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【つの版】度量衡比較・貨幣147

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 18世紀の日本は様々な災害に見舞われ、重税と貨幣改鋳により幕府の財政赤字を補填していました。これは18世紀末に天明の大飢饉と全国規模での打ちこわしをもたらし、田沼意次の失脚に繋がります。そして同じ頃、ヨーロッパではフランス革命が起きます。それまでの歴史を見ていきましょう。

◆仏◆

◆蘭◆


英仏和平

 振り返ってみましょう。フランス王ルイ14世は、スペイン・ハプスブルク家断絶後にスペイン継承戦争を起こし、孫のフィリップ(フェリペ5世)をスペイン王位に立てることに成功します。しかしナポリ・シチリア・ネーデルラント・ジブラルタルなどの支配権はスペインから奪われ、禍根を残す結果となりました。1715年にルイ14世が崩御すると、5歳の曾孫ルイ15世が即位し、ルイ14世の甥であるオルレアン公フィリップが摂政となります。

 彼は国内外の安定のため平和外交を展開し、英国と友好関係を締結しますが、ルイ15世の叔父にあたるスペイン王フェリペ5世は失地回復のためハプスブルク家と開戦し、さらには自らがフランス王位を兼ねようと図ります。これに対しオルレアン公は英国・ハプスブルク家・オランダと同盟し、スペインの侵略をはねのけました(四国同盟戦争)。しかしフェリペは野心を捨てておらず、戦争の火種はくすぶり続けることになります。

 戦争が終結した1720年、英仏両国で投機バブルが弾け、その影響は政治家や宮廷にも波及します。フランスでは混乱が続いた末、1723年にオルレアン公が摂政を辞任し逝去します。ルイ15世はまだ13歳で、摂政会議議長のブルボン公ルイ4世アンリが宰相(首相)をつとめることとなります。彼はブルボン家の庶流ブルボン=コンデ家の総帥で、日本で言えば譜代・親藩の大名であり、1692年の生まれですから31歳で、年齢に不足もありません。

英国首相

 一方英国では、ロバート・ウォルポールが現れてバブル崩壊後の混乱を収拾しました。彼は1676年生まれで、同名の父は地主階級でしたが庶民院(貴族院は最高裁判所なので事実上の国会)の議員をつとめ、1700年に父が没すると跡を継いで議員となります。この頃、英国議会はトーリー党ホイッグ党に分裂しており、ウォルポールは野党のホイッグ党に所属していました。

 トーリー/Toryとはアイルランド語のtoraidhe(盗賊)、ホイッグ/Whigはスコットランド語のwhiggamore(馬泥棒)に由来し、両者が互いを侮蔑してそう呼んだものです。王政復古後の17世紀後半、カトリックのジェームズ2世を国王と認めるか否かで分裂しました。トーリー党はカトリックではありませんが王権と国教会を尊重する王党派で、現在の保守党(中道右派)の前身です。対するホイッグ党は王権より議会主権を重んじ、カトリック以外の非国教会の信者には寛容で、後の自由党、現在の自由民主党(中道左派)の前身です。とはいえトーリー党もジェームズが国教会をカトリック化しようとすると反発し、名誉革命ではホイッグ党と協力してオランダ総督ウィレムを招き寄せています。大同盟戦争ではホイッグ党が議会の多数派を占めて政権を握りましたが、終戦後はトーリー党が巻き返して与党となりました。

 トーリー党政権はアン女王の支持を受けて15年間存続しましたが、1714年にアン女王が崩御してスチュアート朝が断絶し、遠縁にあたる北ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが招かれて英国(グレートブリテン王国)王ジョージ1世として即位します。彼の即位にホイッグ党が尽力したこともあり、ジョージ1世はホイッグ党支持を表明し、トーリー党は翌年の総選挙で野党に転落、大規模な報復人事と弾劾にさらされました。

 ウォルポールはこの時ホイッグ党員としてトーリー党員の弾劾に奔走し、新政権の確立に貢献、1715年には第一大蔵卿に就任します。1717年には国王と政権を批判したため罷免されますが、このため南海泡沫事件には関与せずに済み、1720年6月に陸軍支払長官として政権に戻りました。彼は「公信用回復法」を制定して南海会社の政府への債務の半分を帳消しにし、残りはトーリー党員から没収した財産をあて、あるいはイングランド銀行に負担させます。投資家に対する補償もある程度は行われました。そして多くの閣僚が失脚したこともあり、ウォルポールは第一大蔵卿に返り咲いたのです。

