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【つの版】ウマと人類史:中世編14・奴隷騎兵

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1000年代のユーラシア東部には契丹・宋・夏の三国が鼎立し、緊張を含みつつも一応の平和が訪れました。ではその頃、中央ユーラシアや中東・欧州はどうなっていたのでしょうか。

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河西西域

甘州ウイグル2

 唐末から五代十国の頃、河西回廊にはいくつかの中小政権が割拠していました。涼州(武威)には河西節度使(10世紀中頃からは吐蕃六谷部)、甘州(張掖)と粛州(酒泉)には甘州ウイグル王国、瓜州と沙州(敦煌)には帰義軍節度使/西漢金山国があり、互いに争ったり服属したりしています。やがて夏(西夏)が台頭すると、1016年に甘州ウイグルが吐蕃六谷部を滅ぼし、1028年に夏が甘州ウイグルを、1035年に帰義軍を倒して河西を統一します。

 しかし西夏の勢力は、その彼方へは及びませんでした。青海地方には青唐王国や黄頭ウイグルなどがおり、タクラマカン砂漠の南側にはホータン王国が、北側には天山ウイグル王国(高昌回鶻)が、その西にはカラハン朝があって、交易路を巡りしのぎを削っていたのです。

天山ウイグルとカラハン朝

 天山ウイグル/トクズグズはかつてモンゴル高原を支配したウイグル・カガン国/トクズ・オグズ(九姓鉄勒)の残党であり、ビシュバリク(テュルク語で「五つの城」の意)を都としてハミ、トルファン、アグニ、クチャなどのオアシス都市を支配し、交易路を掌握していました。国教はウイグル・カガン国以来のマニ教で、ソグド文字をもとにしたウイグル文字を用い、漢人・ソグド人・トカラ人などが雑居し、モンゴル高原へ勢力を伸ばしてきた契丹に朝貢を行っています。10世紀後半からはマニ教に代わって仏教が盛んとなり、トルファンにベゼクリク千仏洞が築かれました。

 対するカラハン朝はウイグルとカルルクの混合政権で、カラとはテュルク語で「黒い」「強い」を意味し、漢語では黒汗朝ともいいます。建国者はビルゲ・キュル・カラ・カガン(カラハーン)といい、セミレチエ地方のベラサグン/クズオルドに首都を置きました。彼の子バジルはアルスラーン・カガン(獅子可汗)としてベラサグンを、バズルの弟オグウルチャクはボグラ・カガン(駱駝可汗)としてタラスを支配しました。正副両可汗制です。やはりマニ教や仏教、ゾロアスター教などが盛んでした。

 しかし893年、オグウルチャクはサーマーン朝に敗れ、タラスを奪われてカシュガルへ移動します。これはどのような国でしょうか。

薩曼王朝

 アラブ・イスラム帝国により651年にサーサーン朝ペルシアが滅亡したのち、残党はバクトリアやソグディアナに逃れ、唐や西突厥、突騎施を頼って抵抗を続けます。その百年後の751年、唐はタラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れ、アム川以北・シル川以南のマーワラーアンナフル(川の彼方の地、トランスオクシアナ/ソグディアナ)やホラズム(アラル海南岸)はイスラム領となりました。この地にいたゾロアスター教徒のソグド人は、次第にイスラム教に改宗し、イラン系ムスリムのタジク人となっていきます。

 タジク/タージーク(Tazik)とは、遊牧民のテュルクに対し、西イラン系のペルシア語を話しつつイスラムに改宗し、都市の定住民として生活する人々を指します。ペルシア人はアラブ・イスラム帝国をその有力部族ターイー(Tayy)からタージークと呼び、チャイナでは「大食」と音写されましたから、なにか関係があると思われます。またペルシア語で「王冠」を意味するTajが由来で、民族衣装の帽子をそう呼ぶのだともいいます。

 サーマーン家の祖であるサーマーン・フダーは、バクトリア/トハーリスターンのサーマーン村を治める地方領主(フダー、デフカーン)で、サーサーン朝の皇族バハラーム・チョービーンの玄孫と称していました。8世紀前半頃、彼はウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド(在任:723-727年、734-738年)のもとに来てゾロアスター教からイスラム教に改宗し、息子を彼にちなんでアサドと命名/改名したといいます。

