見出し画像

【つの版】ユダヤの秘密06・可薩崩壊

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

10世紀、ルーシ王国はキエフを中心地として勢力を広げ、957年には女君主オリガが東ローマ帝国と結んでキリスト教を受容します。しかし彼女の改宗はルーシ全体のキリスト教徒化を意味せず、息子スヴャトスラフは異教徒のままでした。彼は964年頃に親政を開始し、各地へ遠征を行います。

◆羅◆

◆斯◆

東西遠征

イーゴリとオリガの息子スヴャトスラフは、945年に父が殺された時はまだ幼く(あるいは若く)、母が摂政となってキエフを治め、彼はノヴゴロドの支配者として政治経験を積みました。名はスラヴ語で「力強い名声(Svijato-slava)」とも、ノルド語で「若い相続人(Svend-leifr)」とも解されます。

『原初年代記』ではイーゴリとオリガの結婚を世界創造暦6411年(西暦902年頃)とし、スヴャトスラフの誕生を6450年(942年)としますが、結婚から40年も後に子が生まれるのも不自然です。また同年に「シメオン(ブルガリア皇帝)が死んだ」とありますが、これは西暦927年にあたります。結婚を30年繰り下げた932年、出産を933年とすれば、945年にスヴャトスラフは12歳、957年には24歳となります。

彼は勇敢な戦士に成長し、従士団に好かれました。その姿はヴァイキングというより後世のコサックに近かったようです。

彼は中背で、特に大男でも小男でもない。眉毛は濃く、目は青く、獅子鼻である。あご髭は剃ってあるが、唇の上から濃く長い毛が垂れ下がっている。頭髪は剃っているが、一方の側から毛の束が垂れ下がっている(オセレーデツィ)。これは高貴な生まれを示すものである。がっしりした首で、肩幅は広く、体躯は均整がとれている。彼の衣装は白く、清潔である点を除けば、部下のものと大して違うものではなかった。耳には赤い宝石と2つの真珠のついた金の耳輪をつけていた。(輔祭レオーンの『歴史』)
彼は戦士らのあいだで豹のように軽やかに歩み、しばしば戦争を行った。遠征には荷馬車を従えず、肉を煮る鍋を持たず、牛馬の肉や狩りで獲た肉を切り取って、炭火の上であぶって食べた。彼は天幕を持たず、馬の上で眠り、鞍を枕とした。彼の従士らはみな同じようにした。(『原初年代記』)

年代記によれば6472年(964年)、スヴャトスラフは東方のヴャチチ族に対して遠征を行いました。彼らはヴォルガ川の支流・オカ川の上流域に住み、ハザールに銀貨を貢納していました。スヴャトスラフは服属した彼らにこれをやめさせ、ハザールを攻めることにします。スヴャトスラフは近くのドン川に船を運んで下り、ハザールの要塞サルケルを襲撃して陥落させました。さらに北カフカースのヤースィ(オセット)、カソーギ(チェルケス・アドゥイゲ)をも破り、翌年ヴャチチ族の地に戻って貢納を課したといいます。しかし略奪ばかりで支配はできませんでした。

続いて彼はブルガリアへ遠征します。これは東ローマ皇帝ニケフォロス2世の依頼によるもので、ルーシの目をハザールやクリミア半島ではなくブルガリアへ向けさせることは防衛上でも有効でした。果たしてルーシはブルガリアの各地を荒らし(『原初年代記』では戦果を誇張していますが)、968年にブルガリアが東ローマへ使節を派遣して講和しています。またブルガリアはキエフを攻めるようペチェネグを唆したため、スヴャトスラフはやむなく帰還し、母オリガの死をキエフで看取ったといいます。

イブン・ハウカルによると、ヒジュラ暦358年(西暦968-969年)にルーシがハザールを攻撃しました。ルーシはヴォルガ・ブルガール王国を襲撃し、ヴォルガ川を下ってハザールの首都ハザランとイティルを略奪し、カスピ海を南下してサマンダル(ダゲスタンの町)まで攻め込みました。ハザールの難民はカスピ海南岸のタバリスターンに到り、諸都市の荒廃を告げたといいます。一方で965年のサルケル陥落には触れておらず、この侵攻はスヴャトスラフではなく別働隊か、漁夫の利を狙った別集団かもしれません。

これらの攻撃によってハザールの覇権は失墜し、カスピ海から黒海北岸に至る平原地帯の多くはペチェネグやオグズの手に落ちます。しかし、ハザール自体が滅亡したわけではなく、沿岸部の都市やカフカース北部に残存して、相変わらず諸国と交易を続けました。ペチェネグやオグズはハザールのような都市文明を持たず、ユダヤ教を受け入れたりもしなかったようです。

969年、スヴャトスラフは東ローマの要請を受けて再びブルガリアへ遠征します。その軍勢はハンガリーやペチェネグからの援軍をあわせて6万にも及び、たちまちブルガリアを蹂躙しました。ブルガリア王ペタルは退位し、跡を継いだボリスはルーシに服属しますが、ルーシは彼を用いて東ローマに圧力をかけ、莫大な貢納を要求しました。東ローマ皇帝ヨハネス1世はこれを断り、両国は戦争に突入します。

