【つの版】度量衡比較・貨幣12
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
漢の武帝によって導入された五銖銭は、以後700年以上に渡りチャイナの基軸通貨となりました。ただ需要に対して銅が不足し、悪銭が横行します。魏晋から隋唐にかけてのチャイナの貨幣について見てみましょう。
◆金◆
◆田◆
銭文陌貫
漢末から魏晋南北朝時代には、各地に割拠した政権によって様々な重さや銘文の銭が発行され、私鋳銭や変造銭も溢れかえります。民間ではこうした混乱を解決するため、銅銭の価値を重さや品質ではなく枚数で測るようになりました。貝貨と同じく秤量貨幣から数量貨幣に戻ったのです。
「まともな」銭の表面には、重量や元号など文字が鋳込まれます。董卓銭のように文字がないものは明らかに悪銭です。そこで銭の枚数を計測する単位として「文(もん)」が用いられはじめました。遅くとも北魏の頃には銭を文で数えていた記録があります。文字があっても薄かったり小さかったりする銭は価値が低く見積もられたでしょう。
また、銭100枚を1単位とする陌(はく)もこの頃から用いられ始めます。銭1枚が現代日本円で300円程度の価値があるとすれば、100枚で3万円です。銭1枚3gなら300gで、結構な重量がありますね。しかし正陌・短陌という風習もこの頃に現れます。正陌はきっかり100枚ですが、短陌は100枚未満でも100枚の価値があるものとして扱うという商業上の慣習です。
東晋の『抱朴子』には「長銭を取り、短陌を還す」とあります。南朝梁の時代には銅不足で銭が枯渇して短陌が横行し、首都の建康(南京)付近では銭90枚を陌として長銭と呼び、国の東側では銭80枚を陌として東銭と呼び、西側では銭70枚を陌として西銭と呼んでいました。梁朝は短陌禁止令を出しますが効果はなく、梁朝末期には銭35枚で陌とするほどだったといいます。これは良質な銅銭を手元に多く抱える富豪にとっては有利でしたが、梁朝では貧富格差が拡大して民衆の不満が蓄積し、反乱が起きて滅亡します。
銭1000枚を貫(かん)と呼びます。もとは銭を束ねるための道具(銭差し)を貫や緡・繦といい、木製のものや糸製のものがありました。銭1枚が3g=300円とすれば、1000枚は3kg=30万円です。南朝では貫は陌と同じく銭100枚(100文)とされましたが、北魏・北朝では1貫=10陌=1000文とされ、北朝系の隋が天下を統一するとこちらで統一されました。短陌と同じく1000文未満で1貫とみなすことも行われています。
南朝でも北朝でも五銖銭が基軸通貨でしたが、貨幣需要の増大と銅不足により小銭が作られたり、大銭を作って「小銭何枚に当たる」と定めたりして混乱が継続しています。523年、梁朝はついに銅銭を廃止し、鉄銭を作って流通させようとしましたが、贋金が横行して経済混乱を招いただけでした。鉄銭はかつて王莽ののち蜀に割拠した公孫述が鋳造しています。隋は589年に天下を再統一し、貨幣も隋五銖銭に統一して混乱を収束させました。
均田均賦
隋や唐の制度は、鮮卑拓跋部の王朝である北魏の流れを汲んでいます。5世紀に華北を統一した北魏は、484年に俸禄制、485年に均田制、486年に三長制を発布しました。官僚に国家が俸禄を与えることで私有地からの収入を抑制し、人民に国家が均等に田地(国有地)を与えて国家の統制下に置き、隣・里・党の三段階に人民を編成して相互監視させたのです。
まず15歳以上の成人男性を男夫とし、露田80畝(穀物を栽培する正田40畝と連作防止のための倍田40畝、3.7ha)と桑田20畝(0.93ha)ないし麻田10畝(0.46ha)を与えます。既婚女性を夫人とし、正田20畝、倍田20畝、麻田5畝を与えます。奴婢も良民(自由民)に準じて田地を与えられ、耕牛1頭につき正田30畝・倍田30畝が4年間貸し与えられます。さらに園宅地として良民3人ごとに1畝、奴婢5人ごとに1畝が与えられます。
露田と麻田は、所有者が死ぬか70歳になった時に国家に返還されますが、桑田と園宅地は世襲が認められます。奴婢や耕牛に対する給付は所有者が受け取るため、大土地所有が認められました。税制は均賦制で、夫婦に対して租が粟2石(79.2リットル)、調帛1匹(27.9m)ないし麻布1匹が課せられます。未婚の男性は1/4、奴婢は1/8、耕牛は1/20です。
