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【つの版】度量衡比較・貨幣164

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1775年、北米植民地では英国の支配に反抗する民兵の武力蜂起が勃発し、翌年7月に独立を宣言して国号を「アメリカ合衆国」としました。アメリカはフランスなど欧州諸国に支援を求め、独立戦争を継続します。1778年にはフランス、1779年にはスペインが参戦し、英国は孤立していきます。

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英軍反撃

 1779年6月、スペインは英国に宣戦布告し、フランスと手を組んで英国領ジブラルタルを包囲します。さらに両国は連合艦隊を英国本土に差し向け、英国の南のワイト島とポーツマス港を占領しようと目論みました。これは疫病や連携不足で失敗したものの、英国は大いに動揺します。またジブラルタルへの包囲作戦は3年続き、ミノルカ島やカリブ海諸島の英国領もスペインとフランスの連合軍に脅かされ続けることになります。

 17-19世紀の海戦は戦列艦(ship of the line)が主力でした。これは多数の大砲(50-100門)を舷側(横腹)に積んだ大型の帆船で、海上で複数の船が単縦陣の戦列を組み、敵に舷側を向けて多数の砲弾を叩き込み破壊するというものです。大砲を積みすぎると足が遅くなりコストもかさむため、威力と速度のバランスが取れた「74門艦」がこの頃には国際標準でした。

 アメリカ独立戦争が始まった時、英国はこの戦列艦を131隻所有していましたが、七年戦争時に急造したものは放置して整備していなかったため、すぐに動けたのは39隻でした。1778年には66隻、1779年には90隻が稼働可能になったものの、フランスとスペインは各々50-60隻を有していたため連合すれば120隻となり、数の上では英国海軍に勝ります。ただしアメリカ合衆国は戦列艦を持たず、私掠船を雇ったり小型の船を用いたりしていました。

 そこで、英国は比較的弱体なアメリカに艦隊を差し向け内陸深くへ侵攻するよりも、フランスとスペインを海上で打破してアメリカへの支援を打ち切らせ、孤立したアメリカに改めて降伏を迫るという戦略に切り替えます。無論アメリカを放置するわけではなく、ニューヨークに対アメリカ総司令部を置いて威圧しつつ、カリブ海やフランス・スペイン領に近くて手薄な北米植民地南部(ジョージアなど)へ兵を派遣し、これを制圧して拠点化を進めます。また周辺のアメリカ先住民には武器をばら撒き、入植者から土地を奪い返すようそそのかして英国に味方させました。

 1779年から1780年にかけて、英国軍は南部での攻勢を強め、1780年5月にはサウスカロライナの街チャールストンを陥落させ、守将ベンジャミン・リンカーンを降伏させます。英国軍北米総司令官ヘンリー・クリントンはコーンウォリス将軍に南部方面を任せてニューヨークへ戻り、書簡を往復させて支援に回りますが、両者は次第に仲違いしていきます。

武装中立

 この頃、英国はアメリカに対して海上封鎖を行い、中立国であろうとアメリカに支援物資を輸送する船は発見次第捕獲すると宣言していました。これに対し、1778年にはスウェーデン=フィンランドが中立国船舶の保護を訴え、1779年にはロシアの女帝エカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由および禁制品以外の物資輸送の自由を宣言します。

 1780年8月にはスウェーデン=フィンランド、デンマーク=ノルウェーの北欧諸国がこれに同調し、ロシアと「武装中立同盟」を結成しました。直接英国に宣戦布告するわけではないにせよ、自由貿易にかこつけてアメリカを支援し、英国に圧力をかけようというわけです。この同盟にはのちにオランダ、プロイセン、ポルトガル、オーストリア、オスマン帝国、シチリア王国も参加し、英国はさらなる国際的孤立状態に陥ります。

