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【つの版】度量衡比較・貨幣04

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 紀元前146年にカルタゴとマケドニアを滅ぼしたローマ共和国は、地中海の覇者となりました。しかし急激な発展は社会の富の格差を拡大し、社会不安から反乱が頻発します。「ローマ皇帝」の出現までの100年余り、共和政末期のこの時代を「内乱の一世紀」とも呼びます。

◆羅◆

◆馬◆

格差社会

 古代ローマは資産による階級制社会でした。最上位が元老院議員(セナトール)で、執政官などの要職について軍隊を指揮できますが、最低10万デナリウス(12.6億円)以上の資産を所有することが資格の一つです。農地2ユゲルム(エーカー、0.5ha)はおおむね200デナリウス(252万円)とされ、自前の農地を持たぬ者は無産市民(プロレタリア)です。とすれば、元老院議員は最低でも1000ユゲルムの農地を所有していることになります。

 元老院議員を出した家の者を貴族パトリキ、新参者はノビレス)とすれば、それ以外は平民プレブス)です。元老院議員と同格の資産を持ちつつ議席を持たない者は騎士階級(エクィテス)といい、自前で軍馬や甲冑などを用意できるカネモチです。資産100ユゲルム=1万デナリウス(1.26億円)以上の富裕市民はトリアリィ、75ユゲルム=7500デナリウス(9450万円)以上はプリンキペス、50ユゲルム=5000デナリウス(6300万円)以上はハスタティといい、自前で武装を整えて重装歩兵となることができます。

 25ユゲルム=2500デナリウス(3150万円)以上の者は兜と脛当てなしの軽装歩兵(レヴェス)、11ユゲルム=1100デナリウス(1386万円)以上なら投槍と投石具を装備しての補助兵。それ未満の無産階級は基本的に兵役が免除され、駆り出されても軍船の漕手程度です。

 平民の六つの階級クラシスは、民会における代表選挙の票数とも連動していました。無産市民は兵役を免除された代わりに全員集めても1票(1ケントゥリア=百人隊)しか持たず、第五階級は33、第四・第三・第二は各々20、第一階級は青年40、長老40の合計80、騎士階級は18です。票数は合わせて193ですが、騎士階級と第一階級だけで98と過半数を占めるため、民会の意見はおおむねカネモチの意のままです(寡頭政治)。

 これは古代アテナイでいう資産政に相当しますが、ローマの富裕層は大土地所有者であり、数多くのクリエンテス(子分)を従えたパトローネス(親分)でもあったため、社会制度は極めて保守的かつ堅牢で、容易に改革できませんでした。ポエニ戦争ではこのシステムでうまくいき、地中海の覇者になったのですから、これを改革しようなどとはおいそれと言い出せません。

改革挫折

 ローマの歴史を見るのが本題ではないので軽くまとめますが、この時代に起きた戦争や反乱は数多くあります。イベリア半島ではケルティベリア人(ケルト人とイベリア人の混血とも)との戦争が長引き、シチリアやギリシアでは奴隷の大規模な反乱が起き、小アジアのペルガモン王国では国王が遺言で「ローマに国を譲渡する」としたため反対派が武装蜂起しました。

 この頃、戦費を賄うためにアス銅貨の切り下げが行われ、1デナリウスが10アスであったのを16アスに変更しています。セステルティウスは1/4デナリウス=4アスとなりました。1デナリウスを現代日本の1.26万円相当とすれば、1セステルティウスは3150円、1アスは787.5円。1デナリウスを1万円とすれば、各々2500円と625円です。

 ローマはこれらを叩き潰したものの、ローマ軍団兵は社会の中核を担う中産階級で、市民の義務ということで大した給料も支払われません。日給わずか4アス(前280-前140年には5040円、前140年以後は1セステルティウス=3150円)です。補償金は出たものの、彼らが遠征に駆り出されている間に農地は荒れて安く買い叩かれ、戻ってくれば土地なしの無産市民に転落しており、農奴や奴隷になるしかありませんでした。これはおかしい、と立ち上がったのがグラックス兄弟です。

 彼らの改革については論争もありますが、大土地所有に制限をかけ、中小農民を保護しようとしたとされます。また首都ローマの市民は毎月5モディウス(43.35リットル、6.4kg)の小麦を6と1/3アス(5000円弱)で購入可能とする穀物法(救貧法)を定め、属州総督の不法な徴税を告発する裁判所の審議員を元老院議員による独占から変えたといいます。

 古代アテナイでは小麦52.51リットルが6ドラクマ(7.56万円)でしたから、小麦43.35リットルが5000円とは破格の値段です。小麦粉やパンではなく小麦そのままなので、加工して食べるには燃料費や工賃がかかりますが。

 しかしこの改革は保守派元老院議員の猛反発に遭い、兄弟は相次いで(前133年と前121年)殺されました。ある程度の法案は残されたものの、中小農民の没落とローマ軍の弱体化は止まらず、ヌミディア王ユグルタやゲルマン人と思しきキンブリ族・テウトニ族に手こずることになりました。

軍制改革

 前107年、執政官に選ばれたガイウス・マリウスは、大規模な軍政改革を行います。彼は軍人として各地を転戦し成り上がった人物でしたが、現場を知るぶんローマ軍の弱体化と改革の必要性を強く認識していました。まず、伝統的な市民皆兵制を志願制に変え、軍隊に入れば武具や給与が支給されるとします。従軍期間は25年とし、退役後は退職金・年金と土地が与えられるとしました。無産階級や貧民に専業兵士という安定した職を与え、国家を守るために頑張ってもらおう、というシンプルなアイディアです。

