【つの版】日本建国17・海幸山幸
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
アマテラスの孫ニニギは、高天原から日向国(南九州)に天降りました。彼は笠沙の岬でコノハナサクヤを娶り、三柱の御子を儲けました。名は諸説ありますが、古事記ではホデリ、ホスセリ、ホオリです。
古事記 上卷-7 海幸彦と山幸彦
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html
◆海◆
◆幸◆
海幸と山幸
ニニギの子らのうち、次男のホスセリは名だけで現れず、長兄ホデリと末弟ホオリが今回の主役です。成長したホデリは海の魚類を漁る「海幸彦」となり、ホオリは山の獣を狩る「山幸彦」となりました。
ある時、弟のホオリ(山幸彦)は兄のホデリ(海幸彦)に「お互いのサチを換えてみよう」と言い出します。サチ(佐知、幸)とは倭語で「獲物」を意味し、遡れば獲物をとるための得物を指します。古くは矢を「サ」といい、転じてサチ、サキ、サキハヒ(サイワイ)となったようです。つまり「互いの漁労・狩猟の得物を取り替え、獲物をとってみよう」という提案です。
兄は三度断りましたがついに折れ、自分の釣り竿と釣り針を弟に貸し、代わりに弟の弓矢を借ります。兄弟はそれぞれ山と海へ行きますが、獲物はさっぱり獲れません。兄は山から戻ってきて「海も山もそれぞれのサチ、というではないか。サチ(道具)を互いに返すとしよう」と言います。しかし弟は「兄さんの釣り針(チ)を魚に取られてしまったよ」と謝りました。
矢なら拾えば済みますが、釣り針は兄・海幸彦のサチ(得物)であり、失えば海のサチ(獲物)がとれなくなります。弟が提案した遊びに付き合ってやったせいで、とんだとばっちりです。怒った兄は「釣り針を返せ」と言い、弟は平謝りに謝った末、自分の剣を鋳直してたくさんの釣り針を作りましたが、兄は「あれでなければだめだ!」と受け取りません。
弟はしょんぼりして海辺へ行き、さめざめと泣きました。すると老人の姿をしたシオツチの神(潮と塩の神)が現れて「なぜ泣いている」と尋ねます。事情を聞くと、神は「わしによい考えがある」と言い、無間勝間(まなしかたま、堅く編まれて隙間がない竹籠)の船を造って彼を載せました。
そして「わしがこの船を押し流したら、しばらく進むとよい潮道がある。それに乗って行くと魚の鱗のような(甍屋根の)宮室がある。ワダツミ神(海の神)の宮じゃ。門の傍らに井戸があり、木が生えておる。お前は木の上に座っておれ。すると海神の娘が来るから、相談するのじゃ」と教えます。
海神の宮
彼がそのようにすると、果たして海神の娘…の侍女が来て、玉の器で水を汲もうとします。彼女が井戸を覗き込むと光り輝いており、怪しんで上を見ると、木の上に美しい男性が座っています。彼は「水を下さい」と言うので、侍女が水を汲んで奉ると、彼は首飾りの玉をひとつ取って口に含み、玉の器に吹き入れます。すると器に玉がくっつき、離れなくなりました。驚いた侍女は器を持って帰り、海神の娘トヨタマヒメに報告します。
トヨタマヒメが不思議に思って井戸の前に来ると、木の上の美男子と目があってたちまち恋に落ち、父親に報告します(オオナムチとスセリビメが出会うシーンの使いまわしです)。海神は出てきて彼と出会い、「この人はアマツヒコの御子のソラツヒコ(天孫の御子)じゃ」と言い、下にも置かぬ扱いをして大歓迎し、宴会を催します。そしてトヨタマヒメを彼に娶らせます。
楽しく暮らすうち、あっという間に三年が経ち、ホオリはようやく故郷に帰りたくなりました。完全に忘れるところでしたが、彼がここに来た理由は、兄の釣り針を取り戻すためです。話を聞いた海神は、海のあらゆる魚類を呼び集め、釣り針をとった魚を探させました。
すると「この頃、赤鯛が『喉にものがつっかえて食事が出来ない』と嘆いていました」と報告があります。そこで赤鯛を呼んで喉を探らせると、果たして釣り針が刺さっていました。海神はこれを取らせてきれいに洗い、ホオリに返還しますが、この時ふたつの珠をも授けて、こう教えました。
「兄君にお返しになる時、『この釣り針はオボチ・ススチ・マジチ・ウルチ(溺れ針、せっかち針、貧乏針、愚か針)』と唱え、相手に背を向け後ろ手で渡しなさい。兄君が高い所に田を作ったら、低い所に作りなさい。兄君が低い所に作ったら、高い所に作りなさい。私は水を司る神ですから、三年の間あなたの兄君の田に水を与えず、必ず貧しくしてやることが出来ます。兄君が恨んで攻撃してきたら、この鹽盈珠(しおみちのたま)を出して溺れさせ、助けを請えばこの鹽乾珠(しおひるのたま)で助けてやりなさい」
