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【つの版】ウマと人類史EX49:貞永式目

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 承久の乱から3年後、北条義時は62歳で世を去り、嫡男の泰時が跡を継ぎました。彼は父から受け継いだ覇権をどう活用していくのでしょうか。

◆鎌◆

◆倉◆


伊賀事件

 父が逝去した時、泰時は40歳過ぎの壮年で、叔父・時房とともに京都の六波羅に駐在していました。鎌倉からの訃報は3日後には届き、泰時と時房は相次いで六波羅から出立します。ただ急ぎとはいえ供回りを連れているため鎌倉までは10日ほどかかり、その間に鎌倉では朝時・重時・政村ら泰時の異母弟たちによって義時の葬儀が執り行われます。6月末に鎌倉に戻った泰時らは政子に呼び出され、時房とともに「軍営御後見(征夷大将軍予定者である三寅みとらの後見人)」に任じられました。

 ところがこの頃、鎌倉にはある噂が流れていました。義時の最後の正室である伊賀の方は政村(相模四郎)・実義・時尚の三子を産み、娘を一条実雅(三寅の大叔父)に嫁がせていましたが、彼女が兄の光宗、政村の烏帽子親の三浦義村らと語らい、政村を執権、実雅を将軍に据えて実権を握ろうとしているというのです。政子らは義村を訊問した後、義時の四十九日の仏事を終えると関係者を処分することとしますが、死刑となった者はおらず、所領の没収と配流にとどまります。政子による泰時政権安定のための処置であったとも思われるものの、真相は明らかでありません。政村と義村は処分されず、以後も泰時に仕えて幕府を支えました。

評定衆議

 同年11月に元仁と改元され、翌元仁2年(1225年)正月には時房が京都へ戻ります。同年4月には嘉禄と改元され、6月に大江広元、7月に北条政子が相次いで世を去ります。泰時は時房を京都から呼び戻して協力体制を結び、時房の子・時盛と泰時の子・時氏を代わりに六波羅に駐在させました。また中原師員(大江広元の従兄弟の子)・三浦義村ら11名の評定衆を選んで政所に出仕させ、「軍営御後見」である泰時・時房を合わせた「13名」による会議を新設し、幕府の最高決定機関とします。

 評定衆の席次筆頭は中原師員とされ、泰時・時房・義村らはともに御家人として幕府を運営していくというやり方で、かつて源頼家を輔佐した「13名による合議制」を復活させたものです。前回は内ゲバや頼家の反発で崩壊しましたが、この評定衆は幕府の終焉まで存続しました。とはいえ北条氏の権力は次第に強まり、後には評定衆の上位を北条氏が占めるようになったり、形骸化して別の機関に決定権を奪われたりしていきます。

 なお泰時は時政・義時に続き鎌倉幕府の「第三代執権」になったとされますが、執権にあたる政所別当筆頭の座は時房に譲り、自らは次席にとどまっています。そのため泰時・時房をともに執権とみなす「両執権体制」であるとも、泰時が執権で時房が副執権(連署)であるともされます。

 ただし、彼らはあくまで征夷大将軍予定者たる三寅の家来(御家人)であり、鎌倉の政所も実朝暗殺後は三寅の名のもとで尼御台の政子が代理人として維持していたものに過ぎません。その政子が亡くなった以上、三寅が正式に征夷大将軍にならねば大義名分が立ちません。同年12月末、泰時らは8歳になっていた三寅を元服させ、朝の跡を継ぐ者として「頼経」と名乗らせました。翌年正月、頼経は正式に朝廷より征夷大将軍の官位を賜ります。源氏への改姓は許可されませんでしたが、義時・政子没後の幕府は泰時によって再編され、新将軍・新体制のもとで再出発することになります。

