【つの版】度量衡比較・貨幣112
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
欧州諸国が三十年戦争や清教徒革命で揺れていた頃、オランダは海外貿易によって世界経済を牛耳り、黄金時代を迎えていました。英国はオランダとの経済摩擦に苦しめられ、英蘭戦争を引き起こすことになります。
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英蘭戦争
第一次英蘭戦争についてはすでに触れました。1652年にクロムウェル率いるイングランド共和国とオランダの間で起きたこの戦争は、互いに激しい消耗戦となり、オランダ本土への海上封鎖によって1654年に英国側の軍事的優勢で講和条約が締結されましたが、貿易上でのオランダの優位は覆せませんでした。海外植民地での両国の戦闘はなお続き、オランダは失った艦隊を直ちに再建して海軍力を回復・増強しています。アムステルダムを擁し、政府予算の6割弱を占めるホラント州の税収が1630年代に1100万ギルダー(275万ポンド≒2750億円)といいますから、オランダ全体の税収は2000万ギルダー(500万ポンド≒5000億円)はあったでしょう。
1650年に死去したオランダ総督ウィレム2世には、彼の死後8日目に生まれた息子ウィレム3世がいましたが、彼はまだ幼子であり、世襲の総督とはなれませんでした。彼の遠縁(初代総督ウィレム1世の弟の孫)で40歳ほどのウィレム・フレデリックはいましたが、オランダ7州のうちフリースラント等3州の総督職にとどまり、オランダの政治の実権はホラント州法律顧問のヨハン・デ・ウィットが握りました。彼の指導体制のもと、オランダは引き続き黄金時代を謳歌することになります。
1658年にオリバー・クロムウェルが病没し、1660年にチャールズ2世が英国に戻って王政復古します。革命に対する揺り戻しは幾分起きたものの、チャールズ1世の独裁と議会との対立が混乱の元だったことは明白ですから、チャールズ2世は穏健左派(立憲王党派)のクラレンドン伯を介して議会とは宥和しました。彼は国王大権の一つである徴発権を廃止し、クロムウェルが導入した消費税と関税を王室収入に充てることに同意します。また1661年から79年まで議会(騎士議会)を開き続け、国政を諮問・輔佐させました。宗教面では英国国教会が再建され、国王処刑の主体となった清教徒やカトリックに対しては不寛容な時代となります。
国際結婚
1660年、スペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)がフランス王ルイ14世と結婚しました。ともに1638年9月生まれの22歳で、マリーの母イサベルはルイ14世の叔母ですから従兄妹婚です。ルイ14世は宰相マザランの輔佐を受けて三十年戦争とその後の内戦、対スペイン戦争を戦い抜き、1659年にピレネー条約を結んでスペインと講和し、国境を確定してスペイン王位請求権を放棄するとともに彼女との婚姻を成立させたのです。持参金は50万エスクード(250億円)とされましたが結局支払われず、のちに戦争再開の火種となりました。
1662年、チャールズ2世はポルトガルの王女カタリナ(キャサリン)と結婚し、持参金として金貨200万クラウン(約30万ポンド、1ポンド10万円として300億円)、およびインドの港町ボンベイ(ムンバイ)、モロッコの港町タンジール(タンジェ)を獲得します。彼女はカトリック信仰を捨てなかったため国教会とは対立しましたが、彼女がもたらした莫大な持参金は革命騒動で焦げ付いた国庫を潤しました。ポルトガルは見返りとして英国による対スペインの軍事支援を求め、英国はこれに応えています。
同年、チャールズ2世はフランドル地方の港町ダンケルクをフランスに売却しました。ここは以前スペイン領ネーデルラントの一部でしたが、1658年に英国(当時は共和国)がフランスと協力して占領し、1659年のピレネー条約で国際的に英国領と認められていました。しかし駐留軍には共和国支持派が多く、オランダ・フランス・ベルギー(スペイン領南ネーデルラント)と接する要地であるため、英国からすると維持するだけでも厄介な場所です。そこでチャールズはルイ14世と交渉し、500万リーヴルで売却したのです。
スペインがフランスと、ポルトガルが英国と手を結んだことで、両陣営はオランダを挟んで緊張状態に入ります。いかにオランダが経済大国といえど面積や人口ではこれらの国々には劣りますから、孤立すれば危険です。では再びフランスについて見ていきましょう。
捕大蔵卿
1661年3月に宰相マザランが逝去すると、ルイ14世は親政を開始し、宰相を置かないことを宣言して国政改革を行います。彼は国務会議から王族や大貴族を排除し、新興貴族やブルジョワ(富裕市民)を登用して王権を強化しました。また長年王権に逆らってきた高等法院の建言権を勅令で廃止し、地方監察官を派遣して地方の大貴族や自治都市の権限を縮小させています。英国王が議会の反乱を鎮圧できず処刑されたのに対し、フランス王は逆に絶対王政を推し進めたのです。その象徴的事件が大蔵卿フーケの逮捕でした。
フーケはマザランの腹心で、高等法院の検事総長の座にあり、1653年からは大蔵卿を兼務していました。彼は財政再建を果たして国家財政を黒字に転換させた有能な人物でしたが、職権を濫用して莫大な私財を蓄え、カネの出入りを掌握することで強大な権勢を振るっていました。マザランも同様の手口で私財を蓄えていたため摘発できず、マザランが死去するとフーケは次の宰相の座を狙っていたといいます。しかしルイ14世は彼を疎んじ、フーケの居城でもてなしを受けた翌月の1661年9月に彼を逮捕させ、財産を没収しました。これを実行したのが銃士隊長シャルル・ダルタニャンです。
ダルタニャンはガスコーニュの小貴族の出身で、1630年頃にパリへ赴き、宰相マザランの伝令役として活動しました。当時は官職につくため王室にカネを納める必要がありましたから(売官制)、ダルタニャンもコネや借金でカネをかき集め、いくつかの官職を購入しています。例えば王立鳥舎管理隊長という中級官職は、年給1000リーヴル(500万円)と官舎がつきますが、これを購入するには6000リーヴル(3000万円)必要でした。
ダルタニャンは40歳を過ぎた1658年にようやく銃士隊長となりましたが、その年給は1.8万リーヴル(9000万円)で、購入費用は20万リーヴル(10億円)もしました。これに対し彼の仕えたマザランの遺産は4000万リーヴル(2000億円)あまりで、隠し財産が1300万リーヴル(650億円)あり、フーケの財産は1.5億リーヴル(7500億円)にも達したといいます。
ルイ14世にフーケの排除を教唆したのは、同じくマザランの部下であったコルベールです。彼は1664年に財務総監に任命され、20年に渡ってフランスの財政を掌握し、フランスを強国へと導くことになります。
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【続く】
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