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【つの版】度量衡比較・貨幣169
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
寛政の改革を行った松平定信は、将軍・徳川家斉とその父・治済の不興を買い、わずか6年で老中首座から失脚します。しかし彼の政策は松平信明ら「寛政の遺老」に受け継がれ、四半世紀近くも継続しました。定信失脚から家斉の薨去までの半世紀ほど(18世紀末から19世紀前半)を、晩年の家斉が大御所となったことから後世には「大御所時代」と呼びます。
◆東海道中◆
◆膝栗毛◆
松平信明
定信の失脚時に家斉は20歳でしたが、父・治済は42歳の男盛りで、大御所にはなれませんでしたが幕政に隠然たる影響力を持ち続けました。天明7年(1787年)には自らの庶子・斉匡を田安家の養嗣子としており、家斉が薨去しようと治済の権力基盤は万全です。しかし治済は家斉ともども豪奢な生活に明け暮れ、自ら面倒な幕政にかかずらわろうとはしません。そこで定信に代わって老中首座とされたのが松平信明です。
信明は宝暦13年(1763年)の生まれで、徳川家康の家来・大河内秀綱の末裔です。大河内氏は清和源氏・源頼政の子孫を称し、三河国額田郡大河内郷を本貫地としました。承久の乱の後に三河守護となった足利氏に仕え、ついで足利氏の分家・吉良氏に仕えて家老や代官となりましたが、吉良氏が没落すると秀綱は家康の家臣となります。秀綱の次男は松平氏庶流・長沢松平家の養子となって松平正綱と称し、家康・秀忠・家光の三代に仕えました。
正綱は兄・大河内久綱の長男を養子として正永と名付けましたが、のち正綱に実子(利綱)が生まれると、正永は信綱と改名し、将軍家光に仕えて伊豆守に叙任されました。「知恵伊豆」として名高い老中・松平信綱です。信綱の子孫は大河原松平氏のうち伊豆守系として続き、信明は信綱の7代の後裔にあたります。明和7年(1770年)に父が逝去したため7歳で家督を継ぎ、安永6年(1777年)に元服して伊豆守に叙任されました。
天明4年(1784年)に奏者番、天明8年(1788年)に側用人・老中となり、定信とともに幕政改革に加わります。定信が失脚して老中首座となった寛政5年(1793年)には30歳でした。先祖にちなんで「小知恵伊豆」と呼ばれた知恵者でしたが年若いため、54歳の老中・太田資愛、53歳の老中格・本田忠籌、50歳の老中・安藤信成、42歳の若年寄並・加納久周、37歳の若年寄・堀田正敦、36歳の老中・戸田氏教らが脇を固めます。
信明政権は定信の文教振興策を受け継ぎ、寛政9年(1797年)には孔子を祀る湯島聖堂から学問所を切り離して昌平坂学問所(昌平黌)を設置、林家の私塾を廃止して、ここを幕府直轄の朱子学による教育機関としました。2年後の寛政11年(1799年)には荒廃していた湯島聖堂の改築も成ります。
同年には堀田正敦を責任者として、大名や旗本の系図集である『寛政重修諸家譜』の編纂が開始されます。これは150年前の『寛永諸家系図伝』、100年前の『藩翰譜』に続くもので、松平定信が寛政元年(1789年)に編纂を開始させた『藩翰譜続編』と並行して編纂が進められました。もとは『寛永諸家系図伝』の続編の予定でしたが、それでは不十分であるとして修正が加えられ(重修)、完成までに13年を要しました。幕臣と幕府の歴史的な関係が回顧され、幕藩体制の秩序が強化されることを企図したものです。
彼は定信の改革を発展させ、寛政2年(1790年)に2人目の子供の養育に金1両(現代日本円にして10万円相当)を支給すると定めたのを、寛政11年には2両に増額しています。翌寛政12年(1800年)には、定信が銀相場高騰=物価高騰を抑えるために天明8年(1788年)4月から停止させていた南鐐二朱の鋳造を再開しました。また意次・定信が行った公金貸付政策を拡大し、寛政12年時点で150万両(1500億円)、のち300万両(3000億円)に倍増させています。貸付金は年利1割の低利で、利息は福祉政策などの資金として活用されました。定信の緊縮政策により幕府財政は黒字化しており、備蓄金も20万両ほど貯蓄できていたため、財政基盤は健全でした。
