【つの版】ウマと人類史:中世編37・東方見聞02
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
1271年、父ニコロ、叔父マフェオとともにヴェネツィアを出発した若者マルコ・ポーロは、1275年頃に上都でクビライ・カアンに謁見し、彼に仕えることとなります。その頃、東方から西方への旅行者も出発していました。
◆Santa Claus Is◆
◆Coming To Town◆
掃瑪西遊
1887年、フランス人宣教師サロモンがクルディスタンで伝道活動を行っていた時、現地のネストリウス派キリスト教徒が読んでいた書物を持ち帰りました。それは『マール・ヤバラーハー3世の歴史』といい、1317年以後にシリア人のキリスト教聖職者によって書かれた書籍の写本でした。これは1888年にパリで写本が出版され、1895年にフランス語訳版が出版され、1928年には(抄訳の)英語訳、1932年に日本語訳が出版されています。
シリア語写本にはペルシア語でマール・ヤバラーハー3世の伝記が付されています。それによると、彼は東方のオングト族出身で、本名をマルコスといいました。彼の師はバール・サウマといい、ともに遥か西方へ旅行し、ヨーロッパに派遣されてローマ教皇やフランス王、イングランド王にも謁見しました。マルコスは1279年にマール・ヤバラーハーの法号を授かり、1281年にネストリウス派の総主教に選出され、1317年に逝去したといいます。
つまり、これはマルコ・ポーロの『東方見聞録』とほぼ同時期に、ユーラシア大陸を横断してモンゴル帝国から西欧へ派遣された人物の旅行記です。西欧では19世紀末まで知られませんでしたが、同時代史料と比較しても信用性は高いものです。マルコ・ポーロは1275年から17年間クビライに仕えましたから、その間の西方の様子を知るため、彼らの旅行記を見てみましょう。
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バール・サウマは、ウイグル系オングト族の出身で、西暦1225年頃にモンゴル帝国のカンバリク(燕京)で生まれました。父はシバン、母はケヤムタといい、ともに敬虔なネストリウス派キリスト教徒(景教徒)でしたが、長い間子供が生まれませんでした。そこで断食祈祷(斎戒)を行ったところ息子が生まれたので、彼をシリア語でバール・サウマ(斎戒の子)と名付けたといいます。彼は景教を学び、20-23歳頃出家して僧侶となり、燕京の大主教マール・ゲオルギオスから剃髪式を受けます。以後は独房や洞窟に籠もって修行を積み、説法を行って弟子を集めました。マルコスはそのひとりで、サウマより18歳ほど年下でした。彼にとってサウマはラッバーン(我が師匠)であり、伝記では敬称としてそう呼んでいます。
1275年頃、30歳のマルコスは聖地エルサレムへの巡礼を熱望し、サウマは道中の苦難を諭しますが諦めず、ついにともに聖地巡礼しようとカンバリク近郊の洞窟を出発します。まず二人はマルコスの故郷である東城(フフホト)へ行き、オングト王家のクン・ブカとアイ・ブカ兄弟から歓迎されました。マルコ・ポーロが報告したキリスト教徒の王ゲオルギオス/コルギスはアイ・ブカの息子です。二人は彼らから乗馬と路銀を賜り、おそらくはクビライからも書簡と通行証を授かって、西方への大旅行に出発しました。
サウマとマルコスはカイドゥの支配領域を避け、黄河沿いに進んで河西回廊へ入り、夏州・沙州を経てタクラマカン砂漠の南、崑崙山脈の北を通り、ホータンに到達します。そこからカシュガルへ向かい、当地の景教徒から支援と紹介状を受け取りますが、このあたりはカイドゥとクビライの争奪地で荒廃していました。二人はカシュガルから天山山脈を抜けてタラスへ行き、カイドゥに謁見して歓待され、マーワラーアンナフルを経てアム川を渡り、イラン高原東部のホラーサーン地方に入ります。
彼らは盗賊に襲われ、所持金や荷物を奪われながらも、ホラーサーンの都市トゥースに到達します。この頃ネストリウス派の総主教マール・デンハはバグダードにいたため、二人は彼に会うべく西へ向かいますが、アゼルバイジャン地方の都市マラーゲに着いた時、たまたま来ていたデンハと面会できました。そして紹介状を受け取ってバグダードへ向かい、モスルに遷って修道院で生活しつつ、エルサレムへの旅を計画します。
しかし当時のエルサレムはフレグ・ウルスと敵対するマムルーク朝の支配下にあり、シリアやアルメニア地方は盗賊が跳梁跋扈する危険地帯で、陸路で向かうことは困難でした。ならばと黒海・エーゲ海・地中海ルートを模索しますが、これもジョージアへ行くことさえ難しく、二人はデンハやアバカと相談の末、エルサレム巡礼を断念せざるを得ませんでした。
西欧派遣
1279年、サウマとマルコス(ヤバラーハー)は各々大主教に任命され、キタイ(華北)へ派遣されることになりましたが、カイドゥとクビライの争いで中央アジアを通れず、立ち消えとなります。1281年にデンハが逝去するとヤバラーハーが後任の総主教に選ばれますが、1282年にアバカが逝去し、弟でイスラム教徒のテグデルが即位します。
テグデルはスルタン・アフマドと称し、マムルーク朝のスルタンと同盟して国内の異教徒を弾圧したため、サウマとヤバラーハーも讒言を受けて監禁されます。これに対して他の王族が反乱を起こし、1284年にアバカの子アルグンがテグデルを討伐して王位につきます。
