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【つの版】日本刀備忘録44:嘉吉之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 永享10年(1438年)、室町幕府将軍・足利義教は鎌倉公方・足利持氏を討伐し、翌年には自害に追い込みます。ここに4代90年続いた鎌倉公方は断絶することとなりました。

◆仁◆

◆義◆


結城合戦

 義教は自らの幼い次男・義制よしさだを新たな鎌倉公方に任じようとしますが、持氏派の残党はこれに従わず、永享12年(1440年)に持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて幕府に反旗を翻します。下総の結城氏朝と子の持朝が首謀者となり、結城城に遺児らを匿って挙兵したことから、これを「結城合戦」と呼びます。義教は憲実の弟で関東管領代行上杉清方を総大将とし、今川範忠・小笠原政康や関東の諸将に命じて彼らを討伐させました。持氏の自害後に出家隠遁していた憲実も討伐に駆り出されましたが、持氏派の抵抗は根強く、合戦は翌嘉吉元年(1441年)4月にまで及んでいます。

 陸奥国南部でも同年に持氏派が反乱を起こし、篠川公方の足利満直が自害に追い込まれています。これより奥羽は鎌倉府の統制から離脱し、関東や畿内・西国よりひと足早く在地領主(国人)たちが覇権を争う「戦国時代」に突入することとなります。

 永享12年、義教は有力守護大名たちの粛清と所領没収を行っています。まず3月には赤松満祐の弟・義雅が摂津の所領を全て没収され、兄の満祐、分家の貞村、細川持賢に分割されました。立腹した赤松満祐は幕府への出仕もしなくなり、侍所別当を罷免させられています。5月には丹後・若狭・三河・山城の4カ国の守護を兼ねる一色義貫、伊勢守護の土岐持頼が大和へ出陣中に誅殺され、各守護職のうち若狭は武田信栄に、丹後と伊勢半国は一色教親に、三河は細川持常に、山城は山名持豊に分与されました。このことから守護大名たちは「次は自分が粛清されるのではないか」と恐怖します。

 翌永享13年(1441年)1月には、畠山満家の子・持国が結城合戦への参陣を断ったため家督を弟・持永に譲らされました。同年2月に嘉吉と改元された後、3月には日向に逃亡していた異母弟の義昭が島津忠国に殺害され(九州平定にあたっていた大内持世の説得による)、4月には結城合戦が終わって結城氏朝・持朝が自害し、春王丸・安王丸らの首が届けられます。ここに義教の当面の敵は全員消え、義教は大いに喜びました。

 嘉吉元年6月14日、義教は京都東山の雲居寺に参詣し、東大寺の大仏に次いで日本第二の大仏とされた身長8丈(24m、坐像ゆえ実寸4丈)の阿弥陀如来像を実見しています。雲居寺は4年半前に火災で焼失しましたが、義教の肝煎りで大仏ともども再建されていました。明国との貿易で巨万の富を得、天下を平定した義教が財力と権力をひけらかす場ともなったことでしょう。

 同月18日には義教から家督介入に関して圧力を受けた富樫教家が逐電し、23日には吉良持助が出奔しています。中央集権のために守護大名のメンツを潰し続けた義教は、間もなく恐怖政治の報いを受けることとなります。

嘉吉之乱

 嘉吉元年6月24日、赤松満祐の嫡男・教康は、結城合戦の祝勝の宴として赤松氏伝統の演能「松囃子」を献上したいと称し、西洞院二条の邸宅に義教を招きました。この宴には管領・細川持之の他、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名煕貴、細川持春、赤松貞村らも招かれましたが、いずれも義教の介入により家督を相続しています。他に義教の正室の兄にあたる公家の正親町三条実雅らも随行しました。

 一同は赤松氏の邸宅に集まって猿楽を鑑賞していましたが、にわかに奥の方から雷鳴の如く鈍く轟く音が聞こえ、邸宅の門が全て閉じられます。直後に障子が開け放たれるや、甲冑を着た武者数十人が宴席に乱入します。そして安積行秀なる武者が義教の傍らに駆け寄り、殺害しました。室町幕府始まって以来の、家来による将軍の弑殺です。

