【つの版】度量衡比較・貨幣128
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
スペイン・ハプスブルク家の断絶に乗じて、フランス国王ルイ14世は孫をスペイン国王に即位させ、欧州や南北アメリカおよびフィリピンにかけて散らばるその領土をも手中に収めました。オーストリア・ハプスブルク家当主にして神聖ローマ皇帝レオポルト1世はこれを認めず、英国・オランダ等と対フランス大同盟を結成し、ここにスペイン継承戦争が勃発します。
◆仏◆
◆王◆
欧州大戦
3万のオーストリア軍を率いた名将プリンツ・オイゲンは、5月にチロルから北イタリアへ侵攻し、同年7月から翌年夏にかけてカルピ、キアーリ、クレモナ、ルッザーラで次々とフランス軍を撃破します。しかしオーストリア軍は政府からの支援が届かず、現地で掠奪を行いながら戦っており、ミラノ奪還はかないませんでした。
英国では1702年3月にウィリアム3世が事故死し、従妹かつ義妹(ウィリアムの妻メアリー女王の妹)にあたるアンが女王として即位します。彼女はデンマークの王子ジョージと結婚していましたが、子はみな流産・死産・夭折しており、姉メアリーの崩御後に王位継承候補者となりました。オランダ総督であったウィリアム/ウィレムの崩御により英国とオランダの同君連合は解消されましたが、両国はその後も同盟を組んでフランスと戦います。
アンは英国軍総司令官としてマールバラ公ジョン・チャーチルを指名し、ゴドルフィン伯シドニーを大蔵卿に任じて内政を委ねました。マールバラ公の妻サラ・ジェニングスはアンの女官として長年側近くに仕えており、彼女の推挙によるものであったといいます。アンはマールバラ公家に7000ポンド(7億円)もの年金を与え、サラは女王の側近として政治を差配しました。
1702年夏、4万の兵を率いたマールバラ公は大陸に派遣され、オランダ軍と合流して翌年にはフランス軍を撃退しました。さらにケルン選帝侯領を占領し、ライン川沿いに南下してバイエルン選帝侯領をも脅かします。またフランス南部のセヴェンヌ山脈では国王に弾圧されていたユグノー(プロテスタント)の残党が反乱を起こし、フランス軍は鎮圧に手を焼きました。
フランス軍の元帥ヴィラールはライン川戦線で敵軍を防いでいましたが、1703年にライン川を渡って帝国側に攻め込み、バイエルン軍と合流してドナウ川流域を進軍、9月にはアウグスブルクを陥落させてウィーンを脅かします。さらにハンガリーでも反乱が勃発し、オイゲンは北イタリア戦線から呼び戻されますが、ヴィラールはバイエルン選帝侯と対立し、本国に呼び戻されてユグノーの反乱鎮圧に派遣されます。同年にはポルトガルとサヴォイアが対フランス同盟に加わり、フランスは国際的に孤立しました。
仏軍劣勢
1704年春、フランス・バイエルン連合軍はアルザスを占領し、またもドナウ川流域に進出してオーストリアを脅かします。オーストリア・英国・オランダ連合軍は8月にこれを迎撃して散々に打ち破り、9月にはバイエルン選帝侯を屈服させて戦線離脱させます。
また英国・オランダはポルトガルと手を組み、皇帝レオポルトの息子でスペインの王位継承を主張するカール大公を8月にジブラルタルへ上陸させます。フランス側はジブラルタルを奪還すべく艦隊を派遣しますが撃退され、カール大公は英国軍とともに彼を支持するイベリア半島東部、バレンシア・カタルーニャ・アラゴンへと進軍しました。
こうした中、皇帝レオポルト1世は1705年5月に64歳で崩御し、子のヨーゼフ1世が即位します。彼は弟のカール大公、オーストリア軍を率いるオイゲンを全面的に支援し、ハンガリーでの反乱にも対処しつつ国政改革にも取り組みます。カール大公は同年にバルセロナを陥落させ、翌1706年6月にはフェリペ5世を追い払ってマドリードに入城しました。
劣勢を覆すため、フランスおよびスペイン・ブルボン家は決死の反撃に出ます。ライン川戦線ではヴィラールがマールバラ公の進撃を食い止め、北イタリアではサヴォイア公国の首都トリノを攻撃し、スペインではベリック公ジェームズ(英国王ジェームズ2世の庶子)がフランス軍を率いてマドリードを奪還します。スペイン戦線はこれよりフランス側が優勢となりますが、トリノ攻撃はオイゲンの反撃を受けて失敗し、逆にミラノ等を奪われます。マールバラ公は南ネーデルラント(ベルギー)を制圧し、1708年には連合軍を率いてフランドルでフランス軍を撃破しました。
