
【つの版】ウマと人類史:中世編10・契丹淵源
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
9世紀中頃にウイグルとチベットが崩壊し、唐も内乱で瓦解する中、ユーラシア東部には新たな勢力が台頭します。寧夏のタングート、山西の沙陀突厥、そして遼河上流域の契丹です。
◆契丹乱羅◆
◆文字契丹◆
契丹淵源
契丹(キタイ)の起源はかなり古く、西暦4世紀に遡ります。史書に初めて現れるのは、554年に北斉で編纂された北魏・東魏の正史『魏書』です。
高句麗・百済・勿吉(靺鞨)と並んで、失韋、豆莫婁、地豆于、庫莫奚、契丹、烏洛侯という6つの部族集団が記されています。これらは高句麗や勿吉の西、大興安嶺に居住する諸部族です。このうちもっともチャイナに近いのが庫莫奚で、次に契丹があり、地豆于・失韋・烏洛侯・豆莫婁はその北に位置しています。庫莫奚から見ていきましょう。漢文は省略します。
庫莫奚国の先祖は、東部宇文の別種である。初め慕容元真の破るところとなり、残党は松漠の間に逃れた。その民は不潔で、弓矢での狩猟がうまく、掠奪を好む。
宇文とは鮮卑の一部族で、3世紀末頃に遼西に住み着き、隣接する慕容部とは対立していました。さらに遡れば、漢代に分散した匈奴の一派が鮮卑化したもののようです。慕容元真とは燕王の慕容皝で、344年に宇文部を撃破して滅亡させています。宇文部大人(族長)の逸豆帰は漠北へ逃れて死にましたが、子孫は燕国に仕えて名族となり、燕が滅ぶと北魏に仕えました。北魏が東西に分裂した時、西魏を牛耳って北周の祖となった宇文泰はその末裔とされます。庫莫奚は燕国や北魏に仕えなかった宇文部の子孫なのです。
松漠の間とは、いまの内モンゴル自治区南東部の赤峰市付近で、烏桓が根拠地としていたところです。遊牧適地で粗放な農耕も可能ですから、ここに住み着いて昔ながらの暮らしをしていたのでしょう。庫莫奚の語源は契丹ともども定かでありませんが、庫莫とはテュルク語で「砂」を意味するkumであるともいい、「奚」は漢語で「辮髪」、転じて奴隷・捕虜・蛮族を意味するそうです。鮮卑や柔然が「沙漠の蛮族」と呼んだのでしょうか。突厥碑文ではなぜか「タタビ」と記されます(契丹はキタン、キタニュ)。
登国3年(388年)、太祖(北魏の道武帝・拓跋珪)は自らこれを征伐し、弱洛水(シラムレン)の南で大破した。その四つの部落と、牛馬や羊や豚を十余万頭も獲得した。太祖は「こやつらは徳義を知らぬ蛮夷で、大した患いではない。いま中華は大乱であるから、先にこれを平らげよう」と言って兵を還し、燕や趙を服属させた。十数年(数十年)してこれらがまた盛んとなったので、遼海(渤海)を開いて和龍(龍城、遼寧省朝陽市)に戍(鎮守)を置いて守らせたところ、諸々の蛮夷は震え恐れ、各々朝貢した。
和龍/龍城こと今の朝陽市は、慕容皝が都城を築いて燕国の首都としたところです。397年には後燕、407年には北燕の都となり、436年に北魏が北燕を滅ぼしたことで初めて北魏領となりました。388年からは48年も経過していますから、十数年後というわけではありません。
高宗(文成帝、在位452-465年)や顕祖(献文帝、在位465-471年)の世には、庫莫奚は年ごとに名馬と文皮(斑紋のある虎豹の毛皮)を献じた。高祖(孝文帝、在位471-499年)の初年、使節を遣わして朝貢した。
