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【つの版】ウマと人類史:中世編26・上天眷命

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1241年12月、モンゴル帝国第二代皇帝オゴデイ・カアンが崩御しました。各地の諸侯王は新たな君主を決めるクリルタイに参加するため、帝都カラコルムへ呼び集められます。

◆天◆

◆命◆

後継紛糾

 オゴデイには六人の妃がおり、七人の息子がいました。長男のグユクと次男のコデンは第六夫人ドレゲネの子で、三男のクチュは第一夫人ボラクチンの子でしたが、オゴデイはクチュが聡明なことから後継者に指名していました。しかし1236年にクチュが病死すると、オゴデイはクチュの子シレムンをオゴデイ家の跡継ぎに指名しました。ただシレムンはまだ若くて後ろ盾もなく、オゴデイが崩御すると後継者争いが起こりました。

 オゴデイの崩御に前後して皇兄チャガタイも薨去し、ボラクチンらオゴデイの妃たちも相次いで亡くなったため、生き残ったドレゲネが摂政・監国として帝国を預かる最高責任者となります。彼女はナイマン族の出身でメルキト族に嫁いでいましたが、チンギス・カンがメルキトを滅ぼした時に捕らえられ、オゴデイの妃となったといいます。

 チンギスの末弟テムゲはカラコルムへ向かい帝位を狙いますが、ドレゲネは「反乱である」と非難して牽制しました。彼女は宰相のチンカイヤラワチ耶律楚材らを退け、ペルシア出身のアブドゥッラフマーンに財政運営を委ねます。またシレムンを「成人に達していない」として後継候補から除外し、オゴデイ家の最年長者である我が子グユクを帝位につけようと画策し、クリルタイを招集したのです。

 西方遠征の総司令官であったバトゥは、グユクと遠征中に対立していたこともあり、これに強く反発します。そしてトゥルイ家のモンケと手を組んで彼を後継候補に擁立し、ドレゲネの呼びかけに応じませんでした。ハンガリーやポーランドからは撤退したものの、バトゥの領国はキプチャク草原を覆う巨大なもので、多数の兵力を擁していました。帝国各地の諸侯王もドレゲネの呼びかけに二の足を踏み、皇帝不在のまま五年が過ぎていきます。

西方騒乱

 この頃の西方を見てみましょう。チンギス・カンの大遠征ののち、モンゴル軍はホラーサーン(東イラン)に駐留していましたが、治安が極めて悪化していました。インドへ逃亡していたホラズム王子ジャラールッディーンは1223年にケルマーン(南西イラン)に現れ、イスファハーンを制圧して各地の反モンゴル派と手を組みます。1224-27年にはフーゼスターンを経てバグダードへ進軍し、イラク北部を経てアゼルバイジャンへ侵攻し、タブリーズを征服、南カフカースのキリスト教国ジョージア/グルジアを攻撃しました。アッバース朝のカリフは彼にペルシア王の称号を授けます。

 これに対し、トゥルイとオゴデイはチョルマグンを長とする辺境防衛軍タンマチを派遣し、ジャラールッディーンを討伐させます。ジャラールッディーンは1230年8月にルーム・セルジューク朝とエジプト・アイユーブ朝の連合軍と戦って大敗を喫した直後に、アゼルバイジャンでモンゴル軍の襲来を受けて撃ち破られました。1231年、彼は逃亡途中にクルド人に捕まって殺され、ホラズム・シャー朝は完全に滅亡したのです。

 チョルマグンの軍勢は、イラン総督チン・テムルによって後方支援を受けていました。彼は統治機構を整備して徴税を行い、モンゴルによるイランの支配を円滑ならしめ、彼が病死すると部下のウイグル人クルクズがイラン総督に任命されます。しかし彼はジョチ家をパトロンとしていたため、中央アジアを統治するチャガタイ家と対立し、オゴデイ崩御後の混乱時にチャガタイ家によって殺されてしまいます。後任のイラン総督にはドレゲネによりアルグン・アカが任命されました。また1241年初め頃にはチョルマグンも更迭され、バイジュがイラン駐留軍の総司令官となっています。