寛喜飢饉

 しかし翌嘉禄3年(1227年)6月、泰時の次男・時実が16歳で家人の高橋二郎とトラブルを起こし、殺されます。その3年後の寛喜2年(1230年)には、泰時の長男の時氏が28歳で病没し、三浦義村の次男・泰村に嫁いでいた泰時の娘も産後の肥立ちが悪く同年に死去するなど不幸が続きました。やむなく泰時は時氏の子である経時を後継者とし、自らの異母弟の重時と実義(改名して実泰)を時氏の後任として六波羅に駐在させます。また同年末に将軍の頼経は源頼家の遺児・竹御所を娶りますが、彼女は4年後に男児を死産したうえ自らも死亡し、頼朝の直系子孫は断絶しました。

 またこの頃には飢饉や疫病が頻発し、朝廷は頻繁に改元を行っています。嘉禄3年末には痘瘡の流行により安貞と改元され、安貞3年(1229年)3月には飢饉により寛喜と改元されますが天災はおさまらず、寛喜2年には夏から秋にかけて異常な寒さと洪水が襲い、冬は異常な暖冬となります。このため人民は収穫や作付けもままならず、備蓄食料や種籾も食い尽くし、翌年春には大飢饉となります。同年夏は酷暑で旱魃となり、餓死者が続出しました。

 被害は源平合戦の頃の養和の飢饉(1180年)にも匹敵し、飢えた人民は備蓄米を求めて京都や鎌倉など都市部に押し寄せたため、市街地には餓死者が転がり疫病が流行する地獄絵図となります。また生き残るために富豪の家に仕えたり、自分や妻子を身売り・質入れして食糧を乞うケースも相次ぎ、深刻な社会問題となりました。幕府は対応に追われ、各地の備蓄米を放出して人民を救済するとともに、富豪に対して米などの放出、債務や利息の放棄を行うよう勧告しています(徳政令)。寛喜4年(1232年)4月に貞永と改元されますが、飢饉の影響は延応元年(1239年)まで続きました。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて続いた戦乱や天災は、人々に末法の世を実感させるのに十分でした。阿弥陀仏による極楽往生を説いた浄土宗(法然・親鸞)、坐禅による悟りを目指す禅宗(栄西・道元)が流行したのは、こうした時代背景に拠るものです。庶民は浄土宗に救いを求め、武家は禅宗を通して精神修養や政治哲学を学びました。日蓮もこの頃生まれています。

貞永式目

 全国的な戦乱はおさまっていたものの、相次ぐ災害と飢民の流出は、ただでさえ脆弱化していた各地の荘園経営を直撃します。特に京都周辺では、承久の乱の戦後処理で検非違使や北面武士などの軍事力が低下しており、六波羅も治安維持は検非違使に委ねていたため掠奪や横領が横行し、治安の悪化に歯止めがかからない状態でした。

 こうした状況を改善するため、貞永元年(1232年)8月に鎌倉幕府は「御成敗式目」を制定します。平安時代において古来の律(刑法)と令(行政法・民法)は根本法典であるため改正されず、必要があれば格(修正・補足)や(細則)を追加して補っており、さらに慣習法や先例が付け加えられて複雑な「公家法」が成立していました。この公家法における式の条文を「式条」といい、その目録扱いとして定められたのが「式目」です。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武家社会も公家法と慣習法、先例や道理(倫理道徳)に基づいて運営されていました。しかし指標となる慣習や先例や道理は地域ごとに異なり、東国武士が各地に赴任した際に現地の荘園領主と諍いになりました。そこで泰時らは混乱を収めるため、明確な基準となる成文法を制定し、裁判を円滑に進められるようにしたのです。

 もともと幕府の政所を運営していたのは大江広元ら中級貴族出身の事務官僚ですし、主な訴訟は武家と公家の間で起きていましたから、律令法や公家法が基礎にはなっています。また幕府・御家人に一方的に有利とはならず、当時の常識に基づいて誰が見ても公平・正当であるように機能しなければ、公家や寺社・民衆が反発します。律令や公家法が撤廃されたわけではなく、あくまで幕府が武家社会における実務の円滑化のために制定した法の細則ですが、平易かつ公正で当時の実情に合致していたため広く普及しました。