 マーワラーアンナフルが征服されると、アサドはその地の有力者として台頭しました。彼には四人の息子があり、預言者にちなんでヌーフ(ノア)、アフマド、ヤフヤー(ヨハネ)、イルヤース(エリヤ)と名付けられています。819年、ホラーサーン総督ターヒルはアサドの四人の息子をそれぞれサマルカンド、フェルガナ、タシケント、ヘラートの知事に任命しました。ターヒルとその子孫らは藩鎮めいてホラーサーンに割拠し、アッバース朝から半自立の政権(ターヒル朝)を形成しますが、アフガニスタン南部のシースターンに興ったサッファール朝により873年に滅亡しました。

 875年、サーマーン家のアフマドの子ナスルはアッバース朝のカリフからマーワラーアンナフルの支配権(アミール位)を承認され、サマルカンドとブハラを拠点としてサッファール朝と戦いました。892年にナスルが逝去すると、弟のイスマーイールがブハラで即位して、王朝は最盛期を迎えます。そしてさっそくカラハン朝へ攻め込み、副都タラスを奪ったわけです。彼は降伏した3万戸ものテュルクをイスラムに改宗させ、戦力としました。

 敗れたカラハン朝の副王オグウルチャクは、タラスから南西へ逃走してタリム盆地西端の都市カシュガルに遷り、フェルガナ盆地やサマルカンドへ向かう交易路の一つを抑えます。またイスマーイールの政敵であったナスルを迎え入れてカシュガル北方の町アルトゥシュの統治者とし、彼に従うムスリムも集まって来ました。これに対し、イスマーイールはソグド系都市国家ウスルーシャナを征服してフェルガナ盆地へ進出し、異教徒のカラハン朝からイスラム世界を守ると宣言します。

 西暦900年、イスマーイールはサッファール朝の軍勢をバルフで撃破し、その君主アムルを捕らえてアッバース朝の都バグダードへ送りつけました。時のカリフ・ムウタディドは両国を相争わせて共倒れになることを狙っていたようですが、やむなくイスマーイールにホラーサーンの支配権を認め、カスピ海南岸のタバリスターンやレイ、その南のイスファハーンまでも統治下に置くことを承認します。ここにサーマーン朝の版図はタラス河畔からイラン高原の大部分にまで及び、かつてのサーサーン朝ペルシア帝国の東半を覆うまでに至ったのです。その首都ブハラには世界各地から商人や学者、文人が集まり、世界有数の文明国として繁栄しました。

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奴隷騎兵

 サーマーン朝の軍事力を支えたのが、マムルークないしグラームと呼ばれたテュルク系の軍人でした。彼らは捕虜や奴隷として大量に購入され、改宗と軍事訓練を施されたのち奴隷身分から解放され、主君の私兵/傭兵として働くことになります。9世紀にアッバース朝のカリフ・ムウタスィムがこれを行い始めたものの、増長したマムルークたちはカリフの首をすげかえるほどの権力を握るようになり、カリフの権威は凋落して、イスラム世界が四分五裂する原因のひとつとなってもいます。ローマや唐と同じですね。

 テュルク諸族と境を接するサーマーン朝では、国家事業として盛んにマムルークの中継貿易を行っており、マムルーク養成施設を設立して改宗と軍事教育を施し、イスラム世界の諸国へ輸出していました。奴隷といってもイスラム法では様々な権利が保証されていましたから、よきムスリムを増やしエリート軍人を育成する立派な事業として奨励され、購入される側にもする側にもメリットがあったのです。こうしてテュルクの若者たちは文明国での出世を望んで次々とマムルークになりました。

 しかし、唐が滅んだのと同年の907年にイスマーイールが病没すると、サーマーン朝は急激に衰えていきます。イスマーイールの子アフマドは914年に暗殺され、その子ナスル2世が即位しますがまだ8歳で、各地で反乱が頻発します。カスピ海南岸のタバリスターンではシーア派のアリー朝、ズィヤール朝、ブワイフ朝が次々と興り、サーマーン朝の治めるホラーサーンを攻撃しました。また909年にイフリーキヤ(チュニジア)に興ったシーア派国家ファーティマ朝は各地に伝道者を派遣して巧みな宣教を行い、サーマーン朝にもシーア派への改宗者が現れ始めます。

