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【つの版】度量衡比較・貨幣151

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 オーストリア継承戦争において、ハプスブルク家の女君主マリア・テレジアはハンガリーを味方につけて抗戦し、フランス・バイエルン連合軍を撃退したものの、プロイセンにはシレジアを占領されてしまいました。以後両国はシレジアを巡って長く争うことになります。また英国はプロイセンとオーストリアを講和させつつ、スペイン・フランス連合と戦いました。

◆怪獣◆

◆大戦争◆


英仏開戦

 英国は、1714年から神聖ローマ帝国北部に領邦を有するハノーファー選帝侯を国王としていました。同君連合とはいえ両国は別個の政府を有し、英国では議会の力が強く、国王は議会に国政を委ねています(議院内閣制)。ただ選帝侯領においては世襲の専制君主であり、神聖ローマ皇帝を選定する権利を有していたため、欧州の政治外交に関わらざるを得ませんでした。

 1742年、第一大蔵卿(首相)ウォルポールが弱腰外交を批判されて失脚するとウィルミントン伯が後任となりますが、病弱だったため反ウォルポール派の北部(プロテスタント圏)担当国務大臣カートレットが事実上内閣を主導します。彼はハノーファーの防衛を重視し、プロイセンとオーストリアを6月に講和させると国王ジョージ2世とともに英国を離れ、オーストリア軍とともにフランス軍と北ドイツで戦いました。

 しかし1743年8月、英国でウィルミントン伯が逝去し、国王の意向によりウォルポール派のヘンリー・ペラムが後任となります。カートレットはハノーファー重視政策を議会から批判されて失脚し、ペラムは以後10年続く長期政権を樹立しました。ウォルポール派は僅か1年で返り咲いたのです。

 1744年、フランスはオーストリア・英国・ハノーファー・オランダに宣戦布告し、南ネーデルラント(ベルギー)へ侵攻します。オーストリアはこれを迎え撃ちつつロートリンゲンへ侵攻しますが、フランスの同盟国スペインはミラノへ、プロイセンはボヘミアへ侵攻します。オーストリア軍の主力は取って返してプロイセン軍をボヘミアから駆逐し、シレジア争奪戦に戻ったため、英国・ハノーファー・オランダ・オーストリア連合軍は南ネーデルラントでフランス軍相手に苦戦し、1745年5月には敗北を喫しました。英国はこれに懲りてプロイセンとオーストリアの講和をまたも仲介し、フランスとスペインを主敵として、世界各地で戦闘を繰り広げることになります。

米戦印争

 1739年から続いていた英国とスペインの「ジェンキンスの耳の戦争」はカリブ海諸島やスペイン領フロリダ、英国領ジョージアの周辺に限定されていましたが、英国とフランスの開戦は、両国の北米植民地間の争いも再燃させました(ジョージ王戦争/第三次植民地間戦争)。英国はフランス側のルイブール要塞を、フランスは英国側のサラトガ砦、マサチューセッツ要塞を陥落させ、互いに先住民の部族連合を味方に引き入れて争ったものの、疫病の流行や悪天候により決定打を欠き、小競り合いに終始しています。

 英仏両国の争いは、遥かインドでも起きています。1707年にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブが崩御した後、帝国では反乱が頻発し、有力諸侯同士が群雄割拠して争い合う乱世に突入しました。1737年にはデカン高原のマラーター同盟が、1739年にはイランのナーディル・シャーがデリーへ侵攻して蹂躙し、掠奪の限りを尽くしています。こうした中、英国は南インドのマドラス、フランスはポンディシェリーに拠点を置き、地方諸侯を後ろ盾にして交易を行っていましたが、本国同士の争いが重なり、両国の東インド会社同士が戦闘状態に突入したのです。当時この地をカルナータカと呼んだため、これを英語で訛ってカーナティック戦争と呼びます。

