【つの版】ウマと人類史EX19:坂東割拠
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
日本列島にはウマの飼育に好適な火山性草原が豊富にあり、特に東国では多くの馬牧が作られました。さらに北方の奥羽/東北地方にも、倭国と蝦夷との交易や戦争などによりウマが導入されていきます。こうした状況の中から武士(武者、武家)が誕生して来ることになります。その先陣を切ったのが坂東の武者・平将門でした。彼について見ていきましょう。
◆将◆
◆門◆
坂東割拠
平将門は桓武天皇の後裔で、坂東平氏の祖・高望の孫にあたります。父・良将は高望の三男であり、下総国の豪族・県犬養春枝の娘を娶って延喜3年(903年)頃に将門を儲けました。兄の国香と良兼はともに常陸国の豪族・源護の娘を娶って各々常陸と上総に勢力を広げており、高望の子らは坂東の東部を支配する豪族となっていました。
国香は初名を良望といい、本拠地を筑波山の西麓、常陸国真壁郡東石田(現茨城県筑西市)に置き、妻の父・源護から常陸大掾の地位を受け継ぎます。掾とは国司の四等官制において守・介の次席にあたり、目の上位である三等官です。掾の音は本来「エン」ですが、唐の三等官の一部が「丞」であるため借音されました。
常陸は上総・上野ともども親王任国(親王が国司として遙任)であるため介が事実上の国司で、広大なため介の下に大掾・小掾が置かれています。つまり常陸大掾は常陸国の事実上のナンバーツーという実力者です。常陸国府は筑波山の東麓の茨城郡南部(現石岡市)にありますから、国香らは筑波山の西側を支配したわけです。筑波山は火山ではありませんが花崗岩が隆起して形成された山で、筑波山地周辺では馬牧が営まれていたようです。
良兼は父・高望が転勤した跡を継いで上総介となり、父が上総国東部の武射郡(現千葉県山武市・山武郡・東金市等)に置いた屋形(現山武郡横芝光町屋形)に本拠地を置きます。上総国の国府は現在の市原市に置かれていましたが、彼はそこに拠点を置いていません。武射郡はもと武社国造の領域で九十九里浜(当時は玉浦)を含み、屋形は栗山川の河口にあって海に面し、水運・海運の要地だったようです。ただ海岸の砂地で水田稲作には向きませんから、畑作や馬牧経営が行われたでしょう。
良将は常陸と上総の間の下総に割拠し、豊田郡(現茨城県常総市・下妻市・八千代町の各一部)と猿島郡(現茨城県坂東市全域と境町・古河市の一部)を勢力範囲としました。およそ茨城県の南西部、利根川と鬼怒川の間にあたり、兄・国香の支配する筑西市のすぐ南です。
鬼怒川は明治時代からの当て字で、古代には毛野川、中世以後は絹川・衣川と表記されました。江戸初期の利根川東遷工事で利根川の支流となりましたが、それ以前には下野国から香取海へ注ぐ独立河川で、その流域は下野・常陸・武蔵に挟まれた水運の要衝でした。下総国府は東京湾に面した千葉県市川市にありましたから、上総・下総・常陸は海運や水運で結ばれていたのです。しかも常総台地は火山灰土で草原が広がり、馬牧にも適していましたから、物資運搬にも騎馬武者の育成にも最適でした。
良将は下総の統治に関する官位を授けられていませんが、鎮守府将軍に任じられたとの伝承があります。これは陸奥国に置かれた軍政機関を統轄する長官で、古くは鎮守将軍といい、蝦夷討伐の英雄・坂上田村麻呂も任じられた重職です。9世紀には鎮守府が多賀城から胆沢城(現岩手県奥州市水沢)に遷され、国司との職権争いにより形骸化していたため、良将が実際に陸奥国まで赴任したかは定かではありません。
骨肉抗争
将門は幼名を小二郎といい、良将の三男にあたります。兄の将持と将弘が早世したため後継者として期待され、元服後の延喜18年(918年)頃に京へ出て、藤原北家の長者・右大臣の藤原忠平を私君(私的な主君)とし、家人として主従関係を結びました。良将の母は北家傍系の良方の娘ですから遠縁にはあたります。この時、将門は「滝口の武者」に任じられました。
これは寛平年間(889-897年)に設置された天皇の護衛で、蔵人所の管轄下にあり、清涼殿東庭北東の滝口近くにある渡り廊下を詰所として宿直したことからそう呼ばれました。ただし令外の官(律令制によらない役職)で、身分としては忠平の家人のままです。忠平は延長2年(924年)には正二位・左大臣となり、延長8年(930年)に朱雀天皇が即位すると摂政に任じられますが、将門は(本郡の)検非違使の佐や尉を望んだものの認められず、同年末頃に父が逝去し、所領を継ぐため帰郷しています。
しかしこの後、将門は伯父の国香・叔父の良兼らと不仲になり、争い始めます。父の所領が彼らに横領されたためとも、良兼の娘が将門のもとに走ったためとも、国香・良兼と同じく源護の娘を娶ろうとして断られたためとも諸説あります。源護は末娘を高望の子(ないし将門の異母弟)の良正に娶らせ、良正は筑波山南西麓の常陸国水守(現茨城県つくば市水守)に拠点を置き、源護や国香・良兼を後ろ盾として将門と対立しました。