 こうした混乱の中、カラハン朝では920年頃にバジル・アルスラーン・カガンが逝去し(暗殺とも)、弟のオグウルチャクがカシュガルにおいてアルスラーン・カガンとなり、カラハン朝全体を支配下に置きました。バジルの子サトゥクは叔父オグウルチャクの養子となり、ボグラ・カガン(副王)となります。サトゥクは934年頃イスラム教に改宗し、オグウルチャクを殺してカシュガルを奪い取ると、955年に逝去するまで異教徒に対する聖戦ジハードをしばしば行ったといいます。

 一方、945年にブワイフ朝の君主らはバグダードへ入城し、カリフから「イラクの大アミール」に封じられます。サーマーン朝はブワイフ朝にイラン高原の西半分を奪われ、国内ではマムルーク出身の将軍アルプテギーンが軍事力を背景に実権を握ります。ナスル2世の孫アブドゥルマリクは彼をホラーサーン総督に任命しますが、961年にアブドゥルマリクが死に、その兄弟マンスールが即位すると解任されます。アルプテギーンは討伐軍を撃退してサーマーン朝から自立し、ヒンドゥークシュ山脈を越えてガズナ(ガズニー)へ入り、ガズナ朝を建国しました。宋の建国と同じ頃です。

 カラハン朝では960年頃、サトゥクの子ムーサーによってベラサグンが征服され、カシュガルが首都、ベラサグンが副都になります。また仏教国であるホータンを攻撃しますが、ホータンは天山ウイグルや吐蕃諸族と結んで反撃し、969年にカシュガルを一時占領しています。アルプテギーンも963年に逝去したため、サーマーン朝はしばし平穏となりました。

 977年、アルプテギーンの部下であったサブクテギーンはガズナ朝の君主になると、インドに遠征してパンジャーブ地方を蹂躙し、ペシャーワルを占領します。カラハン朝はサーマーン朝の北辺を攻撃し、980年にはイスフィージャーブ(タシケント郊外のサイラム)を占領、ザラフシャーン川上流の銀山を抑えています。ホラーサーンではカラハン朝と結んだ総督らによる反乱が繰り返され、992年にはブハラとサマルカンドがカラハン朝の手に落ちました。サーマーン朝の君主ヌーフ2世はガズナ朝に支援を求め、カラハン朝を撃退したものの、今度はガズナ朝の属国になってしまいます。

 999年、カラハン朝とガズナ朝はアム川を境として領土を分け合い、サーマーン朝は滅亡しました。サブクテギーンの子マフムードはアッバース朝のカリフからスルターンの称号を授かり、北インドからイラン高原に及ぶ帝国の主として30年あまり君臨します。またカラハン朝はマーワラーアンナフルを占領すると、ホータンからカシュガルを奪還し、1006年にはホータン王国を征服しました。ガズナ朝とは当初は友好関係を結びましたが、互いに野蛮な成り上がり者よと蔑み合い、争い合うようになります。

 サーマーン朝はサーサーン朝の後継者を称していたため、アラブによる征服・イスラム化以前のイラン・ペルシア文化が称揚されました。サーサーン朝時代の伝承がまとめられ、叙事詩『シャー・ナーメ』が編纂されたのは、サーマーン朝末期からガズナ朝にかけてのホラーサーンでのことです。ここではイランの英雄たちが「トゥーラーン」の蛮夷と戦う姿が描かれており、これに対してカラハン朝の君主らは自らトゥーラーン王アフラースィヤーブの末裔と称したといいます。
 またイラン人やテュルクは、ユダヤ教の聖書におけるノアの末子ヤペテの末裔と位置づけられました。ヤペテの子孫にはゴメル(キンメリア)やマダイ(メディア)、アシュケナズ(スキタイ)らもいますし、テュルクは古来ゴメルの子トガルマの子孫とされていました。このためゴメルはイラン神話における原初の人間ガヨーマルト、シャー・ナーメにおける人類最初の王カユーマルスと結び付けられてもいます。

 やがてカラハン朝は、カシュガルやベラサグンを首都とする東王国と、サマルカンドを首都としてマーワラーアンナフルを支配する西王国に分裂します。ガズナ朝もマフムードの死後は後継者争いで乱れ、新たに勃興したテュルク系オグズ族のセルジューク朝に敗れることとなりました。

◆アフガニ◆

◆スタン

【続く】

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