文成帝の皇后の馮氏は北燕の王族で、471年に息子の献文帝を退位させて孫の孝文帝を帝位につけ、490年に亡くなるまで北魏の実権を握りました。彼女の政権を正当化するため、蛮夷から朝貢させたのでしょう。またこの頃に契丹も北魏へ朝貢したといいます。先に契丹伝を見てみます。
契丹国は庫莫奚の東に在り、異種同類で、ともに松漠の間に逃げ込んだ。登国年間にこれを大いに破ると、遂に逃げ去り、庫莫奚に分かれ背いた。数十年が経過し、ようやく勢力を広げ、部落を築き、和龍の北数百里にあって略奪をこととするようになった。世祖(太武帝)の太平真君年間(440-451年)以来、朝献を求め、毎年名馬を貢納した。顕祖(献文帝)の世に、莫弗乞何辰を遣わして奉献し、諸国の末席で饗宴に参加した。彼は帰国すると魏国の素晴らしさを喧伝したので、人々は魏を慕うようになり、東北の群狄もこれを伝え聞いて、服従を思わないことはなかった。悉萬丹部、何大何部、伏弗郁部、羽陵部、日連部、匹絜部、黎部、吐六於部などは、各々その名馬と文皮(虎豹の毛皮)を献上し、常に交易を望んだ。そこで和龍と密雲(河北省承徳市豊寧)の間に市場を設けて交易し、絶えることがなかった。
契丹は庫莫奚の同類ですから、やはり宇文部の末裔です。朝陽市の北数百里というと、北魏の1里は530mほどですから、300里として160km。赤峰市東部でラオハ・ムレンとシラ・ムレンが合流するあたりに住んでいたことになります。莫弗乞何辰というのが史上最初に名の見える契丹人ですが、テュルク諸語のバガトゥル(勇者)と関係がありそうです。またこの頃の契丹は八つの部族の連合体で、馬や毛皮を貢納していたことがわかります。
太和4年(480年)、長城の内側に侵入し、言葉を以て地豆于を畏れさせて略奪したので、詔書によって厳しく叱責した。(庫莫奚伝)
太和3年(479年)、高句麗が密かに蠕蠕(柔然)と謀り、地豆于を分けて取ろうとした。契丹はその侵掠を恐れ、莫弗賀勿は部落の車三千乗、民一万余を率い、さまざまな家畜を伴って北魏に庇護を求め、白狼水(大凌河)の東にとどまった。これより毎年朝貢した。のち飢餓が発生したと告げてきたので、長城の内側に入って穀物を買い付けることを許可した。(契丹伝)
地豆于とは契丹の北方にいた部族で、五穀がなく肉と酪(乳製品)を食べるといいますからまったくの遊牧民です。高句麗はこの頃長寿王のもと全盛期にあり、平壌に都を置き、南は百済を駆逐して漢城(ソウル)をとり、新羅を服属させ、西の北魏や南朝と両面外交を行っていました。遼東半島も高句麗領になっていましたから、契丹とも接していたのです。それがモンゴル高原の大国・柔然と手を組み、契丹の北まで進出し、庫莫奚もこれに同調して地豆于を脅したわけです。庫莫奚と対立していた契丹は板挟みとなり、北魏を頼って南下し、朝陽市の付近まで移動してきました(大凌河は朝陽市の真ん中を通り、東・南と曲がって遼東湾に注いでいます)。北魏の国境付近にある友好的な部族連合として、細々と暮らすようになったのです。
やがて柔然が滅亡し突厥が興ると、庫莫奚はこれに服属します。周書に契丹伝はありませんが、庫莫奚は北周に朝貢したため記載があります。それによると彼らは五部族の連合体で、各々に俟斤(イルキン)がおり、阿會氏が全体を統率する豪帥となっていました。契丹との争いは続いています。
