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【つの版】度量衡比較・貨幣165

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1775年、北米植民地では英国の支配に反抗する民兵の武力蜂起が勃発し、翌年7月に独立を宣言して国号を「アメリカ合衆国」としました。アメリカはフランスなど欧州諸国に支援を求め、独立戦争を継続します。1778年にはフランス、1779年にはスペインが参戦し、英国は孤立していきます。

◆Fight for◆

◆Right◆


南部戦略

 フランス、スペイン、オランダ、マラーター、マイソールを敵に回し、ロシアや北欧諸国からも武装中立の名のもと圧力をかけられた英国でしたが、アメリカに対しては比較的優勢でした。フィラデルフィアは奪還されたもののニューヨークを抑え、海上封鎖を行って支援を阻み、南部植民地へ兵を送って愛国者/王党派(ロイヤリスト)を焚き付け、反撃を行います。

 1779年から1780年にかけて、英国軍は南部での攻勢を強め、1780年5月にはサウスカロライナの街チャールストンを陥落させ、守将ベンジャミン・リンカーンを降伏させます。英国軍北米総司令官ヘンリー・クリントンは副将チャールズ・コーンウォリスに南部方面を任せてニューヨークへ戻り、書簡を往復させて支援に回りますが、両者は次第に仲違いしていきます。

 フィラデルフィアに戻っていた大陸会議は、チャールストン陥落とリンカーン降伏の報告を受けて驚き、ジョージ・ワシントンをライバル視していた軍人ホレイショ・ゲイツを南部方面軍の指揮官に任命して派遣します。しかし彼は8月にコーンウォリス率いる英国軍にサウスカロライナ州キャムデンで大敗を喫し、這々の体で北へ逃がれます。10月に王党派民兵がノースカロライナ州キングスマウンテンで独立派民兵に大敗を喫したためコーンウォリスの進軍は阻まれましたが、大陸会議はゲイツを罷免し、ワシントンの指名により12月にナサニエル・グリーンを指揮官としました。

 グリーンは南部におけるアメリカ軍の弱体ぶりを理解し、正面からの戦闘では勝機がないと判断します。となると、こちらの兵を分散させて英国軍も分散させ、ゲリラ戦と持久戦で苦しめるのが理にかなっています。ダニエル・モーガンフランシス・マリオン、「ライトホース・ハリー」ことヘンリー・リー、ジョージ・ワシントンの又従兄弟のウィリアム・ワシントンらは小規模な騎兵隊を率いてこの任務にあたり、英国軍や王党派を襲撃して物資を掠奪しました。これにより英国軍は物資を現地調達せざるを得なくなり、現地住民からの支持を失っていきます。グリーンは「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」というモットーで自軍を鼓舞しました。

 1781年1月、モーガン率いるアメリカ軍は、バナスター・タールトン中佐率いる英国軍の部隊1000余をサウスカロライナ州カウペンスに誘き寄せて撃破し、半分以上を降伏させました。モーガンは捕虜を率いて撤退し、生き延びたタールトンをさらに誘き寄せます。グリーンらもコーンウォリスをノースカロライナ州グリーンズボロへ誘き出し、2000に満たぬ敵軍を倍する兵力で迎え撃ちました。コーンウォリスは必死に戦って敵を撃破しますが兵力の1/4を失い、グリーンはノースカロライナ州沿岸部のウィルミントンに撤退したのち転進して、サウスカロライナ州の奪還を開始します。コーンウォリスはたちまち敵中に孤立し、やむなく北のバージニアへ向かいました。

英軍降伏

 バージニアはチェサピーク湾南部を扼し、ジェームズ川、ヨーク川など大河川の河口部に築かれた植民地で、内陸の大規模農場で生産されたタバコが各地の港からヨーロッパなどへ輸出されて外貨を稼いでいました。しかし防御は貧弱で、1779年には英国軍に侵攻されて大きな被害を受け、ジェームズ川河口部南岸のポーツマスは1780年10月に英国軍に占領されています。バージニアの首都はその北西のウィリアムズバーグにありましたが、英国軍の侵攻を避けて1779年にさらに北西内陸のリッチモンドに遷されました。