また海神はワニ(鰐ないし鮫)を呼び集め、「ソラツヒコ様がお帰りだ。何日で往復できるか」と問うと、一尋ワニが「一日です」と答えます。海神は「ならばお前が送り奉れ。途中で恐れさせることがないように」と言い、その首にホオリを載せて送らせました。ワニは一日で往復しましたが、彼の首にはホオリが返礼として紐小刀(サヒ)を結びつけてありました。それでこのワニを「佐比持神」と呼ぶのだといいます。
地上に戻ったホオリは、海神の教えの通りにして(罪もない)兄ホデリをやりこめ、屈服させました。ホデリは「今後はあなたの命令に従い、昼夜守護し奉ります」と誓い、その子孫である隼人阿多君はホオリの子孫であるヤマトの王に仕え、先祖が溺れた時のような滑稽な踊り(隼人舞)をし、また絶えず奉仕するのだといいます。
『日本書紀』本文では、海幸をホスセリ、山幸をヒコホホデミとして同様の話を伝えています。ただ弟が願ったから仕方なくという部分を「お互いに合意があった」と変え、海神の宮を海の底とし、ホスセリを「吾田君小橋らの本祖」としています。一書もいくつかありますが、だいたい同じです。
主人公が海の彼方(海底)の海神の宮(龍宮城)に行き、姫様と婚姻して時を過ごし、宝物を得て帰還する……まさに浦島太郎です。浦島太郎は御存知の通りバッドエンドですが、ホオリはハッピーエンドでした。姫様もこの後やって来て子を産みます。日本は海に囲まれた国であり、海の彼方の常世、蓬莱、龍宮は馴染み深い概念だったでしょう。もちろん海神の宮はどこかの実在の島国とかではなく、根の国のような神話上の異界、オヒガンです。
兄弟の争いはアベルとカイン、ロムルスとレムスのように普遍的なテーマですが、腕力や立場が弱い弟が知恵と幸運で勝利するのは「末子成功譚」といい、エサウとヤコブ、10人の兄とヨセフ、八十神とオオナムチの話が典型的です。兄が賢く弟が愚かというパターンも多くありますし、日本では末子相続は一般的ではなく、有力な年長者が後を継ぐことが現実には多かったようですが、その社会制度への反抗としてこういう話が生まれたのでしょうか。
隼人
隼人(はやひと、はやと)は熊襲と並び称される(あるいは同一の)集団であり、大隅や薩摩の先住民です。隼とはハヤブサのことで、猛禽のように剽悍なことを指すとも、犬のように「吠える」ことから「吠える人」という蔑称ともいいますが、4世紀頃にはヤマトにある程度服属し、仁徳天皇や雄略天皇の時代には王族の個人的近習として奉仕していたとされます。
百済滅亡と白村江の敗戦の後、九州は対唐・対新羅の最前線となりました。しかし北部九州はまだしも、既存の豪族がなお力を有する南九州には、中央政府の直接的な支配は及ばなかったようです。天武天皇は682年に大隅・阿多の隼人らに朝貢させ、持統天皇は692年に筑紫大宰から大隅・阿多へ仏教を伝えさせました。宗教の権威で文化的に取り込もうというわけです。
文武天皇は遣唐使のための航路を求め、南島覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)を派遣しましたが、薩末(薩摩)比売・久売・波豆に脅迫され、衣(頴娃)・肝衝(肝属)でも脅迫に遭いました。朝廷は大宰府に命じて兵を集め、各地に城を築き、702年の薩摩・多褹(種子島・屋久島)の反乱を契機に軍隊を派遣して隼人を征伐していきます。同年には唱更国(のち薩摩国)及び多禰国が置かれ、713年には大隅国が設置されます。大隅には豊前から5000人が移住させられ、隼人も畿内など各地へ分散移住させられます。
日本書紀が完成した720年、隼人によって大隅国司が殺害され、朝廷は大規模な征討作戦を行っています。このような状況下で「隼人の先祖は天皇の先祖の兄である」という大胆な神話が語られたのは、彼らのプライドをくすぐって帰順させるためのプロパガンダでしょうか。それとも本当に天皇の先祖は隼人の一派だったのでしょうか。互いに隣接しているならともかく、ヤマトと隼人の地は遠く離れ隔たっています。
豊玉姫
『古事記』へ戻りましょう。ホオリと海神の宮で契りを交わしたトヨタマヒメは、夫のもとへやって来てこう告げます。「私は既に妊娠しており、出産の時が迫っています。しかし天津神の御子を海原で産むのはよくありませんから、陸地へ参りました」。
彼女は海辺の波打ち際(なぎさ)に、鵜の羽で屋根を葺いた産屋を建てましたが、まだ葺き終わらぬうちに陣痛が来ます。急いで産屋に入った彼女は、夫にこう告げます。「およそ他国人は、出産の時には本国の姿で産みます。なので、私も本来の姿で出産します。どうか見ないで下さいね」
