【つの版】ウマと人類史:中世編16・騎士形成
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
1092年、宰相ニザームルムルクと皇帝マリク・シャーが相次いで世を去ると、セルジューク帝国は後継者争いで分裂し、西欧から十字軍が襲来します。この頃までに欧州や北西ユーラシアでは何が起きていたのでしょうか。
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阿拔滅亡
前に詳しく見ましたが、西突厥とサーサーン朝が瓦解してイスラム帝国が勃興した頃、カフカースの北にはハザール・カガン国が興りました。彼らはテュルク系の騎馬遊牧民を中核とする部族連合で、「アンサーの氏族」すなわち突厥の阿史那氏のカガン(分家か僭称か)を戴き、7世紀後半にはブルガール部族連合が崩壊したのを好機として黒海北岸にも進出します。
ブルガール人の一部は南下してドナウ川下流域に住み着き、ドナウ・ブルガール・カガン国(ブルガリア王国)を建国します。また別の一派はヴォルガ(イティル)川を北上してヴォルガ・ブルガール国を建国し、ハザールに服属して毛皮を輸出しました。
パンノニア平原にいたアヴァール人は、カルパチア山脈を防壁としてブルガール人に対抗し、一部は西へ動いてオーストリアやスロバキア、チェコを占領しました。アッティラの死から200年が経っても、ドナウ流域には変わらずテュルク系の騎馬遊牧民が闊歩していたのです。しかし彼らは人口が少ないため、次第に土着のスラヴ人やゲルマン人と同化していきました。
オーストリアの西には6世紀中頃からバイエルン部族公国がありました。この国はローマ帝国の要塞があったレーゲンスブルクに都を置き、フランク王国の東部分王国(アウストラシア)に服属していました。その領域はリンツ付近にまで及び、アヴァール人・スラヴ人と境を接しています。
ウィーンの西にはアルプス山脈とベーマーヴァルト(ボヘミアの森)と呼ばれる山地が南北から迫っており、カルパチアからドナウを遡って西へ侵入しようとする勢力をある程度防げる地形となっています。アヴァール人とバイエルン人・フランク人はこの回廊を巡って争いました。またバイエルン公はアルプスの南のランゴバルド王と同盟しています。
768年、カロリング朝のフランク王に即位したカールは、771年に弟カールマンが逝去すると単独の王となり、周辺諸国と戦いました。772年からは北ドイツのザクセン人と30年に及ぶ戦争を始め、774年にはイタリアのランゴバルド王国を併合します。778年にはピレネー山脈を越えてバスク人を攻撃しますが敗れて撤退しました。しかし北ではフリースラント(オランダ)、西ではブルターニュを征服し、788年にはバイエルンを征服しました。
さらに791年にはドナウ中流域の西スラヴ人、アヴァール人を駆逐してアヴァール辺境領を設置し、ウィーンを占領して教会を建設しました。796年にはドナウ川を渡ってパンノニア平原に侵攻、アヴァールに致命的な打撃を与えて服属させています。これを好機としてドナウ・ブルガールのクルム・カガンがトランシルヴァニアとパンノニア東部へ侵攻し、アヴァール・カガン国はフランクとブルガリアに分割され、ここに命脈を絶たれます。
アヴァール辺境領に接するウィーン付近はオストマルク(東方辺境領)とされ、ブルガリアやスラヴなど東方勢力の侵攻を防ぐ最前線となりました。現在のオーストリア/エスターライヒ(東の国)のもとです。
ヨーロッパの西部・中部の大部分を制圧したカールは、西暦800年にローマ司教(教皇)から東ローマ皇帝に代わる「ローマ皇帝」として戴冠されます。しかし814年にカールが崩御すると、その帝国は子孫に分割相続され、統一的な帝国とはなりませんでした。クルム・カガンはトラキアを征服しますが同年に逝去し、後継者は東ローマと和約を結んでいます。
馬扎侵攻
この頃、欧州は様々な勢力に襲われています。北からは北欧のノルド人がヴァイキングとなって襲来し、南からはサラセン人(イスラム教徒)が海賊となって地中海沿岸を襲います。ハザールの北にはヴァイキングの一派のルーシが現れ、河川交通を抑えて交易や掠奪に来ますし、東からはテュルク系のペチェネグ族がキメク・キプチャク族に押されて押し寄せます。840年にはモンゴル高原でウイグル・カガン国が崩壊し、難民が各地へ流出していますから、例によって玉突き現象が起きたわけです。
この頃アゾフ海沿岸にいたマジャル人は、ペチェネグに押されてドニエストル川の下流部へ押し寄せました。マジャルは西シベリアにルーツを持ち、ウラル山脈から川沿いに南下した集団で、ウラル語族フィン・ウゴル語派ウゴル諸語に属する言語を話していました。またハザールから分離したテュルク系カバール人も混ざっており、合同してテュルク語でオン・オグル/オノグル(十の部族)と呼ばれる部族連合を形成しました。彼らはブルガリアと手を組み、東ローマと戦っています。864年、ブルガリアのボリス・カガンはキリスト教(正教)に改宗しました。
ハンガリー(Hungaria)とは、オノグルをギリシア語化したオノグリア(Onoguria)を、ラテン語化したウンガリア(Ungaria)の語頭に、12世紀末頃Hをつけてフン族っぽくした呼び名です。マジャル人はフランク人やイタリア人からウングリー、ウンガリーとも呼ばれていました。