なお信明は金銀貸借関係の訴訟(金公事)を幕府の評定所で処理せず、双方の示談で済ませることを命じた「相対済令」を発布しています。これは以前から何度か幕府により発布され、借金の踏み倒しは例外とされています。
蝦夷経営
18世紀中頃から蝦夷地(北海道)近辺にはロシア人が出没し始めました。彼らはカムチャツカ半島から千島(クリル)列島を南下し、蝦夷(アイヌ)を武力で服属させて毛皮などの貢税を課し、豊かで温暖な日本国とは食料などの交易を求めていました。田沼意次はオランダ通詞や蘭学者から情報を集め、蝦夷地に最上徳内らを派遣して調査させ、最終的には蝦夷地を松前藩から没収し、幕府の手で開発してロシアとの貿易を行おうと目論みましたが、天明の大飢饉や自らの失脚で中止となりました。
田沼意次が失脚し、松平定信が老中首座となった寛政元年(1789年)、蝦夷地東部のクナシリ(国後)場所とネモロ(根室)場所メナシ(目梨)地方で蝦夷(アイヌ)による大規模な和人(日本人)への反乱が勃発しました。これは当時の蝦夷地における経済的搾取に対するものでした。
蝦夷地との交易を統括する松前藩は、出先機関として蝦夷地に運上屋を設置し、家臣に知行として商場(場所)を管轄させていましたが、潤沢な資金を持つ近江商人らが進出して場所での交易権を買い取り(場所請負制)、松前藩に運上金を上納するシステムが18世紀初め頃から形成されていました。やがて日本国内での新田開発に伴い、肥料として蝦夷地の鰊粕が注目されると、商人たちはアイヌを重労働させて大量の鰊粕を安価に手に入れ、北前船を介して日本国内に流通させるようになります。
寛政元年5月、和人との商取引や労働条件に不満を募らせたクナシリ場所のアイヌが武装蜂起し、商人・商船を襲い和人を殺害しました。ネモロ場所メナシ地方のアイヌらもこれに呼応して和人商人を襲撃し、合計71人が殺害されます。この蜂起は現地アイヌの総意ではなく、乙名と呼ばれるアイヌのまとめ役(酋長・庄屋)らは松前藩と協力して降伏勧告や鎮圧にあたり、首謀者が処刑されて反乱はおさまります。
松前藩はクナシリ場所の交易を司っていた飛騨屋久兵衛に責任を負わせて罷免し、石狩・宗谷・増毛場所の交易を任されていた阿部屋・村山伝兵衛に東蝦夷地の交易実務を委任します。彼はアイヌへの救援物資を輸送して鎮撫し、斜里場所や樺太にも進出して商業圏を蝦夷地全域に広げ、当時の長者番付では大坂の鴻池善右衛門と並ぶ「東の横綱」とされるほどでした。
松平定信は「松前藩の監督不行き届きである」として蝦夷地の調査に乗り出し、寛政4年(1792年)のロシアの使節ラクスマンの根室来訪もあって、防衛力強化・北辺警固のために奔走します。定信失脚後は松平信明らがこれを引き継ぎ、寛政10年(1798年)には近藤重蔵・最上徳内ら大規模な調査隊を派遣して、択捉島南端に「大日本恵登呂府」の標柱を建てさせます。
寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を松前藩から仮上知(一時没収)し公儀御料(幕府直轄地)としました。松平忠明ら5名が蝦夷地御用掛(責任者)に任命され、場所請負制は廃止され、伝兵衛は幕府より蝦夷地御用掛の官用取扱方(財務長官)に任命されて交易を統轄します。ただ伝兵衛本人はすでに老齢であったため、同年に娘婿、2年後に孫へ家督を譲りました。
しかし阿部屋だけが蝦夷地の交易を独占したわけではありません。淡路出身の商人・高田屋嘉兵衛はこの頃に蝦夷地を訪れ、兵庫・酒田・函館を結ぶ交易を行っています。上方で酒・塩・木綿などを仕入れて北前船で日本海を北上し、出羽の酒田で米を仕入れ、函館でこれらを売って魚・昆布・魚肥などを買い入れ、上方に戻って売り払うという商売です。さらに近藤重蔵に協力し、国後島・択捉島間の航路を開いて択捉島を開拓、享和元年(1801年)には幕府から蝦夷地定雇船頭に任じられ、苗字帯刀を許されました。
伊能忠敬