 北欧諸国やロシアはさておき、オランダ(ネーデルラント)の武装中立同盟参加は英国にとって由々しき事態です。経済的にも政治的にも英国の弟分に成り下がっていたオランダは、国家としては中立を宣言しつつも多くの商人・企業がアメリカと私的に密貿易を行い、独立運動を支援していました。当時のオランダ総督ウィレム5世は英国王室の親戚でしたが権力が弱く、議会や企業が実権を握り、各々がフランスなどの支援を受けていました。カリブ海周辺にいくらか植民地もあり、衰えたりとはいえ海運商業国のオランダがアメリカを支援すれば、独立運動を抑え込めません。そのオランダが武装中立同盟に加われば、オランダの密輸船を捕獲すると北欧諸国やロシアも敵に回るのです。彼らも英国と戦う気はないでしょうが見過ごせません。

 1780年12月、英国はオランダに宣戦布告し、欧州の本国及びカリブ海・アフリカ・アジアのオランダ植民地へ攻撃をかけました。北欧諸国やロシアは動かず、寝耳に水の各植民地は英国の奇襲を受け次々に攻め落とされます。オランダ本国への侵攻はなかったものの海上封鎖を受けて経済的に壊滅的な被害を受け、国力の衰退が加速する結果に終わったのです。

英印戦争

 英国と各国による世界大戦と化したアメリカ独立戦争は、遥かインドにまで飛び火します。英国東インド会社は1765年にムガル帝国よりベンガル・ビハール・オリッサの徴税権・行政権を獲得し、南インドから東インドにかけて勢力を広げましたが、周辺のカルナータカ太守、マラーター王国、ニザーム王国などと同盟を結び、協力関係を築いていました。これに対し南インドのマイソール王国の君主ハイダル・アリーはフランスと同盟し、その支援を受けて周辺諸国へ戦争を仕掛け、領土拡大に邁進していました。

 1767年にマラーター王国がマイソール王国へ侵攻すると、ハイダル・アリーはこれを口実として北のニザーム王国と同盟を結び、カルナータカ太守が治めるタミル地方へ侵攻します。マドラスの英国軍は反撃しますが撃破されてしまい、1769年にはマドラスにまで攻め込まれて城下之盟を余儀なくされます。しかしハイダル・アリーに英国を追い出す気はなく、むしろ同盟を結んでマラーター王国と戦うための援助を引き出そうとしました。英国は同盟条約は結んだものの、彼を支援して戦うことはせず、事実上反故にします。

 1775年3月、英国はマラーター王国の内紛により亡命した前宰相ラグナート・ラーオを支援し、復権のための兵力を貸し与えます。しかし彼はすぐに戦いに敗れ、英国とマラーター王国の全面戦争に突入しました。数で勝るマラーター軍に英国軍は連敗を喫しますが、1779年2月から反撃に転じ、多数の首長の連合体であるマラーター王国を切り崩します。そこでマラーター王国は1780年にニザーム王国およびマイソール王国と同盟を結び、ハイダル・アリーは再びマドラスめがけて攻め込みました。

 この攻撃により英国はカルナータカ地方を喪失し、マドラスは包囲されて危機に陥ります。英国とマラーターの戦争は1782年まで、マイソールとの戦争は1784年まで(ハイダル・アリーは1782年に逝去)続き、フランスも艦隊を派遣して英国と戦い勝利を収めています。しかし英国は決定的な敗北を喫することはなく、インドにおける領土の喪失も比較的小規模で済みました。戦後に英国はニザーム王国、マラーター王国と手を組んでマイソール王国に侵攻し、その領土の半分を削り取ることに成功するのです。

 こうした中、1780年7月にはフランスの軍人ロシャンボーが6000の兵を率いてアメリカに派遣されます。彼はロードアイランドに1年間とどまり、フランス海軍を海上封鎖する英国海軍に睨みをきかせていましたが、アメリカ軍総司令官ジョージ・ワシントンと連絡を取り合い、ニューヨーク奪還作戦を相談します。1781年、米仏両軍は連携して英国軍に立ち向かい、決定的な勝利をおさめることになるのです。

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【続く】

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三宅つの
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