 この頃、ポーツマスに駐屯する英国軍の司令官はベネディクト・アーノルドでした。彼はアメリカ合衆国の軍人でしたが、フレンチ・インディアン戦争での遺恨からアメリカがフランスと同盟したことに反対し、1780年に英国のスパイと接触して機密情報を流出させており、これが露見して英国軍に降伏した人物です。アーノルドは英国から報酬を受け取ってバージニアに派遣され、手柄を立てようとリッチモンドへ攻め込み、これを占領して暴れまわっていましたが、大陸会議とワシントンは翌1781年3月にラファイエット率いる分遣隊をバージニアへ派遣します。

 ラファイエットはバージニア州ヨークタウンに到着し、バージニア民兵の指揮をとっていたシュトイベンらと合流します。またロードアイランドのニューポートにいたフランス艦隊もラファイエットと合流すべく動き出したため、クリントンは英国艦隊を派遣してバージニアを守らせ、ポーツマスまで逃げ帰ったアーノルドに援軍を送ります。この援軍を指揮していたウィリアム・フィリップスは5月に病死しますが、彼の招きに応えてコーンウォリスはノースカロライナから北上し、バージニアにやってきたのです。

 コーンウォリスはアーノルドからバージニアの指揮権を譲渡されると(アーノルドはニューヨークからニューイングランドへ転進)、兵と物資をかき集め、兵力で劣るラファイエットを追いかけ回します。しかしラファイエットは決戦を避けて逃げ回り、例によってゲリラ戦に徹します。コーンウォリスは深追いを避けて海岸部を制圧し、ヨーク川河口部の港町ヨークタウンに入って海軍基地を建設し始めました。ニューヨークのクリントンやカリブ海方面の英国艦隊が到着すれば、再びバージニアを制圧できます。

 しかし、頼みの綱の英国艦隊はチェサピーク湾口でニューポートから再びやってきたフランス艦隊と遭遇し、9月初めに大打撃を受けて撤退に追い込まれます。フランス艦隊も打撃を受けましたがチェサピーク湾口を確保することには成功し、コーンウォリスはまたも敵中に孤立しました。8月下旬にニューヨーク戦線から南下を開始したジョージ・ワシントン率いるアメリカ軍8000は、ロシャンボー率いるフランス軍1万、ラファイエット率いる3000と合流し、9月末にヨークタウンを包囲します。

 コーンウォリスはニューヨークのクリントンに援軍を要請しますが到着せず、2週間以上続いた激戦の末、兵糧も弾薬も尽きたことから降伏を余儀なくされます。降伏して捕虜となった英国軍は7000を超え、サラトガでの6000を上回りました。英国はなおも3万の兵力を駐留させていたうえ、ニューヨークやチャールストンなど重要拠点を抑えており、これで戦争が終結したわけではありませんが、結果的に決定的な英国の敗戦へと繋がります。

 11月下旬にコーンウォリスの降伏が英本国に伝わると、ノース内閣は致命的な打撃を受けました。ノースは1770年に首相に就任して以来、ほぼ一貫して対北米強硬派の立場をとってきましたが、国際的に孤立して同盟国もないまま地球規模の大戦争を強いられるとなると経済的打撃も大きく、野党のみならず政権内部からも批判の声があがったのです。1782年2月にはアメリカ担当大臣のジャーメインが辞任に追い込まれ、クリントンに代わって前ケベック知事ガイ・カールトンが北米軍総司令官に任命されました。

 しかし野党の政権批判の声は収まらず、同年2月末にはアメリカでの戦争終結を求める動議が提出され、再提出の後に可決されます、また3月には内閣不信任案が提出され、僅差で否決されましたが、3月20日にノースは自ら辞職しました。その後もノースは連立内閣を組むなどして権力に固執したものの、議会では戦争終結派が過半数を占め、戦争を継続することは不可能でした。英国は各国と講和交渉を開始し、ついにアメリカ合衆国の独立を承認することとなります。

◆米◆

◆国◆

【続く】

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三宅つの
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