将門はこれに対抗するため、土地を巡って源護と対立していた新治郡大国玉(現茨城県桜川市大国玉)の土豪・平真樹と手を結びます。平氏ですが高望系ではないらしく、将門は彼の娘を正室として迎えています。承平5年(935年)2月、将門は源護の子・扶らに真壁郡の野本(筑西市明野町赤浜)で奇襲されますが返り討ちにし、さらに源護と国香の本拠を焼き討ちして、国香を焼死させました。
国香の子を貞盛といい、将門と同じ頃に上京して左馬允の官位についていました。これは朝廷のウマの飼育・管理を担当する馬寮のうち左馬寮に属する武官で、頭は従五位下、助は正六位下、大允は正七位下、少允は従七位上にあたります。左馬寮は前に記したように勅旨牧のうち甲斐と信濃の19牧、近都牧のうち近江・丹波・播磨の3牧を管轄しますから、貞盛もそれらの牧を管理する職務にあったのでしょう。父の悲報を聞いた貞盛は休暇を申請し、故郷へ飛び戻って父の遺骸を回収しました。
事情を聞いた貞盛は「将門を襲撃した源扶らのせいだ」とし、父の跡を継いで常陸大掾に任命されますが、良正の怒りはおさまらず、同年10月に兵を率いて将門と戦います。これに敗れた良正は、良兼と貞盛に将門の乱暴を訴え、ともに将門と戦おうと焚き付けます。良兼は常陸からは離れた位置にいたものの、高望系平氏の宗主として身内の争いに毅然とした対応をしなければナメられますし、父の仇を放置している貞盛はなおさらです。やむなく彼らも兵を率いて将門と対立することになりました。
承平6年(936年)6月、良兼・良正・貞盛の連合軍は下野国から将門の領地に攻め込みますが撃破され、下野国府(栃木市)へ撤退します。将門は下野国府を一時包囲しますが、良兼に配慮して彼を逃がし、下総の本拠へ撤退しました。焦った源護は将門・真樹らを朝廷に告訴し、将門は京へ召還されますが、彼の私君・藤原忠平はこの頃摂政と太政大臣を兼務しており、並ぶ者なき権力者でした。承平7年(937年)4月、朱雀天皇が元服すると大赦が発布され、将門は罪を許されて帰郷します。
落胆した源護はやがて病死しますが、良兼・良正・貞盛らは屈服せず、同年8月に将門の本拠地「栗栖院常羽御厩」を襲撃、放火します。ここは現茨城県結城郡八千代町栗山にあたり、下総五牧のうち大結馬牧の官厩でした。この襲撃で将門は敗走し、将門の妻子のうち真樹の娘とその子が殺され、良兼の娘とその子も密告により連れ去られます。後者はまもなく連れ戻されましたが、恨んだ将門は良兼らを朝廷に告訴し、坂東諸国に良兼らへの追捕の官符が発布されます。
国司らは私闘に関わるのを躊躇して動きませんでしたが牽制にはなり、良兼は承平8年(938年)に将門へ夜襲をかけるも撃退されます。貞盛は密かに朝廷への愁訴のため東山道から上洛を企て、碓氷峠を越えて信濃に入りますが、将門はこれを追跡して信濃国分寺(現長野県上田市国分)付近で追いつき、合戦となります。貞盛は土豪らと共闘し、敗れながらも脱出して京都へ辿り着き、将門追捕の官符を授かって帰りますが、将門に一蹴されてしまいます。良正は死去したのか記録に現れなくなり、良兼も翌年病死したため、後ろ盾を失った貞盛は各地を転々としながら将門への抵抗を続けました。
武蔵騒乱
同じく承平8年、下総の隣国・武蔵に国司代理(権守)として興世王が、その輔佐(武蔵介)として源経基が赴任します。興世王は皇族ながら系譜が定かでありませんが、経基は清和天皇の第6皇子・貞純親王の子で、臣籍降下して源朝臣の姓を賜り、経基流清和源氏の祖となりました。
当時の武蔵も在地有力者が割拠し、横領や反乱を起こして国衙支配を脅かしていたため、しばらく国司が赴任できない状態が続いていました。興世王と経基は赴任するや検注(土地の計測や所在状況の確認)を行い、国衙支配を立て直そうとしましたが、足立郡の郡司で在庁官人の武蔵武芝はこれを拒みます。興世王と経基は兵を集めて武芝を襲撃し財産を没収したため、武芝は下総に逃れ、将門を調停者として招きました。
恐れた興世王と経基は兵を率いて比企郡狭服山へ立て籠もりますが、興世王は和議に応じて山を降り、武蔵国府で武芝らと会見、和解します。しかし経基は和議に応じず、密かに脱出して京へ戻り、「興世王・武芝・将門らが謀反した」と訴えます。同年5月、承平から天慶と改元されました。
翌天慶2年(939年)5月、将門は藤原忠平へ「経基の訴えは事実無根である」との書状を送り、坂東諸国もこれに同意したため、経基は誣告の罪で逮捕・拘禁されます。武蔵国には正式な国守として百済王貞連(百済王族の末裔)が派遣されますが、権守であった興世王は彼と不和になり、任地を離れて将門に身を寄せます。
ここまでの将門は、私君・藤原忠平の権勢を後ろ盾にして骨肉との私闘を制し、坂東一円に広く勢力を持つ在地豪族に過ぎません。朝廷も彼の行為を私闘とみなし、積極的に討伐を命じてはいません。しかし武芝や興世王ら国司への不満分子を抱え込み、次第に国府と対立していくことになります。
◆抗◆
◆争◆
【続く】
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