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【つの版】度量衡比較・貨幣93

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 家康は朱印船による海外貿易を奨励していましたが、1612年にキリスト教に対する禁教令を発布し、キリスト教徒を国外追放しました。子の秀忠は禁教令を徹底し、スペインと英国が対日貿易から脱落して、日本と貿易関係にある欧州の国はオランダとポルトガルのみとなります。ここらで貨幣の話に戻り、この頃の日本国内の貨幣について見てみましょう。

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三貨制度

 中世から近世の日本では銅銭と米が主な貨幣として流通し、銀と金は地金が秤量貨幣として用いられてきました。その相場は時代や地域によりまちまちでしたが、16世紀前半には奈良の興福寺と春日大社が「金1両(16g)=銀10両(160g)=銭2貫文(2000文)、銭100文=米0.14石(1斗4升)」と定めています。とすると銭1貫文=米1.4石です(普段は米1石=1貫文とも)。

 当時の労働者の日当は100文ほどですから1文=現代日本の100円として、銀1両=2万円(200文)、銭1貫文=10万円、銀10両=金1両=20万円となります。銀1両は4.3匁で、1匁=4650円余にあたりますが、16世紀初頭には銀2両で1貫文ですからだいぶ値崩れしています。石見銀山で大量の銀が採掘・精錬されたせいでしょうか。これらの交換比率に基づいて、京都など各地では両替商が活動し、貨幣経済を回していました。

 永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、金1両=銀7.5両(32匁)=銭1500文と定めています。銭1文が100円とすれば金1両は15万円、銀1両は2万円、銀1匁は約47文≒4700円です。また永楽銭は1枚が銭3文(300円)に相当するとされ、鐚銭は安く見積もられました。

 信長と対立した武田信玄は、領内の金山を開発して黄金を採掘し、甲州金として流通させました。その表面には秤量単位が打刻されましたが、1両は4.4匁(16.5g)とされ、1/4が分(4g余)、1/4分=1/16両が朱、1/4朱が糸目など四進法で計算されています。1両が15万円とすれば1分は3.75万円、1朱は9375円(約1万円)に相当します。この高額貨幣により武田氏は調略や武具・兵糧の調達を円滑に行えましたが、信長は経済封鎖により内陸国の武田氏を孤立させ、どうにか抑え込んで滅ぼしています。

 武田氏滅亡直後に本能寺の変が起き、光秀を討った秀吉が新たな天下人になります。彼は天正通宝や天正大判、文禄通宝という貨幣(金・銀・銅銭)を発行しますが、軍事費や贈与・褒賞用で、一般には流通しませんでした。また秀吉は堺と京都の銀吹屋20人を大坂に集め、銀の品位と秤量の統一を図らせましたが、これは家康に引き継がれます。

慶長金銀

 天正18年(1590年)、秀吉により後北条氏が治めていた関八州へ移封された家康は、文禄4年(1595年)に京都から江戸へ金細工師の後藤庄三郎を招きました。彼は江戸本町一丁目(現日本銀行本店の所在地)に後藤屋敷(後藤役所)を賜り、その中に金座すなわち金貨鋳造所を設け、秀吉が鋳造した天正大判を真似て「小判」と呼ばれる楕円形の金貨を作りました。これは京目で1両(4.4匁)あり、銀を8分弱混ぜて強度を増し、上に品位を保証する秤量表記と鋳造者の花押(サイン)が墨書されたもので武蔵墨書小判といい、家康の領国たる関八州通用の貨幣として用いられました。

 他に重1匁2分(4.5g)で品位84.3%の円形極印金貨である丸一分判、同じ重量と品位で長方形の額一分判なども鋳造されます。これらは武田氏が用いた甲州金を真似たもので、やはり四進法です。甲斐のみならず伊豆や常陸・奥州にも金山が多くあるため、家康は東国の基軸通貨として銀や銭ではなく金を採用したのです。長く武田氏と領国を接し、一時は武田領を併合し、その旧家臣を多く抱えていた家康にとって、金は馴染み深い貨幣でした。

 関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長6年(1601年)に京都に後藤役所の出張所を設け、後藤庄三郎に全国流通を前提とした金貨の鋳造を命じました。すなわち慶長小判慶長一分金で、関八州で流通していた墨書小判を極印にしたものです。また豊臣家に代わる天下人となった証として、秀吉を真似て慶長大判も鋳造しましたが、これは恩賞や贈答のためのもので一般に流通はしていません。しかし経済先進地である上方・西国では銀と銭が基軸通貨で、かつ十進法を用いており、四進法の金貨には馴染みがありません。

 同年、家康は京都の伏見城下に堺の両替商・南鐐座の湯浅作兵衛らを招いて銀座(銀貨発行所)を設け、彼に「大黒常是」の姓名を与えて銀座を取り仕切らせました。常是らは町屋敷4町を拝領して両替町と称し、諸国から産出される灰吹銀を集めて吹き替え、不揃いな棒状の丁銀に加工して「常是」などの印を刻んで流通させます。これが慶長丁銀で、銀10両(43匁≒160g)を基本としましたが重さはまちまちです。品位は銀8割・銅2割でした。

 慶長11年(1606年)頃には国産銅銭「慶長通宝」が発行され、慶長13年(1608年)には永楽銭の使用が禁止されています。しかし慶長通宝の流通量は少なく、幕府はその後も長く渡来銭や私鋳銭の使用を許しています。

 慶長10年(1605年)、家康は息子・秀忠に征夷大将軍の位を譲って隠居しますが、大御所として駿府城に移り、金座と銀座の出張所を駿府に設立します。慶長13年(1608年)には伏見の銀座が京都金座の隣に移され、大坂にも銀座出張所が設けられます(鋳造は京都のみ)。

御定相場

 同年末から翌年、幕府は御定(公定)相場を公布し、金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=京銭4貫文と定めました。すなわち銀1匁=永楽銭20文=鐚銭80文、永楽銭1文=京銭4文です。京銭とはこの頃に京都付近(上方)で流通していた鐚銭や私鋳銭で、江戸幕府により公式の貨幣制度に組み込まれたのです。当時は米1升が10文(1斗100文、1石1貫文)ですから京銭1文≒100円として、永楽銭1文=400円、銀1匁=8000円(日当程度)、京銭1貫文=10万円、永楽銭1貫文=金1両=40万円です。

 ただしこれはあくまで目安であり、実際には貨幣の品質や供給量により貨幣価値は日々変動していました。そもそも金1両の値段が信長の頃(1500文=15万円相当)より倍以上も高くなっており、これは幕府の権威を高めるためにわざと値段を釣り上げたものともいいます。

 石見銀山や佐渡金山など日本国内の有力鉱山は早くから天領化され、幕府の財政を支えました。諸大名の領内の鉱山にも運上金を負担させています。1580-1640年の日本の推定銀生産量は年間平均100トンに及びましたが、当時の世界の銀生産量は350トンですから3割近くに達します。こうした日本の金銀を求めて海外諸国がしのぎを削ったのもむべなるかなです。

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【続く】

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