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【つの版】ユダヤの謎14・星之王子

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ユダヤ教やキリスト教における終末論、善悪二元論といった教義は、イランのゾロアスター教から取り入れたものでした。しかし現実世界は理不尽なもので、常に倫理的に善や正義や敬虔な方が勝つわけではありません。理想論や神学論争はさておいて、現実の歴史の方を見てみましょう。

◆星◆

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猶太反乱

西暦96年にローマ皇帝ドミティアヌスが暗殺されると、元老院によってネルウァが皇帝に擁立されます。彼は温厚な性格で元老院には喜ばれたものの、軍からは支持を得られず、98年には近衛軍の反乱により軟禁状態に置かれました。やむなくネルウァはゲルマニア総督トラヤヌスに帝位を禅譲し、同年崩御します。

彼は軍にも民衆にも慕われた名将で、元老院にも受けがよく、101-106年の対ダキア戦争ではデケバルス王を自決に追いやってダキア(現ルーマニア)全土を併合、属州化するという功績をあげました。また106年には、王家が断絶したナバテア王国(現ヨルダン等)を併合してアラビア属州とし、国内でも公共事業や財政再建に取り組んで効果を上げました。

113年から116年にかけては、アルメニアに傀儡王を立てたパルティアを懲らしめるため東方遠征を行い、アルメニア・アッシリアメソポタミアを属州化します。パルティア王オスロエスは首都クテシフォンを放棄してイラン高原へ逃亡し、ローマ軍は史上初めてペルシア湾に到達しました。

しかし115年、北アフリカの属州キレナイカ(リビア東部)で反乱が勃発します。カッシウス・ディオの『ローマ史』などによると、首謀者はギリシア名をアンドレアス、ヘブライ名をルクアス(Lukuas,L'yaqish「鳥を捕らえる者」)というユダヤ人です。彼は自ら王を名乗り、徒党を組んで異教の神殿や浴場などを襲撃して破壊し、逆らう者を虐殺しました。

反乱軍は膨れ上がってエジプトへ侵攻し、アレクサンドリアに攻め込んで占領します。ユダヤでもヤムニア北東のリダ(ロド)という町を中心に反乱が発生し、キプロスやメソポタミア各地(ニシビス、エデッサ、セレウキア、アルベラ)でもユダヤ人が呼応して、ローマの守備兵やギリシア人を虐殺しました。神殿と聖都を破壊され、奴隷とされた恨みを爆発させたのです。

状況的に、パルティアが反乱を煽って支援した可能性は高いでしょう。アルメニアではパルティア王オスロエスの甥が亡命政権を樹立し、トラヤヌスの背後を脅かしました。

パルティア在住ギリシア人はローマに友好的でしたが、ユダヤ人は先の恨みで反ローマ・親パルティアの傾向が強く、しばしばギリシア人と衝突していました。『ヨハネの黙示録』でも「日の昇る方の王(パルティア)」がローマ領に攻め込むかのような描写があります。西暦30年にはアッシリア東部のアルベラ(アルビル)を首都とするアディアバネ王国の女王ヘレナユダヤ教に改宗しており、エルサレム神殿の建設に資金提供しています。なお当時のユダヤ人の人口を700万人とする説もありますが、多すぎる気がします。

これに対し、トラヤヌスは部下のルシウス・クィエートゥス(ギリシア語形ルシオス・キトス)とマルキウス・トゥルボを派遣しました。キトスはメソポタミアの拠点都市ニシビスへ、トゥルボはエジプトへ向かい、反乱軍を撃ち破ります。117年にはキプロスの反乱も鎮圧され、ルクアスは海路でキレナイカを脱出してユダヤに向かい、リダに籠城します。トゥルボとキトスはこれを包囲して陥落させ、多くの反乱ユダヤ人を処刑しました。

この大反乱は第二次ユダヤ戦争、あるいは鎮圧者の名をとってキトス戦争とも呼ばれます。ヤムニアのユダヤ議会はこれに参加しておらず、ユダヤ人全てが処罰されることはありませんでしたが、周囲からは「テロリスト集団、虐殺者・反逆者の仲間」として差別されたことでしょう。キリスト教もユダヤ教から派生した以上、その同類と見られていたようです。

迷信弾圧

トラヤヌスはキリキアまで戻りますが病気で崩御し、従兄弟の子にあたるハドリアヌスが跡を継ぎました。彼は維持が困難であるとしてメソポタミア、アッシリア、アルメニアの3属州を放棄し、パルティアとの国境線を元に戻して和睦します。キトスはこれに反対したため処刑されました。

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ハドリアヌスは防衛を強化しつつも戦争は行わず、帝国を巡幸して平和と繁栄の維持につとめ、ユダヤ人に対しても寛容に接しています。しかし130年にユダヤ属州を訪れた時、エルサレムをユダヤ教の聖都ではなく、ローマ風の都市に再建する計画を立てました。彼は新都市を自らの氏族名アエリウスにちなんでアエリア・カピトリナと名付け、崩れ落ちたヤハウェ神殿の跡地にローマの最高神ユピテルに捧げる神殿を建設すると宣言したのです。

ユダヤ教の中心地がヤムニアに遷っていたとはいえ、この暴挙はユダヤ人を激怒させました。かつてセレウコス朝シリアがエルサレム神殿をゼウスに捧げたことがありましたが、よりによってあれをやろうというのです。

さらに132年には「身体の一部を切除する行為」を禁止する勅令を出し、逆らえば死罪であると命じました。これにはいわゆる去勢のほか、ユダヤ教の「割礼」も含まれます。割礼はアブラハム以来イスラエル民族とヤハウェとの契約として行われてきたものであり、これを行わない者はユダヤ人でもユダヤ教徒でもありません(キリスト教徒はやめましたが)。