寛政12年(1800年)には、伊能忠敬が幕府の許可を得て東蝦夷地の測量・地図作成を行っています。彼は上総国山辺郡小関村(現・千葉県山辺郡九十九里浜町小関)の名主・小関家の出身で、下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の酒造家・伊能家の婿養子となりました。佐原は利根川水運で栄えており、忠敬は名主(のち村方後見)として村民の保護につとめ、名望家として慕われました。伊能家の収益は安永3年(1774年)29歳の時に351両1分(3512.5万円)ほどであったのが、寛政5年(1793年)には1264両2分(1億2646万円)に達し、資産は寛政12年の時点で3万両(30億円)にも及んだといいます。
伊能家を建て直した忠敬は、寛政6年(1794年)に49歳で隠居し、翌年に江戸へ移住して31歳の天文学者・高橋至時に入門します。至時は幕府から新たな暦(寛政暦)の作成を命じられており、寛政9年(1797年)に改暦作業を終えましたが、京都の土御門家や陰陽頭、他の天文方との見解の相違から自らの理論を充分に活かせませんでした。彼は「暦をより正確なものにするには、子午線の長さや日本各地の緯度・経度を正確に知ることが必要だ」と唱え、忠敬はこれを受けて江戸黒江町の自宅と浅草の暦局の間の南北の距離を計測して緯度1分に相当するとしますが、至時は「それは近すぎて正確でない。江戸から蝦夷地ぐらいまでを計測しなければ」と発言します。
ちょうどこの頃、幕府は蝦夷地の調査を盛んに行っており、寛政11年には幕府天文方の堀田仁助に命じて東蝦夷地の測量と地図製作を行わせていました。至時はこれを知って幕府に蝦夷地の測量と地図製作を申し出、病気の自分に代わって弟子の忠敬を推薦します。幕府は元名主とはいえ百姓出身の忠敬をあまり信用していませんでしたが、至時の推薦ということで試験測量の許可を出し、1日あたり銀7匁5分(1両≒銀60匁≒10万円として1匁≒1667円とすれば1.25万円ほど)の手当を支給しました。
寛政12年(1800年)閏4月、55歳の忠敬は自宅から蝦夷地へ出発し、奥州街道を1日40kmのペースで徒歩で北上しながら歩幅で測量を行います。津軽半島最北端の三厩から船で松前半島に渡り、函館から東へ歩いて蝦夷地の南岸を測量し、釧路を経て厚岸、西別(別海町)まで到達します。しかし根室までは船便がなくて到達できず、来た道を引き返して10月には江戸まで帰還しました。この調査は往復半年=180日かかり、12月に地図を提出したのち幕府から手当として銀7匁5分の180日ぶん、金22両2分(225万円)を受け取ります。ただし忠敬は出発時に100両(1000万円)を自費で持参し、測量器具代として70両(700万円)を支払い、戻ってきた時は金1分(2.5万円)しか残らなかったといいます。
幕府若年寄の堀田正敦は、忠敬の作成した地図の正確さに驚きます。彼は忠敬の後妻の父・桑原隆朝を介して忠敬や至時を支援していた人物で、さっそく次の測量に取り掛かるよう命じました。今度は松前から西蝦夷地の調査を行う予定でしたが、最終的に伊豆西岸と銚子以北の本州東岸を測量することとなり、手当は1日10匁(1.67万円)とされます。さらに三厩から越後、駿河から尾張、北陸諸国の測量を次々と命じられ、文化元年(1804年)には『日本東半部沿海地図』を作成して将軍家斉に披露しました。同年に至時は逝去しますが、忠敬は苗字帯刀を許され、小普請組(下級幕臣待遇)で十人扶持の俸禄を与えられることとなります。
なお忠敬の第1回調査と同じ寛政12年には、幕府旗本の八王子千人同心の一部が蝦夷地南部のユウフツ(現・北海道苫小牧市勇払)へ開拓と警固のために派遣されており、手付農夫・皆川周太夫が蝦夷地南部の内陸交通路の実地踏査を命じられています。
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とはいえ一連の蝦夷地調査・開発事業は財政負担が大きく、幕府は非開発の方針に転換します。そして享和2年(1802年)に東蝦夷地を永久上知としたのち、蝦夷地御用掛を取りやめて蝦夷奉行(箱館奉行)を設置しました。さらにこの頃、老中権力を強化しようと図る松平信明と家斉・治済の間では軋轢が生じており、享和3年(1803年)末に信明は病気を理由に老中を辞職しました。後任の老中首座には戸田氏教が就任し、定信・信明の政策を継続していくこととなります。
◆蝦◆
◆夷◆
【続く】
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