 宴席は大混乱となり、諸大名のうち抵抗した山名熙貴と京極高数は即死、大内持世は瀕死の重傷を負い数日後に死去、細川持春は片腕を斬り落とされます。正親町三条実雅は太刀を掴んで刃向いますが、切られて卒倒します。庭先に控えていた将軍警護の走衆は宴席に駆け込み、赤松氏の武者と切り合いとなり、大名や近習たちは慌てて逃げ出し、門が封鎖されていたため塀をよじ登る騒ぎとなります。やがて赤松氏の家臣が「将軍を討つことが本望であり、他の者には危害は加えない」と告げ、騒動は収束しました。

 赤松満祐はすぐにも幕府の討手が来るものと覚悟していましたが、諸大名たちは自分の邸宅へ逃げ帰ると「赤松氏だけでこれほどの一大事を引き起こすことはあるまい、必ず同心する大名がいたはず」と疑心暗鬼に陥り、門を閉じ形勢を見極める構えに入りました。実際は赤松氏の単独犯だったのですが、満祐らは領国に帰って抵抗することに決め、邸宅に火を放つと義教の首を槍先に掲げ、隊列を組んで悠々と京都を退去しました。これを妨害する者は誰もいなかったといいます。

 道欽入道親王は『看聞日記』において「赤松氏を義教が討伐しようと計画していたが、それが露見して逆に討たれたそうだ」と記し、「自業自得の果て、無力の事か。将軍がかくの如く犬死にしたのは古来その例を聞かない」と評しています(鎌倉将軍では源頼家の例はありますが)。

 かくて足利義教は、あっけない最期を遂げました。彼の苛烈なる生き様は後世の織田信長とも比較されます。そして残された幕府の武士たちにとっては、主君や諸大名を殺害し領国に帰った赤松氏を生かしておけば武家の恥、武門の屈辱です。誰が赤松氏と同心していたかも明らかにしなければ内ゲバで幕府そのものが崩壊し、赤松氏が京都を制圧して新たな幕府を開きかねません。管領・細川持之はこの混乱を鎮めるために奔走します。

細川持之

 細川持之は足利氏支流・細川氏のうち、右京大夫(唐名は京兆尹)の官名を引き継いだ細川京兆家に属します。父・満元、祖父・頼元、大叔父・頼之は代々幕府の管領をつとめ、義満・義持を支えました。持之は永享4年(1432年)から管領となり、強権的な義教を支えて各地の変事に対応してきました。しかし義教暗殺時には抵抗もせず逃げ出したこともあり、裏で赤松氏と繋がっているのでは、と疑われ始めます。

 義教には11人の男子がおり、うち8名が健在でした。このうち嫡子とみなされていたのは、8歳の千也茶丸です。彼は政所執事・伊勢貞国の屋敷で養育されていたため、持之は変の当日に朝廷に参内して報告する傍ら、同日夜に貞国邸へ義教の男子らを集めて庇護させます。6月26日には彼を弟たちともども室町第(花の御所)に移動させ、義教の後継者としました。義教の息子を奉じたからには、義教を殺した赤松氏を倒さねば道理が通りません。すなわち持之は赤松氏を仇敵とする立場を明らかにしたことになります。

 これに対し播磨に戻った赤松満祐は、足利尊氏の庶子・直冬の孫と称する29歳の禅僧を担ぎ上げ、還俗させて足利義尊と名乗らせ、総大将とします。直冬は尊氏の晩年に西国で挙兵して父に逆らった人物ですから、名目的とはいえその孫を旗頭として奉じたことは、幕府そのものの存立を揺るがしかねません。また義尊の弟の禅僧は足利義将と称し、備中から播磨へ向かいましたが、備中守護の細川氏久(頼之の末弟満之の孫)に討ち取られています。

 持之は諸将・幕閣と評定して赤松氏討伐を計画する一方、禅僧の季瓊真蘂を播磨に派遣し、義教の首の返還を求めました。満祐がこれに応じて首を返還すると、持之は6日に等持院(足利将軍の菩提寺)で義教の葬儀を行います。しかし義教は恐怖政治により嫌われていたため、葬儀に出席したのは持之だけという有り様でした。持之はこの状態から赤松氏討伐を行い、将軍暗殺で権威がガタ落ちになった幕府の立て直しを図ることとなります。

◆仁◆

◆義◆

【続く】

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