ユダヤ人は征服地の民や寄留者や奴隷を改宗させて新たなユダヤ教徒とし、割礼を受けさせることをしばしば行っており、他国民から野蛮な風習として嫌われていました。ハドリアヌスはユダヤ教を「他の神々を認めない邪教」「野蛮な迷信」と断じ、地上からユダヤ教徒を根絶しようとしたわけです。ユダヤ教徒ならば断じてこれに従うわけには行きません。

星之王子

キトス戦争終結から10年あまりしか経っておらず、残党や恨みを抱く人々は山ほどいましたから、帝国全土や外国からも続々とユダヤ人が集まります。サンヘドリンは民族存立の危機に対し皇帝に抗議しますが聞き入れられず、ついに反乱に踏み切ることにします。指導者に立てられたのは、自称メシアのシモン・ベン・コスィバでした。律法学者ラビ・アキバは、モーセ五書のひとつ『民数記』に書かれた「バラムの予言」を引用します。

わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星(コカブ)が出、イスラエルから一本のつえが起り、モアブのこめかみと、セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。敵のエドムは領地となり、セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。権を執る者がヤコブから出、生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう。(民数記24:17-19

たぶんダビデやヨシヤの出現を事後予言したものと思われますが、アキバは「救世主を予言したものだ」とし、シモンにアラム語で「バル・コクバ(星の子)」という称号を与えました。アキバとサンヘドリンは彼を予言されしメシアと認定し、ユダヤ民族の指導者(ナスィ)に擁立します。

ユダヤ人は次々に武装蜂起し、ローマの守備兵や異邦人を殺戮すると、聖都エルサレムを奪還しました。バル・コクバはここを拠点に対ローマ戦争を続け、ユダヤの独立を記念・喧伝する貨幣を発行します。ハドリアヌスは鎮圧のためブリタニア総督セウェルスをユダヤ総督に任命し、精鋭を授けて派遣しますが、狂信的なユダヤ人の頑強な抵抗は2年以上続きました。

西暦135年、ついにエルサレムが陥落し、バル・コクバは南西の要塞ベタル(バティール)へ逃げ込むも撃破されて戦死します。セウェルスはラビ・アキバら首謀者を捕らえて全員処刑し、残りは奴隷とされ、反乱は完全に鎮圧されました。ハドリアヌスはユダヤ・サマリア・ガリラヤ及びペリシテ人の地(ガザやアシュケロン等)を合わせて「シリア・パレスチナ(シュリア・パレスティーナ)属州」と名付け、ユダヤの名さえも消し去ります。

パレスチナの呼称はヘロドトスも用いており、フェニキアとエジプトの間の沿岸地帯に居住してイスラエル人と争ったペリシテ人にちなむ地名です。イスラエル人・ユダヤ民族からすれば、聖地エルサレムを含むユダヤ本土すら「ペリシテ人の地」の名で呼ばれるようになったわけです。

さらにハドリアヌスは予定通りエルサレムに新都市アエリア・カピトリナを建設して非ユダヤ人だけを居住させ、ヤハウェの神殿跡地にユピテル神殿を建てました。またユダヤ人は反乱に加わらなかった者も人頭税(ユピテル神殿に納める税)を徴収され、多くの土地を没収され、アエリア・カピトリナへの立ち入りを厳しく禁じられます。

ユダヤ人の多くは奴隷や捕虜、難民となって離散し、あるいはユダヤ教を捨て、民族的アイデンティティを失って消滅しました。しかしヤムニアのユダヤ議会はガリラヤへ移転し、ティベリアスを中心地として存続します。亡国も離散も迫害も、ユダヤ教徒を根絶するには到りませんでした。

関係修復

ハドリアヌスは138年に崩御し、アントニヌス・ピウスが即位します。彼はユダヤ教徒への迫害を緩め、異民族や奴隷への強制的な割礼は禁止したものの、ユダヤ教徒の間に生まれた子にならば行ってよいとしました。またガリラヤに移転したサンヘドリンの議長を民族指導者・総主教(ナスィ)として認め、ユダヤ民族の代表者にして神殿税の徴収者とします。またユダヤ教徒間の民事裁判権や、律法学者の長としての権威も与えられました。

続く歴代のローマ皇帝も、アエリア・カピトリナへの立入禁止は続けたものの、ユダヤ民族との関係を比較的良好に保ちました。繰り返された大反乱はローマにとってもユダヤ民族を脅威とみなすには充分でしたし、全土に離散した連中がまたパルティアと手を組んで反乱しても大変です。地政学的にもエジプトとシリア・アラビアを結ぶ重要な位置にあるため、むしろ手懐けて味方につければよい、という現実的な路線に戻ったわけです。その甲斐あって、以後ユダヤ人は大規模な反乱を起こさなくなります。

161年から165年にかけて、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスはパルティアと戦い、将軍カッシウスはアルメニアやメソポタミアに侵攻してクテシフォンを一時占領しました。194-198年、皇帝セプティミウス・セウェルスは自ら東方遠征を行い、ユーフラテス東岸の緩衝国オスロエネ王国を併合して、メソポタミア属州を再設置しました。クテシフォンやセレウキアは含まれませんが、ユダヤ人の居住地であったシリア東部のハブール川流域を含み、エデッサやハッラーンもローマ領となったのです。

この頃ローマ帝国に問題視されていたのは、むしろキリスト教の方でした。ユダヤ教よりも布教に熱心で、入信に割礼を伴わないために改宗者も多く、ローマを「悪の帝国」とみなし、神々や皇帝を崇めようとしません。ユダヤ教徒は特殊事情があるからいいとしても、ローマ帝国は民族を超えて増え続けるキリスト教に対処する必要が出てきたのです。

◆岩回転◆

◆星◆

【続く】

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