 しかし第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)という地位は、本来はその名の通り複数いる大蔵卿の筆頭に過ぎません。ただジョージ1世は本国のハノーファーを重視し、英国の政務は議会と内閣に委任したため、結果的に「国王は君臨すれども統治せず、内閣は議会の信任を得て行政を行う」という議院内閣制が実現します。ウォルポールは策をめぐらして政敵を排除し、政府の機密費を選挙につぎ込んで票を集め、ついに国王に代わって閣議を主宰する者として「首相(Prime Minister/首席大臣)」と俗称されるに至ったのです。彼は言論弾圧を行って反対意見を封じ込め、その支配は「ロビノクラシー(ロバートの支配)」「パクス・ウォルポリアナ(ウォルポールの平和)」と呼ばれました。

欧州危機

 この頃、オーストリア・ハプスブルク家は男系断絶の危機に直面していました。神聖ローマ皇帝カール6世はブルボン朝スペインやオスマン帝国との戦争に勝利して大いに領土を広げ、ベオグラードからミラノまでを領有するに至りましたが、嫡男レオポルト・ヨーハンは1716年に生後7ヶ月で亡くなり、成人まで生き残ったのは長女マリア・テレジアと次女マリア・アンナだけでした。先帝である兄ヨーゼフにも成人男子がおらず、このままではスペイン・ハプスブルク家同様に男系が絶えてしまいます。

 幸いカール6世は1713年に国事詔書を発して「ハプスブルク家の世襲家領(オーストリア、ボヘミア、クロアチア、トランシルヴァニア、ハンガリーなど)は一体不可分であり、男系が断絶した場合は最後の継承者の娘とその子孫が女系相続する」と定めていました。これはカールの兄ヨーゼフの娘やその娘婿に帝位相続や領土の分割相続を認めないために決めたもので、1720年から世襲家領内諸国の議会でも順次承認されていきます。カール6世は帝位継承戦争が起きないよう、諸外国にも国事詔書の承認を求めました。

 またカール6世は重商主義政策をとり、1718年に東インド(オーステンデ)会社、1719年にはオリエント会社を設立して外国との貿易を独占させ、国内の諸産業には問屋制(商人が手工業者に道具と原料を前貸しし、製品を独占的に販売するシステム)を導入して統制下に置きます。しかしオーストリアの問屋制資本は外国資本に従属しており、ボヘミアの麻織物工業は英国の、水銀や銅はオランダの支配下にありました。

 さらに英国にはシレジア、ジェノヴァにはボヘミアの地租を抵当にして資金を工面しており、傭兵を雇うカネにも不足していたため農民兵を動員せざるを得ません。オーステンデ会社の活動も英国に妨害され、国際的に孤立したオーストリアはカンブレー会議で和平交渉中のスペインと接近します。

 1725年3月、ブルボン公はルイ15世とスペイン王女マリアナ・ビクトリアとの婚約を解消しています。マリアナはフェリペ5世の娘ですがまだ6歳で、世継ぎを産むには幼すぎ、ルイ15世が世継ぎを儲ける前に崩御すれば、フェリペがまたぞろフランスの王位継承権を主張しかねません。それに首尾よく婚姻が成り世継ぎが生まれたとしても、フェリペが外戚として国政に介入することは目に見えています。当然スペインとの関係は悪化しますが、フランスの将来を鑑みれば避けられない選択でした。国際的に孤立したスペインはオーストリアと接近し、共通の敵である英仏と戦おうと呼びかけます。

 1725年4月、オーストリアとスペインはウィーン条約を締結して過去の対立を水に流し、スペインが英国からジブラルタルを奪還することをオーストリアが支援すると取り決めました。仰天した英国は同年9月3日にフランスおよびプロイセンとハノーファー条約を締結し、対スペイン軍事同盟(ヘレンハウゼン同盟)を結成します。欧州にはにわかに緊張が走りました。

 1725年9月5日、ブルボン公はマリー・レクザンスカをルイ15世と結婚させます。彼女は1703年生まれの22歳で、ルイ15世より7歳も年上です。父スタニスラス・レクザンスキ(スタニスワフ・レシチニスキ)はポーランドの大貴族(マグナート)の出身で、1704年にスウェーデン王カール12世により傀儡のポーランド王に擁立された人物です。カール12世が1709年にロシアとの戦いで敗れると失脚し、スウェーデン領ポメラニアに亡命した後、フランス領アルザスのヴィサンブールに逃れていました。

 ブルボン公は「健康で信心深く、年齢的にも子供がすぐ産めそうだ」という理由で彼女を王妃に選びます。両親を早くに亡くし、内気な性格だったルイ15世は年上のマリーを溺愛し、1727年から1738年までの11年間に毎年子を儲けることとなります。これで世継ぎの問題は解決しましたが、フランスはポーランド・ロシア・オーストリアを完全に敵に回します。またブルボン公は財政再建に失敗して穀物価格の上昇を招き、臣民から嫌われました。