 1242-43年、バイジュはルーム・セルジューク朝に侵攻を開始し、1243年6月にはキョセ・ダグの戦いで勝利を収め、服属させました。これはバイジュの独断でしたが、モンゴル軍は莫大な戦利品と貢納を獲得し、アルメニアやジョージアなど周辺諸国も服属と貢納を誓うようになりました。アルグンはタブリーズに駐留して新たな征服地に統治機構を張り巡らせていきます。

 この頃、西ウクライナにはダニールが、ハンガリー王国にはベーラが帰還して、モンゴルによって蹂躙された国土を再建しつつ、互いに領土を巡って争っています。ベーラは娘婿ロスチスラフを支援しダニールと戦わせますが1245年に大敗を喫してハンガリーへ去りました。

 ジョチ・ウルスの総帥であるバトゥは、カスピ海の北、ヴォルガ河口部に首都サライを建設し、1243年にウラジーミル大公ヤロスラフを呼び寄せて「ルーシ諸侯の長老」に任命しています。モンゴルはルーシを直接には支配せず、代表者を選んで貢納を集めさせ、支払わなければ軍隊を派遣して処罰するという間接統治を行ったのです。ダニールも1246年にはバトゥに服属し貢納しています。

貴由登極

 ドレゲネ&グユクとバトゥ&モンケの対立は長く続きましたが、いつまでも帝位を空にしておくわけにもいきません。ドレゲネは様々な政治工作を行って、諸侯王を味方につけ、グユクの即位へ道筋をつけます。チャガタイ家はチャガタイの没後、嫡孫のカラ・フレグが当主となっていましたが、若年であったため叔父のイェス・モンケが当主の座を狙っていました。ドレゲネは彼を抱き込み、グユク派につくよう要請します。チャガタイ家はもともとバトゥらジョチ家とは対立し、オゴデイ家と友好関係にありますから、イェス・モンケは喜んでグユクの即位を後押ししました。

 その他の諸侯王も次第にグユク派に傾き、トゥルイ家の長モンケの母ソルコクタニ・ベキも一応グユクを立てることに同意します。1246年8月に開催されたココ・ナウルでのクリルタイにおいて、ようやくグユクが皇帝に選出されました。しかしバトゥはクリルタイに参加せず、オルダをはじめ他のジョチ家の諸侯王が出席しています。またグユクは父のように「カアン」を名乗らず、チンギスと同じく「カン」を帝号としています。

 このクリルタイには、モンゴル帝国のみならず世界中から王侯貴族や使節が訪れました。デリーからはインド・マムルーク朝のスルタンの使節、バグダードからはアッバース朝のカリフの使節、ファールスやケルマーンやアラムート、アイユーブ朝やモスル、アルメニアやジョージア、ルーム・セルジューク朝からは王や王子、ルーシからはウラジーミル大公ヤロスラフ2世が訪れています。さらにローマ教皇インノケンティウス4世からは、フランシスコ会修道士プラノ・カルピニのヨハネスらが派遣されています。

 彼はペルージャ近郊のピアン・デル・カルピネ村出身で、1245年に開催されたリヨン公会議により、ポーランドやハンガリーへの侵攻を非難する教皇の親書を託されてバトゥのもとへ派遣されました。同行したのはボヘミアの修道士ステファン、ポーランドの修道士ベネディクトだけで、護衛や召使いはいましたが、教皇使節としては少数です。彼らは東欧やキエフの惨状を視察しつつ東へ向かい、サライでバトゥに謁見しました。

 バトゥは書簡の内容を聴きましたが、「新たな皇帝が即位するから彼と交渉せよ」と告げてカラコルムへと送り出します。一行はカラコルムでの即位式に間に合い、グユクに会見して教皇の親書を手渡しました。このことは『集史』などモンゴル側の記録にもあり、史実です。グユクは内容を判読させて返書を渡し、帰還させましたが、この勅書はバチカンに現存します。

上天眷命

 原文はチャイナで発明された「紙」にアラビア文字で書かれ、内容は一部のテュルク語を除けばペルシア語で書かれており、ウイグル文字でモンゴル語が刻まれた玉璽が押されています。書面の末尾にはヒジュラ暦で紀年が書かれており、モンゴル帝国が発令した実物の勅書としては、碑文を除けば現存最古です。またこの勅書は発令直後にラテン語に翻訳されてもいますが、内容はペルシア語版とは少々違っています。