『北斉書』宣武帝紀や『北史』などによると、契丹は553年に柔然の鉄伐可汗を殺害しました。同年9月、契丹が長城を越えて北斉領へ侵入しましたが撃退され、大きな被害を受けました。また突厥にも圧迫され、高句麗へ1万家が難民となって逃げ出しています。柔然の崩壊と突厥の拡大により、契丹が東や南へ押し出されたわけです。
松漠都督
隋書では、庫莫奚は奚と記されます。情報量は周書と大差ありません。しかし、契丹のほうは少し詳しくなっています。
契丹の先祖は庫莫奚と異種同類である。慕容氏に破られ、ともに松漠の間に逃げ込んだ。その後やや大きくなり、黄龍(和龍、朝陽)の北数百里に居住した。その俗は靺鞨とよく似ていて、掠奪を好む。父母が死んでも悲しみ哭かず、哭泣する者はおおしくないとされる。ただその屍を山の樹木の上に置き、三年してから骨を集めて焚く。酔って祝っていう、「冬は月で時を知り、陽に向かって食す。我が射猟の時、我に多くの猪・鹿を得させたまえ」その無礼で頑固なことは、諸夷で最も甚だしい。
後魏(北魏)の時に高麗(高句麗)に攻撃され、部落1万余が内附して白狼河にとどまった。のち突厥に圧迫され、1万家が高麗に亡命した。開皇4年(584年)、契丹の諸莫賀弗が来謁した。開皇5年、契丹は長城内部との交易を望んだので、文帝は許可し、そのもとの地におらせた。開皇6年、契丹の諸部族が互いに攻撃して久しく止まず、また突厥と共に隋に侵入したので、文帝は使者を遣わして叱責した。契丹は隋へ使節を派遣して謝罪した。のち契丹の別部の出伏らが高麗に叛いて隋に降った。文帝はこれを受け入れ、渇奚那頡の北に安置した。
開皇年間(581-600年)の末、契丹のうち4000家あまりが隋に叛いて突厥に降った。隋は突厥と和平を結ぶため、食糧を支給してもとへ返そうとしたが、彼らは固辞して去らなかった。契丹の部落はようやく増え、ついに北に遷って遊牧を行い、遼西郡(朝陽)の真北200里(100km余)にあって、託紇臣水(ラオハ・ムレン)のほとりに住んだ。東西500里(250km)、南北300里(150km)、分かれて10部となる。兵は多い部族で3000、少ない部族で1000あまり、季節によって移動した。戦争があると部族の酋長が集まって会議し、連合軍を結成した。突厥の沙鉢略可汗は吐屯の潘垤を遣わしてこれを統治した。室韋は契丹の同類で、南を契丹、北を室韋という。…
隋、突厥、高句麗といった強国に挟まれ、契丹部族連合は苦労しつつも鍛えられていきます。隋唐の高句麗遠征では営州が遠征の拠点として発展し、契丹も援軍となったりしながら文化を受容しました。続いて『旧唐書』を見ていきましょう。
契丹は、潢水(シラムレン)の南、黄龍(朝陽)の北、鮮卑の故地に居住し、長安から東北に5300里(2800km余)離れている。東は高句麗と、西は奚国と隣接し、南は営州(朝陽)、北は室韋に至る。その国の南に冷陘山があり、奚とはこの山を西境として分かれている。地は方2000里(1060km四方)。狩猟の獲物を追って往来し、常にとどまるところがない。
その君長の姓は大賀氏である。兵士は4万3000人。八つの部族に分かれ、兵を集める時は諸部族がみな集まって会議し、単独で決める事はできない。狩猟はそれぞれの部族で行うが、戦争はともに行う。もと突厥に臣属しており、よく奚と戦闘し、不利になると遁走して青山や鮮卑山に立てこもる。その習俗は、死者のために塚や墓を作らず、馬車に載せて大山へ送り、樹木の上に死者を置く。服喪期間はない。子や孫が死ねば父母は朝夕哭泣するが、父母が死ねば子や孫は哭泣しない。その他の習俗は突厥と同じである。