 条文は51条からなり、寺社の職務、守護・地頭の職務と禁止事項、所領の扱いや各種刑法について記されています。この御成敗式目(貞永式目)は以後も追加法が制定されつつ活用され、鎌倉幕府と北条氏が滅亡した後も有効とされ、室町幕府や戦国大名も追加法(建武以来追加分国法)を制定して活用しました。江戸時代に武家諸法度が制定されるとこちらが優先されたものの、法令としては明治時代に近代法が成立するまで有効でした。

 現代の民法162条に規定された「取得時効(20年間、所有の意思をもって平穏かつ公然に他人のものを占有した場合は所有権を取得できる)」については、御成敗式目の第8条に類似の文(年紀法)が見られるため、これが起源ではないかともいいます。ただし民法典起草者の一人・梅謙次郎は旧来の日本の慣習によるものとは言っておらず、偶然の一致かも知れません。

仁治政変

 延応元年(1239年)末に三浦義村が、翌仁治元年(1240)正月に時房が相次いで死去し、泰時は単独の執権となります。寿永3年(1183年)生まれですからもうじき還暦(60歳)ですが、晩年にも気苦労は続きました。

 承久の乱後に擁立された後堀河天皇は同貞永元年10月に2歳の皇太子秀仁みつひと親王(四条天皇)に譲位し、2年後に崩御していました。この四条天皇は仁治3年(1242年)正月に12歳で崩御し、子や弟がなかったため皇位継承問題が持ち上がります。

 四条天皇の母方の祖父であり、九条頼経の父である道家は、前摂政・関白として太閤(出家して禅閤)となっており、朝廷における最高実力者として権勢を誇っていました。彼は皇位継承者として、順徳院の子である忠成王を推薦します。しかし順徳院は承久の乱で父の後鳥羽院に協力し、佐渡に流されているうえ、まだ配流先で健在です。忠成王が天子になれば順徳院が復権して京都に帰還しかねず、北条氏にとっては認められません。

 そこで泰時らは、順徳院の兄である土御門院の子・邦仁王を擁立します。土御門院は後鳥羽院に協力せず、自ら進んで土佐(のち阿波)へ配流され、10年以上前の寛喜3年(1231年)に阿波で崩御しており、復権するおそれはありません。また邦仁王の母方の大叔父で後見人の土御門定通は泰時の異母妹である竹殿と結婚しており、承久の乱後に没落していて後ろ盾も乏しく、復権のため北条氏に協力的になることが期待できます。道家と定通は急いで鎌倉へ使者を送り、皇位継承について意見を求めました。

 九条道家は征夷大将軍・頼経の父であり、反北条氏勢力がこれに乗じて頼経を奉じ反旗を翻す可能性もあります。泰時らは協議の末、皇室の先祖たる八幡神(応神天皇)を祀る鎌倉の鶴岡八幡宮に託宣を求め、これに基づいて「幕府は邦仁王を擁立する」と表明しました。当時の鶴岡八幡宮の別当は土御門定通の弟の定親ですから定通に有利な託宣を下すに決まっていますが、「皇祖神の神意である」とすれば頼経も御家人も従わざるを得ません。

 関東申次(鎌倉幕府と朝廷の連絡役)かつ道家の義父である西園寺公経はこれを受けて状況判断し、邦仁王を縁戚の四条隆親の邸宅に迎えて践祚(即位)させます。これが後嵯峨天皇です。公経は自らの娘を中宮(皇后)に立て、北条氏を後ろ盾として土御門家や四条家・二条家を味方に引き入れ、九条道家に対抗することとなります。しかし泰時は体調を崩し、同年6月に60歳で逝去しました。孫の経時が跡を継ぎますがまだ19歳で、九条頼経より6歳も若く、北条氏の権勢はまたも揺らぎ始めます。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

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