 当初は英国側がフランス側を圧倒し、南インドの東海岸一帯は一時英国に占領されます。しかしフランスのポンディシェリー総督デュプレクスは援軍を得て英国側の拠点マドラスを攻撃し、1746年9月にはこれを占領します。ただ彼は現地人を味方につけるため、カルナータカ太守に「マドラスを占領したら引き渡す」と約束していましたが、履行しなかったため太守の軍に攻撃され、撃退したものの現地住民の恨みを買う結果になりました。

外交革命

 世界中を巻き込んだオーストリア継承戦争は8年続いた末、英国首相ペラムが主導した「アーヘンの和約」により、諸国間での停戦が合意されます。これによりルイブール要塞はフランスに、マドラスは英国に返還され、スペインはモデナとジェノヴァから撤退する代わり、パルマ・ピアチェンツァ・グアスタッラ公国を獲得しました。フランスは対英国のために行っていたジャコバイト(カトリック系の王位請求者)への支援をやめ、プロイセンのシレジアの大部分の領有が承認され、マリア・テレジアのハプスブルク家の家督継承と、彼女の夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝即位が諸国により承認されました。マリア・テレジアはシレジアこそ失ったものの、あとはおおむね元通り(原状回復)になったのです。莫大な費用を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの目論見はほぼ失敗しました。

 また1750年、スペインは英国とマドリード条約を結び、黒人奴隷や商品の貿易に関する両国間の問題を解決しました。これにより英国とスペインの関係は劇的に改善しますが、フランスと英国の対立は継続します。

 アーヘンの和約により諸国間の戦争は終わったものの、マリア・テレジアはシレジア奪還を諦めていませんでした。とはいえ単独で強国プロイセンを相手取ることは難しく、英国はハノーファー防衛のためプロイセンには強く出られず、同盟国にしても頼りになりません。ザクセン=ポーランドはロシアの属国で、ロシアはプロイセンを牽制する役には立ちますが、フランスがプロイセン側につけばどうにもなりません。となるといっそのこと、長年の敵国であるフランスとオーストリアが同盟すればどうでしょうか。

 マリア・テレジアの側近カウニッツは、アーヘンの和約締結に際して頭角をあらわし、1749年には彼女にフランスとの同盟を呼びかけます。1750年、彼はオーストリアの駐仏大使となってパリに駐在し、国王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人らに多額の賄賂を贈って味方につけました。1752年に帰国したカウニッツは、翌年には宰相に任じられ、以後1792年まで40年近くも在任することになります。フランスは当初この同盟に乗り気ではありませんでしたが、英国との対立が両国を接近させることになります。

 この頃、英国とフランスはインドおよび北米の植民地を巡って小競り合いを続けていました。インドにおいて、フランスはカルナータカ太守および隣国のニザーム王国の継承争いにつけこみ、一方に軍事支援を行って勢力を拡大しようと図りますが、英国はその敵に協力してフランス勢力を駆逐しようとします。北米においても両者は先住民の部族連合を協力者とし、互いに争っています。英国ではこれを「フランス人とインディアン(先住民)が相手だ」として「フレンチ・インディアン戦争」と呼んでいますが、フランス側では最終的に領土を失い征服されたとして「征服戦争」と呼びます。

 英国とフランスの本国同士の戦争はまだ始まっていませんが、植民地同士の戦いの影響は本国にも波及し、両国間の緊張が高まります。英国はハノーファーをプロイセンから守るため、1755年にロシアと軍事同盟を締結しました。これにビビったプロイセンは、翌1756年1月に英国と同盟します。

 同年5月、オーストリアとフランスはこれに対抗して軍事同盟を締結し、長年の対立関係に終止符が打たれました。これが世に「外交革命」と呼ばれる、欧州の国際外交における重大な転換点です。ロシアもプロイセンを牽制するためオーストリア・フランスと同盟し、まもなく両陣営同士の世界大戦「七年戦争」が勃発します。

◆回◆

◆転◆

【続く】

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