 ペルシア語版はこうです。

とこしえの天の力によりモンケ・テングリ・クチュンド
大いなる国全体の海内のカンキュル・ウルグ・ウルス・ヌン・タルイ・ヌン・カンわれらの聖旨ヤルリグ・イミズ
 これは、キリスト教徒frstadh大パパ/教皇papa'klanのもとに、承知し、理解するように届ける命令である。(汝らは)協議を行い、服属の請願を届けてきた。これは、汝らの使節より聞いた。しかして、もし自らの言葉に忠実であるならば、大パパたる汝は、もろもろの国王たちと共に、親しく我らのもとに伺候すべきである。ヤサ法令にある、あらゆる勅令をその際に聞かせよう。また、汝は、朕をキリスト教(frstady)に入れる(改宗させる)、それがよい、と言っている。汝は自ら賢ぶっている。汝は願い出てきたが、その願い出は我らには解らない。
 また、汝は「あなた方は、マジャル人(majr)とキリスト教徒(krstan)の地域をことごとく奪った。驚いている。彼らに何の罪があるのか、私に言って欲しい」と申し出てきた。汝のこの言葉も理解することが出来ない。チンギス・カンも(父であるオゴデイ・)カアンも、二人とも、神(アッラーフ/テングリ)の命令を聞かせようとして送り届けたが、彼らは神の命令を信じなかった。汝の言葉と同様に、彼らもまた尊大であった。彼らは傲慢に振る舞って、我らの使節を殺した。(そこで)彼らの地方や住民を、昔からの神が殺し、滅ぼしたのだ。神の命令によらないで、人はどうして自分の力で殺し、どうして捕らえられようか。
 また汝は次のように言っている。「私はキリスト教徒であり、神を崇め、他の人を蔑む」と。汝は、神が誰を許し、誰に恵みを施すかを、どのようにして知るのか。汝は、誰がこのような言葉を口にするのかを、どのようにして知るのか。神の力により、日の昇るところから日の沈むところまで、(神は)すべての領域を我らに委ねた。我らは(それを)保持している。神の命令によらずに、人はどのようにして(そのようなことが)できようか。今や、汝は誠意を込めて「服属します、お仕えします」というべきである。汝自身、国王たちの先頭に立ち、ともども一つになって、我らのもとへ臣従の礼に出頭すべきである。汝の服属は、その時に確認しよう。
 もし、神の命令を認めず、我らの命令に背いたならば、我らは汝を敵とみなそう。このように汝に知らせる。もし従わなかったならば、それについて我らは何を知っていようか。神(だけ)がご存知である。(ヒジュラ暦)644年、ジュマーダー=ル=アーヒラ月の最後の日(西暦1246年11月11日)。

 ケレイトもナイマンもオングトもネストリウス派のキリスト教徒でしたから、キリスト教についてはモンゴルは古くから知っています。イスラム教も仏教も、マニ教もゾロアスター教も知っていますが、モンゴルの古今未曾有の拡大はテングリによる命令、天命であると宣言しているのです。ゆえにモンゴル帝国の勅令の冒頭には「永遠なる天の力によりモンケ・テングリ・イン・クチュンドル」なる語句が置かれます。漢文献では「長生天底気力裏」「上天眷命」などと訳されます。概念的に一神教の神(ヤハウェ/アッラーフ)が近いため、テングリはアッラーフと習合しています。