1709年、窮地に陥ったルイ14世は和平を提案しますが断られ、マールバラ公率いる連合軍はフランス領に侵攻します。フランスは挙国一致で防戦にあたり、双方に多数の死傷者が出ました。長引く戦争と天候不順による飢饉、疫病が欧州を襲い、関係各国にはさすがに厭戦ムードが漂い始めます。
厭戦和平
1711年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が33歳の若さで崩御し、唯一の男子が夭折していたため、弟のカール大公が帝位を継承します(カール6世)。カールは英国やポルトガルの支援を受けてバルセロナでフランス軍と戦っていましたが、もはや劣勢は覆せない状況でした。また彼が帝位に加えてスペイン王位を継承すれば、カール5世の時と同じく単独で世界帝国の君主となってしまい、やはり欧州諸国のパワーバランスが崩れます。
この頃、英国(1707年にイングランドとスコットランドが合同しグレートブリテン王国に)では大蔵卿ゴドルフィンが更迭され、マールバラ公も軍資金横領の罪で失脚し、政府はフランスとの和平に向け動き始めていました。そこへヨーゼフの崩御とカールの即位が重なり、和平の流れはさらに加速します。1712年にはロンドンおよびユトレヒトで関係各国間の交渉が始まり、1713年から一連の講和条約締結が開始されます。
これによりフェリペ5世はスペイン王位を継承する代わり、自分と子孫のフランス王位継承権を放棄し、フランス王家もスペイン王位継承権を放棄して、両国が同一の君主を戴く事態が起きない旨を宣言します。またスペインはオーストリアに南ネーデルラント、ミラノ公国、サルデーニャ島、ナポリ王国を、サヴォイア公国にシチリア王国を、英国にジブラルタルとバレアレス諸島のメノルカ島を割譲します。オランダは南ネーデルラントにオーストリアと共同主権を持つことになりましたが、長年の戦争で経済的に大打撃を被り、英国に覇権を譲り渡して没落していきます。
さらにフランスは英国に北米のアカディア/ノバスコシア植民地、西インド諸島のセントクリストファー島を割譲し、イロコイ連邦に対する宗主権を認め、ニューファンドランドやルパートランドへの領土請求権を放棄します。また国内外におけるジャコバイト(ジェームズ2世の子孫とその一派)への支援を停止し、プロテスタントによる英国王位継承を承認しました。
ポルトガルはフランス・スペインと条約を結び、ブラジルにおけるポルトガルの主権を認められ、ブエノスアイレスの北岸の港町コロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ領)の領有も認められます。ここは1680年にポルトガル人が建設した街で、スペインと長年領有権を巡り争っていたのです。英国はポルトガルと協力し、ここを南米大陸への進出の手がかりとしました。
王位交替
和平条約締結直後の1714年、英国でアン女王が崩御し、スチュアート朝が断絶します。ジェームズ2世の子孫は王位継承から外されていたため、アンの又従兄弟にあたるハノーファー選帝侯ゲオルクが王位を継承し、ハノーファー朝のジョージ1世となります。
翌1715年には、4歳で即位して以来72年もの長きに渡りフランスに君臨してきたルイ14世が崩御します。王太子ルイは1711年に、孫のブルゴーニュ公ルイとベリー公シャルルも1712年と1714年に亡くなっていたため、王位継承権を持つ直系子孫はブルゴーニュ公ルイの子である5歳の曾孫、アンジュー公のルイ(ルイ15世)だけでした。
幼いルイ15世が成人するまでの間は、ルイ14世の甥にあたるオルレアン公フィリップ2世が摂政となり、国政を担いました。長年の戦争でフランスは破綻状態にあり、オルレアン公は英国との平和外交によって国内の安定化と再建をはかることになります。
しかしスペイン国王フェリペ5世はユトレヒト条約を不服とし、分割されたスペイン領の回復をもくろみ、フランス王位継承権も再び主張するなど、世界帝国への野望を捨てきれませんでした。このため英国・フランス・オーストリア・オランダ・サヴォイアは対スペイン同盟を締結し、またも欧州は戦火に包まれることになりました。
◆chase◆
◆you◆
【続く】
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