皇帝ヨハネスはトラキアへ押し寄せるルーシ軍を迎撃し、翌年ブルガリアへ侵攻してボリスを捕縛、「海の火」でドナウ川のルーシ軍を焼き払うとスヴャトスラフの根城シリストラを囲みます。やむなくスヴャトスラフはヨハネスと講和条約を結び撤退しますが、キエフに戻る途中972年にペチェネグ人に襲撃されて戦死しました。その頭蓋骨は酒杯にされたといいます。

羅斯改宗

スヴャトスラフの死後、ルーシ王国は三人の子らに分割されます。すなわちキエフはヤロポルク、ドレヴリャーネ族の地はオレグ、ノヴゴロドはウラジーミルがそれぞれ相続しました。しかしヤロポルクはオレグと仲違いして殺害し、ウラジーミルも殺そうとします。ウラジーミルはスカンジナビアに亡命して戦士らを雇い集め、ヤロポルクを殺してルーシを再統一しました。

キエフに入った彼は宮殿の裏山に神々の像を祀り、周辺部族を平定して勢力を広げましたが、986年頃、彼のもとへ4つの宗教の聖職者が訪れます。

最初に来たのは、東方のヴォルガ・ブルガール王国のイスラム教徒でした。彼らは「預言者はこう教えました。神を信じ、割礼をし、豚肉を食べず、酒を飲むな。さすれば天国で70人の美女を娶り、淫楽に耽ることができる」と説きました。ウラジーミルは美女については心を動かされましたが、割礼や豚肉・飲酒の禁止は嫌がり、「我らルーシは酒を飲むのが楽しみで、それなしにはいられぬ」と言って断りました。そりゃまあそうでしょう。

続いて、西からドイツ人(ネメツィ)がやって来て、ローマ・カトリックを宣伝しました。彼らは「偶像は神ではありません。使徒パウロは定期的に断食せよと教えました」と説きましたが、ウラジーミルは「我らの先祖はこれを受け入れなかった」と言って断りました。

次いで、南東のハザールからユダヤ教徒がやって来ました。彼らは「キリスト教徒が信じるのは、我らが磔にした者です。我らは唯一の神、アブラハムとイサクとヤコブの神を崇めます。我らの法は割礼を受けること、豚肉とウサギの肉を食べないこと(反芻しない動物は食べない)、土曜日を安息日とすることです」と説きました。酒は飲めるようです。

ウラジーミルが「お前たちの国はどこか」と尋ねると、彼らは「エルサレムに」と答え、「今もそこにあるか」と問われると「神は我らの父祖に怒り、我らを罪ゆえに世界中へ散らし、キリスト教徒にそこを与えました」と答えます。そこでウラジーミルは「神がお前たちとその法を愛したのなら、お前たちを追放などされたであろうか。我らにも同じことを望んでおるのか?」といい、彼らを追い払いました。

3つの宗教が退けられた後、南のギリシア(東ローマ)から正教を信じる哲学者がやって来ました。その教えはなかなか優れていたので、ウラジーミルは喜んで彼に褒美を与えたといいます。翌年ウラジーミルはブルガール、ドイツ、ギリシアに使者を派遣して各宗教の実態を調べさせましたが、ギリシア人の宗教が最も優れていたので、ついに正教を受け入れたといいます。

『原初年代記』は正教の僧侶が書いたありがた話ですから、他宗教を貶めて正教を褒め称えるに決まっていますが、既にオリガが改宗していた以上、ルーシが国家宗教として正教に改宗するのは時間の問題でした。また東ローマ側の史料などを鑑みるに、ルーシ改宗の実情は次のようです。

976年に単独の東ローマ皇帝となったバシレイオスは反乱に悩まされ、ルーシに援軍を求めます。この時ウラジーミルは「見返りとして皇女アンナ(バシレイオスの妹)を娶りたい」と申し出ます。バシレイオスは「キリスト教に改宗するなら」と回答し、キエフで洗礼を授けさせました。反乱は鎮圧されたものの、皇女アンナはルーシの王と結婚することを渋り、しびれを切らしたウラジーミルはクリミア半島に出兵します。ついに皇帝は妹を説得してルーシへ送り、ここにウラジーミルは東ローマ皇帝の義弟となったのです。

可薩其後

上述の通り、ハザールはその後も衰弱しつつ生き残りました。北カフカース東部の政治勢力としては、少なくとも11世紀末まで年代記にハザールが登場します。1023年にはルーシ同士の内乱に傭兵としてハザールやカソーギが加わっていたとあり、1079年にはトムタラカンを支配していたルーシの首長がハザールにより追い払われています(1083年に復帰)。

11世紀末頃、ペチェネグは東方から襲来したテュルク系遊牧民キプチャクに圧迫され、崩壊・離散して吸収されます。キプチャクはペルシア語などでの呼び名で、東ローマやハンガリーではクマン(クバニの民)、ルーシではポーロヴェツ(平原の民、黄ばんだ連中)と呼ばれました。