彼は仏教徒でしたが、父にならって景教徒を優遇し、マムルーク朝に対抗するためヨーロッパのキリスト教諸国と同盟しようとしました。1285年には景教徒の僧侶イーサー・ケレメチがローマ教皇への使者として派遣され、ジェノヴァの銀行家トマス・デ・アンフーズ、通訳のイタリア人ウゲトが同行しています。ジェノヴァは東ローマ帝国復活以来、ヴェネツィアを抑えるため優遇され、地中海と黒海に勢力を伸ばしていました。
イーサーらが帰還した後、ヤバラーハーはアルグンから新たな使者は誰がよいかと問われ、自分の師であるサウマを推薦したのです。時にサウマは60歳を超えていました。1287年、サウマは景教徒でモンゴル人貴族のサバディン、付き添いの司祭、馬30頭を連れて出発しました。ヤバラーハーは総主教としての任務があるため同行していません。一行はアルメニア高原を縦断して黒海南岸部に至り、東ローマの分国トレビゾンド帝国の船に乗り、海路でコンスタンティノポリスへ向かいます。
時の皇帝アンドロニコス2世は一行を歓迎し、聖ソフィア大聖堂や聖遺物を観光させました。一行は再び船に乗り、エーゲ海、イオニア海を経て、6月にはシチリア島沖を通過し、火山の噴火を目撃しています。メッシーナ海峡を抜けてナポリへ上陸すると、国王カルロ2世に謁見しますが、この頃ナポリ王国はアラゴン王国と戦争中でした。またローマ教皇ホノリウス4世は4月に亡くなり、次の教皇はまだ選出されていませんでした。一行はローマに到達すると、各地の大聖堂で枢機卿たちと面会し、質疑応答や議論を行いましたが、軍事同盟について明確な返答は得られませんでした。
教皇が不在となると、軍事力を持った西欧の国王に謁見するしかありません。当時の神聖ローマ皇帝はハプスブルク家で初めて皇帝になったルドルフですが、教皇との関係は良好だったもののウィーンで反乱が起きるなど求心力は強くなく、やはりフランス王が最強ということになります。サウマたちはトスカーナを経てジェノヴァを訪問し、アルプス山脈を越えてフランスに入りました。パリに到着すると国王フィリップ4世から大歓迎されます。
フィリップは返礼の使節の派遣を約束しますが、軍事同盟についてははっきりした返答は得られませんでした。一行はパリから西へ向かい、ガスコーニュ地方の港町ボルドーにいたイングランド王エドワード1世にも謁見します。彼はフランスのアンジュー伯の子孫で、先祖からの相続によりフランス本土側にも所領があり(むしろこっちが実家)、イベリアのカスティーリャ王国の王女を娶ってフランス王と対立していました。エドワードはサウマたちを歓迎し、贈り物と路銀を与えましたが、やはり軍事同盟については返答しませんでした。十字軍盛んなりし時代は過ぎ、欧州本土での領土争いが優先される時代となっていたのです。まあ世界帝国でもない欧州諸国が中東まで大遠征すると国家財政が破綻しますし、他国に領土を狙われます。
大西洋まで到達した一行はジェノヴァへ引き返し、当地の資産家のもとで年を越します。1288年2月、ローマで新教皇ニコラウス4世が選出されると、サウマたちは招かれてローマへ戻り、彼に謁見して歓迎され、贈物や書簡を受け取ります。結局軍事同盟について返答は得られませんでしたが、友好関係を結ぶことには成功し、一行は地中海とコンスタンティノポリスを経て、バグダードに帰還しました。教皇はアルグンを称賛し、聖地エルサレムへの出兵を進言しています。
使節往来
1289年、アルグンはジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフをローマに派遣し、教皇からの返書に同意して聖地攻略を了承する旨の書簡をラテン語による注釈付きで届けさせました。またフランスとイングランドの国王へも同様の書簡が送られ、このうちイングランドへの書簡を除く二通が現存しています。1246年のグユクからの書簡は甚だ高圧的でしたが、フレグ・ウルスは早くから欧州諸国と友好関係を結んでいたのです。
マムルーク朝はこれに対抗するためジョチ・ウルスとの同盟関係を強化しますが、エジプトと黒海の間は東ローマ帝国やキリキア・アルメニア王国が阻んでいます。またフレグ・ウルスはクビライの大元ウルスと友好関係にあるため、クビライは欧州諸国と手を結び、ジョチ家やカイドゥを牽制しようとしていたのです。ユーラシア規模での視野がないとこうはいきません。
1289年、ローマ教皇はフランシスコ会司祭ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノらを東方へ派遣し、クビライの治めるカタイ(華北)地方へのローマ・カトリックの伝道を命じました。モンテコルヴィーノは1275年から89年にかけて中東で活動しており、異国の事情に通じていました。彼らはタブリーズでアルグンに謁見し、1291年には海路でインドへ向かいますが、同年にアルグンは逝去し、異母弟ゲイハトゥが即位しました。
彼はアバカの子、アルグンの弟としてキリスト教を庇護し、1293年にはサウマの願いでマラーゲに景教寺院を建立しましたが、エルサレム遠征は立ち消えになりました。サウマは1294年1月、クビライは2月に亡くなり、同年にモンテコルヴィーノらは大都に到達しています。またマルコ・ポーロは1292年に海路でフレグ・ウルスを目指し、1293年にホルムズ港に到着、1295年にヴェネツィアへ帰国しています。モンゴル帝国と欧州諸国の間には、かくも盛んに往来があったのです。次回は『東方見聞録』に戻りましょう。
◆東◆
◆方◆
【続く】
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