武徳年間(618-626年)にしばしば辺境で掠奪を行った。武徳2年、平州に侵入した。武徳6年(623年)、その君長の咄羅が唐に使者を遣わし、馬や貂を貢納した。貞観2年(628年)、その君長の摩會が部落を率いて降った。突厥の可汗が「亡命した梁師都を返還するから投降した契丹を還せ」と要請したが、太宗は拒んだ。太宗が高句麗を討伐して営州に至ると(645年)、契丹の君長や老人と会見して賜物を授け、族長の窟哥を左武衛将軍に任じた。貞観22年(648年)、窟哥らの部族がみな唐に内属したいと請うたので、松漠都督府を設置して窟哥を都督とし、無極県の男爵に封じ李姓を賜った。顕慶初年(656年)に左監門大将軍とした。
『新唐書』などによると、松漠都督府の各州は契丹の部族でした。松漠州は赤峰市オンニュド旗に置かれ、大賀氏窟哥部の本拠地です。他の諸州は赤峰市や通遼市の各地に置かれ、高句麗や突厥から降ってきた契丹も数部族ありました。要は名目的に唐の州名や官位を与えたもので、いわゆる羈縻政策です。奚も契丹とともに高句麗征伐に参加しており、648年には饒楽都督府が置かれ、奚の酋長の可度者を都督・楼煩県公として李姓を賜いました(饒楽とはシラムレンのシラ/黄に好字をあてたもの)。奚の各部族は同様に州とされ、営州には東夷都護府が置かれ松漠・饒楽の地を統括しました。窟哥の死後、660年に松漠都督の阿卜固が奚王の匹帝と結んで反乱を起こしますが鎮圧されています。
両蕃叛服
668年に高句麗は征服されますが、676年に新羅が唐から自立して朝鮮半島を支配下に収め、682年には東突厥が半世紀ぶりに復活します。契丹もその影響を受け、696年5月に唐(周)に対する反乱を起こしました。窟哥の子孫である松漠都督の李尽忠は営州都督を殺害し、無上可汗と称して数万の兵を集めます。契丹軍は河北一帯を劫略し、尽忠は10月に病死しますが孫万栄が反乱を引き継ぎ、697年6月末に部下の裏切りで殺されるまで戦いました。
以後しばらく契丹と奚は突厥に服属していましたが、715年に唐に再び服属し、契丹の李失活が松漠郡王、奚の李大輔が饒楽郡王に封じられ、各々が都督に任じられます。しかし730年に突厥が奚をそそのかして反乱させ、契丹も呼応して可汗を称し、唐と戦いました。安禄山が張守珪に仕えて契丹と奚の「両蕃」と戦い始めたのはこの頃です。彼は当然契丹語・奚語が話せたでしょうし、その降伏者を部下として軍事訓練を施していました。
またこの乱で大賀氏(李氏)は没落し、遥輦氏(迪輦氏)が契丹の長として台頭し、耶律氏によって可汗が擁立されます。漠北では突厥が滅んでウイグルが興り、契丹と奚はこれに服属しました。安禄山は彼らと戦いつつも味方につけ、755年に唐へ反乱を起こした時は多数の契丹の兵が付き従っていました。ただ契丹本国は従わず、安禄山が不在のうちに范陽(北京)へ攻撃をかけたりもしています。安史の乱以後、契丹と奚は河北の節度使と戦い続け、これを抑えるために唐の天子へたびたび朝貢しました。
840年にウイグルが崩壊すると、黠戛斯(クルグズ)が一時勢力を伸ばしますが、その支配は長続きせず、860年代にはタタルと総称される諸部族に漠北から追い出されます。契丹の可汗は「契丹王」と称するようになり、宇文部の滅亡から500年余を経て、ついに勢力を大きく広げ始めるのです。
◆時が◆
◆契丹だ◆
【続く】
◆
いいなと思ったら応援しよう!
