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【つの版】倭の五王への道03・前期古墳03:ヤマト

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

さて、いよいよ近畿です。あまりに多くの古墳があって全てを網羅できませんが、ヤマトの中枢たる奈良盆地東南部から主なものを見ていきましょう。

◆Tomb◆

◆Raider◆

オオヤマト古墳集団

纒向遺跡は3世紀から4世紀中頃まで存続しており、この間に纒向古墳群・大和(おおやまと)古墳群・柳本古墳群が連続して築造されました。三つを合わせて「オオヤマト古墳集団」と呼ぶこともありますが、いずれも後世の学術用語です。

6基の前方後円墳を擁する纒向古墳群は箸墓古墳を最後に築造を終え、北の大和古墳群の築造が開始されます。中山支群と菅生支群に分けられ、前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が存在します。最大のものは3世紀後半の築造とされる西殿塚古墳で、墳丘長230m、後円部直径140mと箸墓古墳に匹敵します。臺與が埋葬されるとしたら規模として相応しいでしょう。あるいは彼女の後見人で、崇神天皇に相当する人物の陵墓でしょうか。

宮内庁では明治初期以来6世紀初頭の継体天皇の妃の陵墓としていますが、どう考えても時代が合いません。このように宮内省/宮内庁が決めた陵墓や陵墓参考地はかなり雑で、信頼できません。記紀の記す陵墓の位置や年代もあまり信頼できないため、ある程度は推測するしかないようです。

また出現期の前方後円墳である中山大塚古墳も存在します。全長約130m、後円部径67mで、奈良盆地西部の二上山麓の石材で石室を作り、吉備に起源を持つ特殊器台も出土しました。奈良盆地の古墳で特殊器台を伴う古墳は、箸墓・西殿塚・中山大塚と、橿原市の葛本弁天塚(消滅)だけです。

他にも全長74mながら3世紀前半頃の出現期前方後円墳と目されるマバカ古墳、墳丘長175mで円筒埴輪が出土した東殿塚古墳、墳丘長120mの前方後方墳である下池山古墳など興味深い古墳が多くあります。なぜ古墳の築造場所が北へ遷ったかは不明ですが、中山大塚古墳は山の尾根を加工して築造するなど、比較的楽をして作ろうとした形跡があるようです。また陵墓を田園の真ん中に作っても邪魔ですし、三輪山の麓から北へ伸びる街道(山辺の道)に沿って非生産地を選び、計画的に設営されていることも理解ります。

続く柳本古墳群は大和古墳群の南、纒向に近い位置に築かれました。2基の巨大古墳とその周囲の中小前方後円墳から構成され、北側には崇神天皇陵と伝わる行燈山古墳(墳丘長242m)があり、大和天神山(113m)、アンド山(120m)、南アンド山(65m)の3古墳が従属しています。その南には景行天皇陵と伝わる渋谷向山古墳(300m)があり、上ノ山(125m)、シウロウ塚(120m)、柳本大塚(94m)などが従属しています。他にも33面もの三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳(127.5m)、吉備の楯築墳丘墓の流れをくむ双方中円墳である櫛山古墳(150m)などがあり、大和天神山古墳の石室内の木櫃には41kgの水銀朱と20面の銅鏡が納められていました。

こうして見ていくと、3世紀中頃の箸墓古墳(278m)、3世紀後半の西殿塚古墳(230m)、4世紀前半の行燈山古墳(242m)、4世紀中葉の渋谷向山古墳(300m)、と4つの大王級古墳が存在したことが理解ります。日本書紀によると纒向に宮居した天皇は崇神・垂仁・景行の三代ですが、垂仁の陵墓だけ「菅原伏見東陵」、宝来山古墳に治定されています。しかも墳丘長240mあるものの4世紀後半のもので、渋谷向山古墳より新しくなります。また江戸時代までは行燈山古墳が景行陵とされていました。

大王級古墳以外の100m級古墳は、大王の妃や王子、あるいは日本列島各地から集まってきた有力な地方豪族(いわば大名)の墳墓と考えられます。彼らのためにこれだけの規模の古墳が築かれ、それを手本として、各地に序列に応じた規模の古墳が築造されていったわけです。彼らは王都周辺に常駐して交流し、世代を経て大王お膝元の中央豪族となります。

邪馬臺國の四官のうち崇神(ミマキイリヒコ・イニエ)は彌馬獲支(三輪纒向)、垂仁(イクメイリヒコ・イサチ)は伊支馬(生駒)に当てましたが、景行はオオタラシヒコ・オシロワケでどこにも当たらず、名前の系統もイリヒコではありません。次の成務天皇はワカタラシヒコ(若い大王)と呼ばれるだけで、全国に県主や国造を置いたこと以外の記事がほぼありません。仲哀(タラシナカツヒコ)、神功皇后、応神天皇(ホムダワケ)も実在性は乏しいですが、次の仁徳天皇(オホサザキ)から記述が詳しくなり、ある程度の実在性が出て来ます。一体誰が実在し、誰が架空で、何年ぐらい在位したのでしょう。では、日本書紀に書かれた天皇在位年代をざっと見てみます。