 この時定められた一般兵士の年間給与は、70デナリウス=280セステルティウス(88.2万円)です。月給わずか6デナリウス(7.56万円)足らずで、以前の日給1セステルティウスとほぼ同じですが、最低限の社会保障費ぐらいにはなります。しかし軍隊に入れば武具も衣食住も保障されますし、従軍中に大したカネを使うこともありません。戦利品は得られますが、まとめておいて後で分配されます。将校や士官クラスの年給はもう少し高かったでしょうし、軍団兵の年給は後からしばしば値上げされました。

 また保有資産による兵士の区別を廃止し、軍隊の最小単位を8人の小隊(コントゥベルニウム)とし、10小隊=80人で1中隊(ケントゥリア)、6中隊=60小隊=480人で1大隊(コホルス)、10大隊=60中隊=600小隊=4800人で1軍団(レギオ)とします。各軍団は鷲をシンボルとする軍旗を掲げ、ほぼ同数の援軍(アウクシリア)がつきます。援軍はローマ傘下の同盟国・同盟部族から出され、弓矢や投石具で武装した軽装歩兵と軽装騎兵で構成されます。叩き上げの軍人マリウスに鍛え上げられた新生ローマ軍団はやる気に満ち溢れ、苦戦していた戦争でも勝てるようになっていきました。

 ただ、イタリア半島に割拠しローマ共和国と同盟関係にあった諸部族は、ローマ市民権を持つ者と持たぬ者の格差が大きいとして前91年に同盟市戦争を起こしました。土地の分配や軍隊での負担を巡る様々な原因がありましたが、元老院はこれに対して妥協案を提示し、反乱に参加しなかった者たちにローマ市民権やラテン市民権を付与するとしました。前88年までに同盟市戦争は終結し、イタリア半島はローマ本土として統一されることになります。

軍事独裁

 マリウスの改革は、グラックス兄弟より遥かにあっさりと問題を解決しましたが、弊害もありました。安定した職と職場を与えられ、衣食住や年金の保障まで受けた兵士たちは、恩義あるマリウス個人に忠誠を尽くす「クリエンテス(子分)」となります。ローマ市民権を持ちますから選挙では票田になりますし、軍隊での共同生活で一体感が醸成され、軍隊こそ故郷であるとして一般社会から乖離します。守るべき財産も軍隊の外にはありませんし、兵役中は正式な結婚ができないので守るべき妻子もいません。

 こうなると、オヤブンが政治的に苦境に陥れば、俺たちが頑張ってサポートしなければならん、ということになります。マリウスのサポーターにして私兵集団と化した軍団兵たちは武装した政治勢力となって元老院を脅かすことが可能になりました。マリウスの政敵スッラも軍団を率いて台頭します。

 前88年に勃発したポントス王ミトリダテス6世との戦争では、スッラが総司令官としてギリシアと小アジアに向かいますが、嫉妬したマリウスは彼の留守中にスッラを「国家の敵」と元老院に認定させます。スッラは反乱軍のまま軍団を率いてミトリダテスらと戦い、前84年に勝利をおさめて賠償金2000タラントンを支払わせた上、奪還した属州に5年分の属州税として計2万タラントン(1.5兆円余)を支払わせます。当時のローマの歳入が5000万デナリウス=8333タラントン余(6300億円余)ですから、これらの属州の税だけで年4000タラントン、ローマの歳入の半分を占めたわけです。

 この莫大なカネを用い、スッラは軍事力を整えて、ローマへ進軍します。ローマの法律ではイタリア本土へ上陸する時は将軍は軍を解散させねばなりませんが、そんなものはお構いなしです。マリウスはすでに病死しており、マリウス派はスッラ軍を阻んで徹底抗戦を行いますが、激戦の末に打ち破られ、スッラはローマに入城しました。そして反対派を粛清すると終身独裁官ディクタトル・ペルペトゥアなる役職に就きました。

 独裁官は国家の危機に際して執政官(2名)より上位の権限を付与される臨時の役職として古来法律で規定されていました。通常任期は半年ですが、スッラは任期を無期限とし、文字通り独裁者となったのです。彼は矢継ぎ早に国政改革法案を打ち出して独裁官特権で可決させ、前80年頃に辞任して政界を引退、悠々自適の隠居生活を送った後、前78年に病死しました。

 スッラの死後は、スッラ派のポンペイウスクラッスス、ルクッルスらが台頭します。ヒスパニアではマリウス派のセルトリウスらがゲリラ戦を繰り広げ、東方ではミトリダテス6世が反ローマ活動を続け、南イタリアでは剣闘士スパルタクスが反乱を起こしますが、次々と鎮圧されていきました。

 この頃、マリウスの親戚にあたる青年がロドス島に遊学し、修辞学を学んでいます。彼はキリキアを拠点とする海賊に囚われた時、20タラントンの身代金を要求されましたが、「それでは安い、50タラントンにしろ」と自分の身代金を吊り上げ、丁重な扱いを受けた後に釈放させ討伐したといいます。彼こそ後の借金王にして天下人、ガイウス・ユリウス・カエサルです。

◆シーザー◆

◆ツェペリ◆

【続く】

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