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【つの版】日本刀備忘録37:鈴鹿御前

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。

◆鈴◆

◆鹿◆


鈴鹿御前

 1370年頃に編纂された軍記物語『太平記』にも、坂上田村麻呂伝説が垣間見えます。例の源氏重代の宝剣「鬼切(鬚切)」について、『平治物語』では奥州の住人・文寿の作とし、『源平盛衰記』では異国の鍛冶の作としますが、『太平記』では伯耆国の鍛冶・安綱の作とします。彼はこれを田村将軍に奉りましたが、将軍はこれを用いて伊勢国の鈴鹿山に向かい、「鈴鹿の御前」なる者と「剣合」をしたといいます。のち将軍は伊勢神宮へ参詣した時に夢のお告げにより剣を奉納し、時を経て源頼光に授けられたといいます。

 鈴鹿山とは、北は関ヶ原南端の霊仙山から、南は鈴鹿峠(古くは鈴鹿関)に至る山脈です。畿内(奈良盆地)と伊勢を繋ぐ道を抑える古来の要衝で、飛鳥時代や奈良時代には伊賀・加太を通り亀山市関宿に抜ける「加太越え」が通常のルートでしたが、都が北の山城国に移ると近江から甲賀を経て伊勢へ進む北寄りの新道(阿須波道)が切り開かれ、以後東海道の本線として機能しました。しかし険阻で交通量も多いため、昔から盗賊の巣窟でした。『今昔物語集』には鈴鹿峠で水銀(丹)の商人が盗賊に襲われた話があり、『御成敗式目』追加法でも大江山と並んで盗賊がいると明記されています。

 都から伊勢へ向かう人々のうち、特に高貴な存在が斎宮(斎王)です。未婚の内親王か女王(皇族の女性)から選ばれ、伊勢神宮に奉仕する巫女で、数年間の斎戒ののち京都を出発し、近江・鈴鹿を経て伊勢に入ります。道中鈴鹿関や鈴鹿峠に頓宮(仮の御座所)が置かれ禊祓の儀式が行われました。このため鈴鹿は神秘的な山中の異空間として和歌にも多く読まれています。

 また坂上田村麻呂が薨去した翌年の弘仁3年(812年)には、嵯峨天皇の勅によって彼を祀る祭壇が鈴鹿峠の二子の峰に設けられています。弘仁13年(822年)には高座大明神の傍にこの祭壇を移して「高座田村大明神」と称しました。東夷を征伐した護国の軍神・田村麻呂が畿内の東の鈴鹿関に祀られることは理にかなっていますが、これには別の歴史的背景もあります。

 桓武天皇が崩御した後、皇太子の安殿親王が即位し(平城天皇)、弟の神野親王(嵯峨天皇)は皇太弟となりました。しかし平城天皇は病弱で子らも幼く、在位4年で退位して太上天皇(上皇)となります。上皇は旧都・平城京へ遷りますが、側近の藤原仲成、その妹の薬子は上皇の名で詔勅を発し、平安京から平城京に都を戻すと宣言します。嵯峨天皇は仲成らの謀反として追討を命じ、坂上田村麻呂らに美濃・近江・伊勢の関を封鎖させました。上皇らは東国へ赴いて挙兵しようと図りますが官軍に阻まれ、仲成は捕縛・射殺され、薬子は服毒し、上皇は出家して変は収まりました。その翌年に田村麻呂は薨じています。彼が直接仲成を討伐したわけではありませんが、平城京と東国の間の鈴鹿関・鈴鹿峠に田村麻呂が祀られる由縁はあるわけです。では、彼と戦ったとされる「鈴鹿の御前」とは何者でしょうか。

立烏帽子

 治承3年(1179年)頃に編纂された仏教説話集『宝物集』によると、かつて「スゝカ山ノタチエホウシ(立烏帽子)」という盗人がおり、奈良坂のカナツブテ、ヒタカノ禅師、海之羊ミナトといった盗人とともに手や首を切られて処刑されたといいます。また承久の乱の頃に成立した『保元物語』では伊賀国の住人の山田小三郎是行(伊行・維行)が源為朝に挑んだ時、「昔、鈴鹿山の立烏帽子搦め取りて、帝王の見参に入れたりし、山田庄司行秀が後胤、伊賀国住人山田小太郎惟重が嫡子、小三郎惟行とは、己が事にて候ふ」と名乗っています(版によっては立烏帽子云々はないようですが)。