その勢力はバルハシ湖の北からドナウ流域にまで及び、ペルシア人はこの領域を「キプチャク草原(ダシュト・イ・キプチャーク)」と呼ぶようになりました。東ローマや西欧では「クマンの地(クマニア)」と呼びます。

ハザール人は、このような状況下でも割と残存していました。1106年にはハザール人の将軍イヴァン(ヨハネ)がルーシ側についてポローヴェツと戦ったといいますし、コンスタンティノポリスやアレクサンドリアにハザール人のユダヤ教徒がいたという報告もあります。キプチャク草原の民は奴隷としてイスラム世界へ輸出されましたから、その中にもいたかも知れません。

キプチャクとルーシはともに部族連合としての繋がりが弱く、どちらも決着がつかないまま分裂抗争を続け、13世紀にモンゴル帝国によって征服されました。チンギス・カンの子ジョチの子孫は西方へ拡大を続け、キプチャク草原全体を版図とするようになり、各地に一族や功臣を分封しました。これがジョチ・ウルス(ジョチの国)で、「キプチャク・ハン国」は俗称です。

ジョチの子バトゥは、ヴォルガ川の下流部にサライという都市を建設しました。ハザールの都イティルと同じく交通の要衝で、世界各地との交易で大いに繁栄し、ルーシからの貢納もサライにもたらされました。やがてジョチ・ウルスが分裂すると、アストラハン・ハン国がこの地に割拠し、ヴォルガ河口の町アストラハンを首都として16世紀中頃まで栄えました。

モンゴル帝国は宗教的には極めて寛容で、サライにはキリスト教の教会もあればイスラム教のモスクもあったといい、シナゴーグや仏教寺院もあったことでしょう。1245年にローマ教皇の使者としてサライを訪れた修道士カルピニは『モンゴル人の歴史』を著し、北カフカースに「ユダヤ教を信じるハザール人」がいたと記しています。民族集団としてのハザールの名は、この記録を最後に歴史から姿を消しています。

可薩故地

さて本題です。「ハザールの末裔は東欧系ユダヤ人のアシュケナジムだ」とよく言われますが、本当でしょうか。少なくともハザールの故地には、東欧系ではない様々なユダヤ教徒が分布しています。

かつてのハザールの地であるダゲスタンには、山岳ユダヤ人と呼ばれる人々がいます。彼らはジュフリ(Juhuri、ユダヤ人)と称しており、ユダヤ教を信仰しますが、タート語というイラン系諸語を話します。タート人はこの地域の先住民で、イスラム教徒のタートも多く、山岳ユダヤ人はその一派かも知れません。少なくともテュルク諸語の話者ではないためハザールの末裔とも思われませんが、ハザールの影響でユダヤ教化した可能性もあります。

南カフカースのグルジアもといジョージアには、グルジーム(ジョージア人)と呼ばれるユダヤ教徒・ユダヤ人がいます。彼らはタート語ではなくグルジア/ジョージア語の一種グルジン語を用い、古代にこの地に移住したユダヤ人の末裔と考えられています。ハザールへ移住した者もいたでしょうか。

クリミア半島には、ハザールと同じくテュルク系の(ただしキプチャク系でやや別)クリムチャク語を話すクリムチャク人が存在します。今や絶滅寸前ですが、ハザールの末裔である可能性はなくもありません。

これとは別に、クリミア半島には同じくテュルク系のカライム語を話すカライム人(ユダヤ教徒カライ派)が存在します。カライムとは「読む者たち」を意味し、成文律法(トーラー)だけを権威として認め、口伝律法(タルムード、ミシュナーなど)を認めないという、正統派ユダヤ教からすれば異端の一派です。8世紀の中東で活動したユダヤ教哲学者アナンの流れをくみ、イスラム教の異端哲学も混じっているなどと指摘されます。

しかし、クリミア半島に彼らがいるという記録は14世紀以前にありません。またハザールのユダヤ教は、『ハザール書簡』による限りでは、タルムードなどを用いる正統派のラビ・ユダヤ教に属します。ハスダイも彼らがカライ派であるとは聞き及んでいません。

では、ハザールのユダヤ教徒はどこへ行ったのでしょうか。いかにユダヤ人が離散した流浪の民とはいえ、住み慣れた土地を離れる者は(バビロンからユダヤへ帰還しなかったように)多くはなかったでしょう。彼らは遊牧民であればペチェネグやキプチャクに合流し、あるいは山岳地に隠れ潜み、または都市の商人として活動したと思われます。ユダヤ教徒で居続けることが不利になれば、イスラム教などに改宗した者もいたでしょう。

それとも、彼らの一部は本当に東欧へ移住し、アシュケナジムになったのでしょうか。そもそも、アシュケナジムとはどのような人々なのでしょうか。次回からは、いよいよ欧州におけるユダヤ人について見ていきます。

◆過◆

◆越◆

【続く】

いいなと思ったら応援しよう!

三宅つの
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。