 1726年7月、ルイ15世はブルボン公を宰相から罷免し、自らの教育係であった宮廷司祭のフルーリーを事実上の宰相とします。彼は9月に枢機卿に任命され、以後15年あまりフランスの国政を司りました。

 ロシアではピョートル大帝が1725年1月に崩御し、将軍のメーンシコフが皇后エカチェリーナを女帝に据えて実権を握っていましたが、フランスが反ロシア・親スウェーデン派のレシチニスキの娘を王妃としたとなれば、当然オーストリア・スペイン側につきます。ここにヨーロッパは2つの陣営に分かれ、一触即発の様相となりました。

英西戦争

1725-30年の欧州

 幸いオーストリアやロシアは対英仏戦争に積極的ではなく、スペインはほぼ単独で英仏連合を相手取る羽目になります。英国はバルト海に艦隊を派遣してロシア海軍を牽制しつつ、ジブラルタルの防備を固め、地中海艦隊を増設してスペインを牽制します。またカリブ海にも艦隊を派遣してスペインの貿易を妨害し、パナマ地峡の要衝ポルトベロを封鎖しました。スペインは1727年にジブラルタルへ侵攻しますが苦戦し、厭戦ムードが漂い始めます。

カリブ海での戦闘

 ここで仲介に乗り出したのが、ブルボン公に代わってフランスの事実上の宰相となっていたフルーリー枢機卿です。1727年5月、彼は英国とオーストリアを和解させ、オーストリアとスペインの同盟を解消させます。同年には英国王ジョージ1世が崩御し、スペインは混乱に乗じて反政府組織を支援し撹乱しますが、ジョージ2世が即位して抑え込まれます。

 やむなくスペインも英国との講和に同意し、1728-29年に和平が結ばれ、ジブラルタルへの請求を取り下げる代わりに、イタリアのパルマ・エ・ピアチェンツァ公国とトスカーナ大公国の領有権を認めさせます。カール6世は難色を示したものの、最終的には合意に至ります。欧州での大戦争は回避され、平和が訪れたかに見えました。

回復時代

 フルーリーは1653年の生まれで、ブルボン公罷免の時はすでに73歳の老齢でした。南フランス・ラングドッグ地方の街ロデーヴに豊かな徴税人の息子として生まれ、パリでイエズス会の教育を受けて聖職者となり、ルイ14世の王妃マリー・テレーズに宮廷司祭として仕え、彼女が1683年に崩御すると国王に仕えました。1698年からは南フランス・プロヴァンス地方の港町フレジュスの司教となり、1717年からルイ15世の教育係をつとめました。

 彼は温和で聡明な人物であったため、幼いルイ15世は彼によくなつき、全幅の信頼を受けていました。ルイ15世が王位につくと閣議にも出席するようになり、ブルボン公は彼を疎んで排除しようとしますが失敗し、かえって自分が失脚したのです。フルーリーは控えめな性格ゆえ宮廷でも敵が少なく、正式な宰相の地位も固辞しましたが、政治的には有能でした。

 彼は財務総監にミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール、ついでフィリベール・オリを登用し、ルイ14世以来慢性的な破綻状態にあった財政の再建に着手します。彼らは宮廷費や年金、軍事費などの支出を削減する一方、通貨の基準を修正し、国債の定期的利息の支払いを開始して、フランス経済の信用を回復させます。さらに増税を含む様々な手段で税収を増やし、1736年にはついに収支の均衡化(歳入と歳出の一致)に成功しました。

 ついで国内の道路・橋・運河・港湾など交通インフラを整備し、物品輸送にかかる税率を引き下げて流通を刺激し、商業の発展を促進し、これによって税収を増やしました。フランスの貿易額は1716年には8000万リーヴルほどでしたが、1748年には4倍近い3億800万リーヴルに増大しています。こうしたことからフルーリーの時代は、長年の戦争や投機バブルの崩壊による荒廃からの経済復興の時期、「回復」の時代とみなされています。

 しかるに、急速に国力を回復させていくフランスは、周辺諸国にとっては脅威でした。ルイ14世の時代に大戦争を起こして欧州を揺るがしたのは記憶に新しく、ルイ15世も成長すると次第にフルーリーの言うことに従わなくなり始めます。英国ではフランスやスペインを牽制するためにオーストリアと手を結ぶべきという意見が強まり、英仏関係には暗雲が立ち込め始めます。

◆Robert◆

◆Walpole◆

【続く】

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