 一方、ラテン語版ではこうです。

 神の力により、万人の皇帝が、大教皇に確かな本物の書簡を(届ける)。
 教皇たるあなたと全てのキリスト教徒は、我々と和平しようと協議した後、使節を我々に派遣した。使節自身より聞き、かつ書簡にもある通りである。そこでもし我々と和平しようと望むのであれば、教皇たるあなたと、あらゆる国王と有力者は、和平を確立するために、決して遅延することなく、我々のもとへ来るように。その際、我々の回答と意向を聞かせよう。あなたの書簡の内容に「あなたは洗礼を受けてキリスト教徒になりなさい」との一節が含まれている。これについて、一言あなたに答える。「どのようにしてそのことを行うべきか解らない」と。
 あなたの書簡には、ほかに住民、特にキリスト教徒、わけてもポーランド人、モラヴィア人、ハンガリー人の大量殺戮にあなたが驚いている旨が記されているが、我々はあなたに「この件についてもまた解らない」と答える。ただし、この件について全く沈黙して、避けて通ったと思われないように、あなたに次のように答える。「彼らは神の文書と、チンギス・カンと(オゴデイ・)カアンの命令に従わず、大いなる会議を開いた末、使節を殺害した。そのために、神は彼らを討滅するように命令を下し、(その実行を)我らの手に委ねられた」と。もし神がそのように命令を下さなかったのであれば、人は他の人に対して何をすることができようか。
 さらに、あなたたち西方の人々は、ただ自分のみキリスト教徒であると信じ、他の人々を蔑んでいる。しかし神が恩寵を誰に垂れようとしているか、このことをあなたはどのようにして知ることができるのか。さらに、我々は神を敬い、神の力により、東から西に至るまで、全地上を滅ぼした。もしこれが神の力によるのでなければ、人は何をすることができようか。また、もしあなたが和平を容れ、我らに自分の軍隊を引き渡そうとするのであれば、教皇であるあなたは有力なキリスト教徒とともに、和平を結ぶために、決して遅れることのないように、我らのもとに来なければならない。その時我らは、あなたたちが我らと和平しようとしていることを確認する。
 けれども、もし我らの神の文書に信をおかず、我らのもとに来るようにという忠告に耳を傾けないのであれば、その時は間違いなく、あなたたちが我らと戦おうとしていることを確認する。その後に何が起こるか我らには解らない。神のみがご存知である。チンギス・カンは初代皇帝、第二代はオゴデイ・カアン、第三代はグユク・カン。

 ペルシア語版よりややマイルドになっていますが、教皇に対して「お前が我らのもとへ来い」と呼びつけていることは変わりません。怒った教皇はカルピニらを叱責し、和平交渉は失敗に終わりました。時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がこれを聞いたら大笑いしたでしょうか。

 ローマ教皇は、ローマ・カトリック世界ではキリストの代理人として権威を振るっていましたが、外から見れば「フランク人やマジャル人、ポーランド人などの取りまとめ役で、キリスト教という宗教の聖職者の長と称し、大パパという称号を持つ」というに過ぎません。カトリック世界/フランク人はこの頃には東ローマ帝国を滅ぼしてラテン帝国(フランク人によるロマニア王国)とし、シリアやパレスチナに十字軍国家群を建設するなど大きく勢力を伸ばしていましたが、ユーラシア大陸に君臨する広大なモンゴル帝国から見れば大したことはありません。格下に見られても仕方ないでしょう。

 カルピニは、東方に存在するというキリスト教徒の王「長老ヨハネ」についても報告しています。もとは12世紀に西遼がセルジューク朝を破ったことが伝説化したものですが、1219年にチンギス・カンがホラズム・シャー朝に攻め込んだ時、ネストリウス派キリスト教徒は「長老ヨハネの孫ダビデがイスラム教徒に勝利を収め、シリアとエジプトのキリスト教徒を救いに来る」と喧伝しました。これを聞いた十字軍国家のフランク人たちは喜んだといいます。しかしモンゴル帝国はキリスト教国も蹂躙したため、期待は下火になりました。カルピニは「大インドの王である長老ヨハネがタルタル人(モンゴル人)の軍隊を破った」と報告していますが、これはインドから戻ってきてモンゴル軍と戦ったジャラールッディーンのことともいいます。彼はすでに死んでいますが、生存の噂があったようです。長老ヨハネ伝説はその後も一人歩きを続けました。

 ともあれ、モンゴル帝国第三代皇帝としてオゴデイの長男グユク・カンが即位しました。安心したドレゲネは10月に亡くなりますが、帝国西方には反グユク派のバトゥが健在です。この先どうなるでしょうか。

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【続く】

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