日本書紀の年代

日本書紀によると、神武天皇は西暦紀元前660年にあたる年から76年、綏靖から開化までのいわゆる欠史八代は紀元前98年まで487年在位した(空位期間含む)とされます。全員が父子相続ですから9世代で、563年間の平均在位期間は62.6年となり、尋常な長さではありません。本紀の記事も即位と宮居と皇后、立太子、崩御だけで、明らかに水増しされています(彼らが長命種だとかニンジャだとか二倍暦だとかは考えないことにします)。

徐福がチャイナから来たとすれば始皇28年(紀元前219年)か37年(前210年)ですが、これは孝霊天皇の72年及び孝元天皇の6年にあたり、日本書紀には何の記載もありません。孝元7年3月に欝色謎命を立后しただけです。

崇神天皇は68年在位し紀元前30年に120歳で崩御したとされますが、本紀を見ると即位から12年目まではほぼ毎年記事があるのに、次は17年目に飛び、「国に船がないから作れ」と命じています。その次は即位48年目まで31年間が空白で、活目尊を皇太子にした話です。さらに即位60年目まで12年が空白となっており、62年、65年と続いて、68年に崩御です。

他の本紀もこの調子で空白期間がやたらあり、古事記ともどもまともな歴史記録ではありません。当然、年代も干支も全く信頼できません。架空の天皇を何十代も積み重ねてもっともらしく年代を合わせるより、あからさまに怪しいぶん良心的とは言えるでしょう。日本書紀編纂者がその時代に設定したいこと、この時代ではないかと思っていたことが推察できるに過ぎません。

旧約聖書の創世記でアダムが享年930歳だとかあるのよりはマシな程度です(旧約の登場人物の年齢が尋常な数字になるのはソロモン死後です)。

垂仁天皇は99年在位で140歳、景行は60年在位で143歳、成務は60年在位で107歳、仲哀は9年在位で52歳、神功は69年摂政して100歳、応神は41年在位して111歳、仁徳は87年在位して110歳となり、履中・反正・允恭もやや怪しく、常識的な年齢と在位期間になるのは安康天皇か雄略天皇以後です。要はこれ以前の天皇の在位期間は水増しです(これ以後も怪しいですが)。使用されている暦などからも、日本書紀は本来雄略天皇の時代から書き始められたようです。これについては倭の五王のところでやります。

光武帝が漢倭奴國王の金印を授けた西暦57年は、垂仁天皇の87年です。日本書紀にはこの年に起きた事は記録されておらず、ただ垂仁88年7月に「但馬の神宝を献上させた」とあり、垂仁90年2月に「田道間守を常世国に遣わした」とあるだけです。日本書紀の編纂者は史記も漢書も三国志も、後漢書や晋書その他のチャイナの史書も全部読めた時代と状況ですから、これを引用すらしないのは職務怠慢か意図的な無視です。金印もまだ出土していませんし、アメノヒボコや田道間守が貰ったことにでもしたのでしょう。

また倭国王帥升が朝貢した西暦107年は、景行天皇の37年です。この頃は景行も日本武尊も九州遠征から帰っており、景行40年に日本武尊が東国遠征に出発していますから、帥升についても「熊襲かなんかの僭称だろう」と無視できます。神功皇后を卑彌呼と臺與になぞらえつつ外しているのも、日本書紀の小細工に過ぎません。

思いつき:難升米を「奴つ米」、都市牛利を「伊都つ牛利」、伊聲耆掖邪狗を「伊都つ掖邪狗」、載斯烏越を「伊都つ烏越」と読んで来ましたから、帥升も「伊都つ○○」の略称ではないでしょうか。

確証は持てませんが、崇神に相当する王が卑彌呼の甥で臺與の父だとしましょう。248年に13歳の少女の父ですから仮に35歳として、30年も在位すれば65歳。278年頃には崩御していて不思議はありません。西殿塚は彼の陵墓でしょう。臺與と同年代の垂仁にあたる王が跡を継ぎ、30年在位して308年頃に崩御します。臺與もこの頃には逝去していたでしょう。次の景行にあたる王も30年在位すれば338年頃の崩御で、おおよそ行燈山と渋谷向山の築造年代と合います。とすると垂仁の埋葬地が誤っていることになりますが、名が活目尊なので生駒・伊支馬に基盤があったかも知れず、断定はできません。ただこの頃、オオヤマト古墳集団以外にも大王級の古墳が2基存在します。