北魏は東西に分裂し、やがて北斉と北周になり、北周から禅譲を受けたのが隋です。隋は天下を統一すると均田制を全国に実施しますが、その制度は北斉のものに基づいており、煬帝の時には夫人や奴婢への給付を取りやめました。すなわち男丁(成人男子)に対して口分田80畝(4ha)と世業田20畝(1ha)が与えられ、口分田は59歳になると国家へ返還させられますが、世業田は子孫が相続できます。ほかに官人永業田・職分田・公廨田などもありました。税制は租が粟3石(59リットル)、調が絹1匹と綿3両(124g)、労役が年30日で、583年には租が2石・役が20日とそれぞれ削減されました。
開元通宝
隋の跡を継いだ唐は、621年に新たな銅銭「開元通宝」を発行しました。形状は半両銭・五銖銭を継承した円形方孔で、直径は8分(2.4cm)、重さは2.4銖。1両は24銖なので1/10両ですが、この頃の両(大両)は40g余ですから4g、実際には3.73gほどです。また唐は重量単位に十進法を採用し、1両=10銭=100分=1000厘=1万毫としました。銭は重さの単位となったのです。
日本では15世紀末頃から「銭1文の重さ・目方」として「文目(もんめ)=匁」が使われています。現代日本の五円硬貨は3.75g=1匁に当たります。
この銭には、穴の周囲に重量や元号ではなく「開元通宝(あるいは開通元宝)」の文字が鋳込まれました。唐に開元の元号はありますが、遙か後の713年ですから無関係でしょう。新たな時代の幕開けを寿ぎ、経済の元として流通する宝であることを願って名付けられたものと思われます。
624年には隋に倣って均田法と租庸調制を施行し、全ての田地を国有地として、成人男性(21-70歳)には口分田80畝と永業田(桑か麻の畑)20畝を貸し与えます。唐の1畝=240平方歩=6000平方尺、1歩の長さが1.56mとして1平方歩は2.43m2ですから、240平方歩は583.2m2、おおよそ6アール。80畝は480アール=4.8ha、20畝は120アール=1.2haになります。1畝からは粟(脱穀していない穀物)1石(唐では60リットル)が収穫でき、80畝からは80石(4800リットル)が収穫できます。365日で割ると毎日13リットル、12ヶ月で割ると月400リットルの粟に当たります。病気で働けない男性にも40畝、女性には30畝、子供には20畝が与えられました。
この中から、租として年に粟2石(120リットル)を納めます。収穫の40分の1ですが、さらに庸として年20日の労役(または雑徭40日)、調として絹2丈と絹綿3両(または麻2丈半と麻糸3斤)を納めねばなりません。労役は1日当たり絹3尺、または麻3尺7寸5分で代納できるとされ、20日ぶんとなれば絹3×20=60尺=6丈、または麻3.75×20=75尺=7.5丈に相当します。なお布の幅は1尺8寸と規定されています。
当時の物価で換算すると、粟1石=絹1疋(4丈=40尺=12.4m)=400文であり、都市労働者の賃金は日給50文といいます。漢代の五銖銭を1銭=現代日本の300円で換算しましたから、そのまま当てはめると50文は1.5万円になりますが、やや多いのできりがよく1万円とすれば、1文200円です。すると粟1石=絹1疋=400文=8万円で8日ぶんの日当に相当し、絹1丈は2万円、麻1丈は1.6万円となります。麻2.5丈=4万円=絹2丈で、絹綿3両(112g)=麻糸3斤(1.79kg)となります(価格は不明)。つまりこうです。
租:年粟2石=800文=16万円
庸:労役年20日=絹6丈=麻7.5丈=12万円
調:年絹2丈+絹綿3両=麻2.5丈+麻糸3斤=4万円余
計:年粟2石+絹8丈(2疋)=32万円余
80畝からの収穫が80石でも640万円。そのうち20分の1を納税し、さらに20畝の永業田もあるので安心、と理論上はなります。基本通貨や日給に金銀も加えると、こうなります。
銭1文=200円
日給=50文=1万円
麻1疋(4丈)=320文=6.4万円
絹1疋=粟1石(60リットル)=400文=8万円
銭1貫(1000文=100両)=銀1両(10銭)=金1文(1/10両)=20万円
