虜になり、まもなく崩御しました。同年にはヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロも高齢のためコンスタンティノポリスで逝去し、ロマニア帝国はさっそく風前の燈火となりました。

 翌年ブルガリアを撃退し、どうにか持ち直したラテン人諸国は、これより半世紀あまり存続します。そして同じ頃、遙か東方ではチンギス・カンがモンゴル帝国を建国しました。やがてモンゴル軍はポーランドやハンガリーまで攻め寄せ、西欧諸国を脅かすことになるのです。

◆羅馬◆

◆神様◆

【続く】

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