 また建長6年(1254年)成立の『古今著聞集』によると、平清盛の娘婿の藤原隆房が検非違使別当であった頃(1183-91年)、強盗を囚えてみると27-8歳の見目麗しい女官であったことに驚き、「昔こそ鈴香(鈴鹿)山の女盗人とて言い伝えたるに」と発言しています。宝物集や保元物語には立烏帽子が女だとは書かれていませんが、これと結びつけられて女盗賊だとされるようになっていきます。また『弘長元年(1261年)十二月九日公卿勅使記』には、鈴鹿山の西山口の加治□坂を「凶徒の立つところ」とし、「昔立烏帽子がいたところである。路頭の北辺に神社があり、鈴鹿姫を祀る。件の立烏帽子はこの神社を崇敬していた」と記されています。

 延文(1356-61年)から応安(1368-75年)頃に成立した『異制庭訓往来』では「本朝の強盗の張本」として藤原保輔とともに「鈴鹿山の立烏帽子」が記されています。やがてこれらの伝説が混ざり合い、太平記が編纂された頃に「鈴鹿の御前」なる存在が生まれたのでしょう。南北朝時代には戦乱もあって伊勢への斎宮の下向は途絶えますが、鈴鹿峠を通る旅人は絶えることはなく、それを狙う盗賊がはびこることも変わりませんでした。

 応永25年(1418年)、足利義持は伊勢参宮を行い鈴鹿山を通りますが、これに随行した花山院長親の『耕雲紀行』にこうあります。「昔、勇力を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、身につけていた立烏帽子を山に投げ上げた。これがとなって残り、今では麓に社を建てて巫女が祀るという」。これは太平記にある田村将軍と鈴鹿御前の対決の異説で、「立烏帽子」はここでは盗賊の名ではなく鈴鹿姫が被っており、石と化して祀られるようになったとされます。

 応永31年(1424年)の『室町殿伊勢参宮記』にも「鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてえぼしの名石の根元もふしぎにおぼえ侍て(歌を詠み)、すずかひめ/おもき罪をば/あらためて/かたみの石も/神となるめり」とあります。

 鈴鹿峠の伊勢側、三重県亀山市関町坂下には片山神社があり、鈴鹿姫を祀るといいます。社伝によれば、もと鈴鹿峠東側の三子山(鈴鹿・武名・高幡の三嶽)を神体としていましたが、火災により鈴鹿頓宮古宮に遷り、永仁2年(1294年)に現社地に遷座しました。この過程で初代斎宮の倭姫命を祀る鈴鹿社、坂上田村麻呂らを取り込み、坂下宿の氏神となったといいます。この片山神社の北に「鏡岩」と呼ばれる巨岩があり、これが「立烏帽子」の岩とされます。

 推察するに、鈴鹿峠にはもともと峠の安全を守る神として磐座信仰があったのでしょう。そこを斎宮一行が通過・宿泊して儀礼を行うなどしたため、次第に鈴鹿峠の神は斎宮のイメージが投影されてか女神となり(山の神は女神が多いですが)、護国の軍神・田村麻呂と男女一対の守護神(塞の神/道祖神)となったものと思われます。鈴鹿峠の坂下に鈴鹿姫、「坂上」に田村麻呂が祀られたのも示唆的です。イザナギを黄泉国で追跡し、大岩で道を塞がれたイザナミも道敷神と呼ばれますね。

 こうした背景から、室町時代には能の『田村』、幸若舞の『未来記』、御伽草子の『鈴鹿の物語』『立烏帽子』『田村の草子』が作られ、田村の物語(田村語り)として流布しました。文明18年(1486年)に記された『壬生家文書』中の「坂上田村麻呂勘文」には御伽草子『鈴鹿の物語』がすでに見えます。おおよその話は太平記が編纂された頃にはすでに出来上がっていたのでしょう。しかし田村麻呂が藤原利仁と融合したり、架空の系譜が作り出されて再び分裂したり、もはや史実からは相当に乖離しています。これは少々長くなりますので、ひとまず次回にまわすことにしましょう。

◆鈴◆

◆鹿◆

【続く】

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三宅つの
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