また白絹1疋=麻布2端(10丈)=綿20屯(4.48kg)=米1石=銭1貫ともいいます。この数字は概数であり、実際には様々だったでしょう。
嶺南の諸戸は上中下に区分され、各々1石2斗、8斗、6斗を納めます。夷獠(蛮夷)の戸なら租税は半分です。蛮夷で唐に服属した者は上中下に区分され、上戸なら人頭税として銭10文、次は5文、下戸は免除されます。服属して2年経ったら、各々羊2頭、1頭、3戸ごとに1頭を納めます。
唐代にも悪銭や私鋳銭、銭不足は続いていました。そこで唐朝は666年に「𠃵封泉宝」を発行し、開元通宝10文(3000円)に相当するとしますが、重さが4.8gしかなかったので混乱のもとになり、わずか1年で廃止されました。銭が数量貨幣になったとはいえ、秤量貨幣としての面も残っていたのです。
絹馬貿易
8世紀中頃、唐は玄宗皇帝のもと最盛期を迎えていました。この頃の歳入は銭200余万貫(4000億円)、粟2500余万石(2兆円)、絹740余万疋(5920億円)、麻布1605万余端(1端=5丈=8万円として1兆2840億円)、綿185万余屯(1屯=224g=1万円として185億円)あり、合計4兆2945億円に相当します。銭で換算すると2147万2500貫、214億7250万文です。
当時の唐の戸籍人口は漢代の最盛期と同じ5000万人・1000万戸ですから、1人あたり8.6万円(430文)、1戸5人あたり43万円が課税されています。さらに臨時収入として経常歳入の1割(4294.5億円)が入りますが、軍事費がかさむので常に赤字でした。北には渤海国や契丹・突厥・ウイグル、西は吐蕃といった強国があり、常に辺境を脅かしていたのです。
これらに対して、唐は北魏以来の府兵制(徴兵制)を敷いていましたが、負担が大きい上に士気が低く、兵役逃れが頻繁に起きました。そこで722年に府兵制をやめて募兵制とし、戦闘のプロたちをカネで養うことにします。銭の需要はますます高まり、銅が不足して民間での売買が禁止され、例によって悪銭も流通していきます。さらに戦闘のプロたちはソグド人や突厥人ら騎馬遊牧民出身者が多く、軍事力に加えて経済力もつけていました。
755年、ソグド人と突厥人の混血である将軍・安禄山が唐朝に対して反乱を起こし、洛陽を陥落させて国号を大燕としました。玄宗は慌てて長安を逃げ出して蜀へ亡命し、皇子は寧夏で皇帝に即位して反撃を開始します。各政権は軍事費を賄うために開元通宝10文や100文に当たるとする臨時貨幣や悪貨を発行し、経済は混乱してインフレが起き、米1斗が7000文、1石が7万文にも高騰しました。ウイグルの介入で乱はどうにか鎮圧されたものの、唐はウイグルに頭が上がらなくなり、均田制も崩壊して財政難になります。
764年、唐は付加税として「地頭銭」を制定し、毎年秋に1畝あたり10文の税を徴収しました。766年には青苗銭と改めて徴収時期を春とし、768年には15文に増税しています。780年には租庸調制に代わり「両税法」を施行し、資産に応じて戸税を課し、夏と冬に銭で納税するよう命じます。商人に対しても商品価格の1/30が課税され、税収は銭200万貫から1200万貫(2.4兆円)に増えたといいます。しかし全国各地に藩鎮と呼ばれる軍閥が割拠し、農民は農地を捨て去って流民や賊徒となり、弱体化した唐朝の中央政府は税金を徴収するにも苦労する有様でした。
また、唐はウイグルとの間で絹馬貿易を行い、毎年白絹10万-20万疋を輸出して、軍馬1-2万頭を購入していました。1頭あたり白絹10疋(重さ250小両=約3kg)=10貫文=銀10両=金1両(37.3g)=200万円です。ウイグルはこの絹を西方へ転売し、莫大な利益を得ていました。東ローマ帝国では白絹が同じ重さの黄金と等価であったといいますから、金37.3gが金3000g、80倍にも増えるわけです。かつて匈奴も漢の絹を転売して稼いでいました。
◆絹◆
◆路◆
この頃、倭国・日本は遣隋使・遣唐使を派遣してチャイナの制度を受け入れ、文明国の仲間入りを果たしていました。唐の開元通宝を真似て独自の銭を鋳造してもいます。次回は古代日本の貨幣について見てみましょう。
【続く】
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