鳥見山古墳群

三輪山から大和川を南に挟んで、桜井市南部の鳥見山の麓に鳥見山古墳群があります。そのひとつ、大字高田のメスリ山古墳は大和川の支流・寺川のほとりにある4世紀初頭の前方後円墳で、全長224m(復元推定250m)、後円部径128mと箸墓や西殿塚に匹敵する大王級古墳です。墳丘は三段築成で斜面に葺石が敷かれ、各段には巨大な埴輪が並べられていました。埋葬部は盗掘を受けていたものの、三角縁神獣鏡などがあり、未盗掘の副室には多数の武具や勾玉、玉杖、太刀など多数の副葬品が納められていました。規模からしても副葬品からしても、大王級の人物が副葬されていたはずです。しかし記紀や延喜式には陵墓としての伝承がなく、誰の墓なのかは不明です。

その少し北東、鳥見山の北麓には、やはり4世紀初頭の大王級前方後円墳である桜井茶臼山古墳(墳丘長207m)があります。石室には辰砂が塗られ、副葬品には推計81枚以上もの膨大な銅鏡があり、その一枚は群馬県蟹沢古墳で出土した「正始元年(240年)」の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡と同笵(鋳型が同じ)と判明しています。他に翡翠の勾玉や首飾り、腕飾り、玉杖、武器類がありますが、やはり陵墓としての伝承がありません。規模や副葬品からして大王に次ぐ女性、例えば大王の母などが被葬者ではないかと推測されます。この頃に崩御したと思われる大王の母であれば、崇神の皇后で垂仁の母である御間城姫(紀)/御真津比売(記)でしょうか。あるいは、どちらかが臺與の陵墓でしょうか。寺川を下っていくと、臺與がいたかもしれない田原本町の秦庄を通りますね。

鳥見山は外(とび)山ともいい、神武紀によれば神武天皇が即位4年に皇祖天神を祀った場所とされます。桜井市と宇陀市の境にも同名の山があり、同様の伝承がありますが、神武が宮居したという橿原に近いのでこちらでしょうか。ともあれ、こうした大王級に匹敵する陵墓も存在したのです。

布留遺跡と西山古墳

なお天理市の中心部、大和古墳群のさらに北には布留遺跡があります。布留川の扇状地にあり、縄文時代から断続的に人が居住し、弥生時代末期から古墳時代には大規模な集落が営まれました。南側にある杣之内古墳群のうち、西山古墳は全長183mもある全国最大の前方後方墳です。またここには古来石上神宮があり、ヤマト王権の武器庫として物部氏が管理していました。有名な七支刀もここに奉納されています。

佐紀盾列古墳群

4世紀中頃、纒向遺跡は突如として終焉を迎えます。オオヤマト古墳集団でも最大規模の大王陵・渋谷向山古墳を最後に築造が停止し、代わって奈良盆地北部の奈良市に佐紀盾列古墳群が出現しました。これは200m超の大王級及び準大王級前方後円墳8基を含みます。これまで奈良盆地東南部の桜井市や天理市(四官でいう彌馬獲支)にあった大王級の陵墓が、遥か北方の奈良丘陵付近へ遷ったのです。おおよそ平城京の北側斜面で、付近には佐保川と秋篠川が流れ、北には京都府南端の木津川市と接しています。

京都付近を「山城国(やましろのくに)」といいますが、もとは「山背国」と書き、ヤマトから見て平城山(ならやま、奈良丘陵)の北(背、うしろ)にあったことからそう呼ぶのです。桓武天皇が平安京に遷都した時、ヤマト中心のイメージを変えようと背を城と書き換えました。城(ジョウ)はもと訓読みでは「き」と読み、「しろ」と読むようになるのはこの時からです。

最古のものは4世紀中頃の五社神古墳(伝神功陵、全長276m)で、次は佐紀陵山古墳(伝垂仁皇后の日葉酢媛陵、全長210m)、佐紀石塚山古墳(伝成務陵、全長220m)と築かれ、南西に離れた位置には4世紀末頃の宝来山古墳(伝垂仁陵)があります。

5世紀以後もこの地には200m級の古墳がいくつか築造されますが、5世紀には大王級陵墓が河内へ遷り、かつ巨大化します。誉田御廟山古墳(伝応神陵、全長425m)、全国最大の大仙陵古墳(伝仁徳陵、全長525m)に代表される百舌鳥・古市古墳群です。つまり4世紀中頃に纒向遺跡が解体し、大王陵墓地が三輪山付近からの奈良市付近に遷った後、5世紀には西の河内へ移動しているのです。これは単なる遷都でしょうか。それとも新たな外来の支配層が出現し、ヤマトから統治権を奪ったのでしょうか。

ヤマト王権の成立事情からして豪族の寄り集ったものに過ぎませんから、王統が交替しても不思議はありませんが、5世紀以後も奈良盆地には依然として大王の宮が置かれ、屯田も存続しています。雄略天皇の宮も初瀬にあります。また4世紀末から6世紀にかけて葛城山地東麓に馬見古墳群が現れ、準大王級の前方後円墳が次々と出現します。果たして何が起きたのでしょうか。

◆Tomb◆

◆Raider◆

【続く】

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