892-3年頃、ハザールとペチェネグの戦闘が起こり、マジャル人はペチェネグに押されてさらに東へ移動します。彼らはブルガリアが東ローマと戦争を開始した隙を突き、カルパチア山脈を越えてトランシルヴァニアとパンノニアへ侵攻したのです。東ローマはマジャル人と手を組みますが、ブルガリアはペチェネグを支援してマジャル人を撃ち破ります。しかしマジャル人はパンノニア北部に拠点を築き、ヨーロッパ全土を襲撃します。統一された軍隊ではありませんが、その被害はフン族に勝るとも劣りませんでした。
分裂していたフランク王国や各地の諸侯は、剽悍なる騎馬遊牧民の侵攻に手を焼きます。ヴァイキング、ルーシ、サラセン、マジャルが跳梁跋扈するこの時代の欧州は、文字記録が失われたわけではないにせよ暗黒時代と言っても過言ではありません。農民たちは豪族の居城や教会・修道院の近くに集住して柵や堀や壁をめぐらし、見張り塔を建てて蛮族の侵攻に備えました。
同時代のチャイナは唐が崩壊して大乱世を迎えていますし、イラクやシリアも似たような状況です。しかしイベリア半島のアンダルス・ウマイヤ朝は別天地に在って最盛期を迎え、北アフリカにはファーティマ朝が勃興し、バルカン半島ではブルガリア王シメオンが皇帝(バシレウス)を称し、中央アジアではサーマーン朝やカラハン朝が繁栄していました。
955年、東フランク王兼イタリア王のオットーはミュンヘンの西のレヒフェルトでマジャル人の軍勢と戦い、激戦の末に撃ち破りました。マジャル軍は軽装の弓騎兵が多く、フランク軍は重装備だったためともいいますが、戦いの詳細な様子はわかっていません。歴史家の推測では、歩兵がマジャル軍の騎兵を食い止めている間にフランクの重装騎兵が側面へ回り込み、突撃を仕掛けたのだろうといいます。マジャルの君主タクショニはパンノニアへ撤退し、オットーは深追いせずに捕虜や戦利品の確保と分配を行いました。
神聖皇帝
この功績により、オットーは「異教徒からキリスト教世界を救った英雄」と讃えられ、962年にはローマ教皇より皇帝の冠を授けられます。924年以後空位であった(フランクの)ローマ皇帝はここに復活したのです。これ以後東フランク(ドイツ)の王がイタリア王などを兼ね、教皇から帝冠を被せられるのが慣例となりました。
いわゆる「神聖ローマ皇帝」ですが、神聖(羅:Sacrum)の号は1157年に初めて(帝国の尊称として)用いられたもので、カールやオットーの帝号は単に「ローマ皇帝」でした(3世紀以後のローマ皇帝に対してもSacrumの語は使われたようですが)。
敗れたタクショニは失脚もせず、970年頃まで東ローマやブルガリアと戦っています。ブルガリアは皇帝を称したシメオンののち衰退しており、東ローマやルーシの攻撃を受け、969年にはいったん滅亡しました。しかし976年に残党が蜂起して復活し、マジャル人と組んで東ローマに対抗します。
マジャルでは大公タクショニの死後、子のゲーザが即位していましたが、973年に皇帝オットー2世へ使節を派遣し、ローマ・カトリックの宣教師を派遣するよう求めました。東ローマやブルガリアの正教に対抗するためです。985年にはゲーザの子ヴァイクがプラハのアダルベルトから洗礼を受け、洗礼名イシュトヴァーン(ステファヌス)を授かっています。
997年にゲーザの跡を継いだイシュトヴァーンは、西暦1000年のクリスマスに首都エステルゴムで戴冠式を行い、ウンガリア王国(羅:Regnum Ungariae)を建国しました。すなわちハンガリーです。ただし神聖ローマ皇帝の属国とならぬよう、ローマ教皇から授かった冠を用いています。同年にはポーランド公ボレスワフが神聖ローマ帝国の爵位を授かり、1003年にはボヘミアを征服してボヘミア公を兼ね、ハンガリーにしばしば侵攻しました。
ハンガリーの南では、ブルガリア皇帝サムイルが勢力を伸ばし、ハンガリーの支援を得てバルカン半島の大部分を制圧します。これに対し、東ローマ皇帝バシレイオスはルーシと手を結び、キエフ公ウラジーミルを正教に改宗させる代わりに皇女を娶らせました。またブルガリアの諸侯にカネをばらまいて寝返らせ、1014年には決定的な勝利を収めます。サムイルは敗戦のショックで死亡し、1018年にブルガリアは東ローマに併合されました。バシレイオスのもと、東ローマ帝国は南イタリアからアルメニアに至る地域を支配する大国として復活し、最後の黄金時代を迎えたのです。
しかしバシレイオスが1025年に崩御すると、後継者争いから東ローマはまたも衰退し、ペチェネグやルーシ、ノルマン人の侵略を受けます。さらにセルジューク朝に敗れてアルメニア・シリア・アナトリアの支配権を失い、これに対抗するため各地から傭兵を呼び集めたというわけです。
この頃の神聖ローマ皇帝はローマ教皇と叙任権闘争を繰り広げており、カトリック世界には多数の諸侯王が割拠していましたが、騎馬遊牧民との長年の闘争により精鋭の騎士(重騎兵)が鍛え上げられ、戦闘力は高かったのです。さらに十字軍に参加することで、騎士は「神の戦士」として神聖視されるようになり、「騎士道」と呼ばれる倫理道徳が説かれるようになります。実際に騎士道を守っていた騎士は王侯貴族にも数少なく、敵方のサラディンの方が騎士道的だと言われたりしていますが。
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◆志◆
【続く】
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