黄泉国の話でもあった「見るなのタブー」です。今回は出産というおめでたい事態ですが、禁忌のルールは絶対、破られるフラグも絶対です。ホオリが好奇心に駆られて産屋の中を覗き見ると、トヨタマヒメは八尋和邇(巨大な鰐・鮫、ないし龍)の姿で腹ばいながら出産していました。鮫は魚類なのに胎生(卵胎生)ですが、なにか関係があるのでしょうか。
ホオリは驚き恐れて逃げ去り、トヨタマヒメは恥じて離婚を決意します。そして産んだ子を波打ち際の産屋に置き、「私は帰ります」と言って海の中に去って行きました。それでこの子は「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコ・ヒコ・ナギサ・タケ・ウガヤフキアエズ)」という長い名を持つことになりました。「アマツヒコの御子、渚(に置き去られ)、強い、鵜の羽の屋根が葺き終わらぬ(うちに生まれた)」という名前です。
後世この神話の舞台とされたのが、宮崎県日南市の鵜戸神宮です。もと海蝕洞(うろ、うつろ)を神域としたためその名があり、平安時代以来「鵜戸権現」として朝野の崇敬を集めました。記紀では舞台がどこか記されません。
育児放棄して離婚したトヨタマヒメでしたが、流石に夫と我が子を可哀想に思い、妹のタマヨリヒメを養育係(乳母)として地上へ行かせました。また和歌を彼女に託して気持ちを伝え、ホオリも返歌したといいます。『日本書紀』でも本文・一書ともだいたい同じです。
ホオリとトヨタマヒメの破局は、典型的な「異類婚姻譚」のバッドエンド・バージョンです。たぶん記紀編纂者は「龍女の子」としたかったのでしょうが、当時の倭語で龍にあたる存在がワニだったため妙なことになりました。海底の龍宮の話は大乗仏教の祖・龍樹の伝説にありますし、龍女も法華経など仏典に出てきます。
1479年に成立したベトナムの国史『大越史記全書』には、建国神話の中に百越の祖・貉龍君の伝説があります。彼は炎帝神農氏の子孫で、母は洞庭湖の龍女でした。のち炎帝の子孫・帝来の娘の嫗姫を娶って百人もの男子を儲けましたが、ある時「わしは龍種、お前は仙種で、水と火のように相容れぬ」と離婚を切り出します。そこで子のうち半分は父と共にベトナムに残り、残り半分は母と共に北方へ去りました。これが百越の始まりだといいます。
日向三代
ホオリ(ヒコホホデミ)はその後も長生きし、高千穂宮において580歳(伍佰捌拾歳)で崩御しました。ニニギの享年は記されませんから、これが記紀における最初の享年です。その陵は「高千穂山の西」、日本書紀では「高屋山上陵」とありますが、高千穂がどこかすらはっきりしないため古来論争があり、明治時代に大隅国始羅郡溝辺郷麓村、現鹿児島県霧島市溝辺町麓に設定されました。
ウガヤフキアエズに関しては、特に話が伝わっていません。彼は叔母で養母のタマヨリヒメを娶り、イツセ、イナビ、ミケヌ、ワカミケヌという四柱の御子を儲けました。トヨタマヒメの妹タマヨリヒメも当然正体はワニ(龍)ですが、ウガヤフキアエズは「見るなのタブー」を守ったのでしょう。このうちワカミケヌこそカムヤマトイワレビコ、すなわち神武天皇です。
ウガヤフキアエズは『日本書紀』に「西州の宮で崩じ、日向の吾平山の上の陵に葬られた」とあります。大隅国に姶羅(あいら)郡があり、のち肝属郡に合併されましたが、鹿児島県鹿屋市吾平町にその名を残しています。
ニニギ、ホオリ(ヒコホホデミ・山幸彦)、ウガヤフキアエズの三代は、みな日向(宮崎・鹿児島)に宮と陵(神代三陵)を持つため「日向三代」と呼ばれます。またイザナギ・イザナミに至る神世七代と、神武以後の人皇(天皇)の間の世代として、アマテラス・オシホミミと日向三代をあわせて「地神五代」と呼ぶこともあります。アマテラスは地上(日向)で生まれて高天原へ昇り、オシホミミは地上へ降臨していませんが、便宜的な数え方です。
彼らは地上に実在したのでしょうか。それとも神話上の存在として作り出された(伝承を継ぎ合わせて創造された)のでしょうか。荒唐無稽な神話伝説と言えばそれまでですが、何でもかんでも「作り話だ」として否定すると、千年以上も語り継がれてきた物語の力、それに基づく宗教や寺社など様々な伝統文化を根底から否定することにもなってしまいます。想像して創作する言霊の力を、あだやおろそかにしてはならないでしょう。
◆海◆
◆鮫◆
さて、ついに神武天皇が日向に生まれました。彼はこれから日向を出発し、東の彼方のヤマトを目指すことになります。どうしてそうなったと語られているのでしょうか。そして、それは実際にあったことでしょうか。
【続く】
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