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【つの版】日本刀備忘録43:万人恐怖

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 足利幕府第4代将軍・義持が応永35年(1428年)に没すると、幕閣たちの協議の末、くじ引きによって義持の同母弟の義円が後継者に選ばれ、出家の身であったため還俗させられて征夷大将軍となります(足利義教)。しかし鎌倉公方の足利持氏はこれを認めず、関東で不穏な動きを見せます。

◆室町◆

◆無頼◆


足利義教

 足利義教は、自らの政治の手本を父・義満に求め、永享3年(1431年)に義持がいた三条坊門第から義満のいた室町第(花の御所)に移り、当時の儀礼などの復興を行いました。ただ「治天の君」たる後小松院との関係は疎遠で、永享元年(1429年)10月に院が出家しようとした際には義教に事前の相談がなかったとして2年間先延ばしされています。永享5年(1433年)に後小松院が崩御すると、義教は後花園天皇とその実父・伏見宮貞成親王(道欽入道親王)との関係を強化し、後花園天皇は以後30年間親政を行いました。

 後小松院の崩御とともに院政も治天の君も自然消滅しました。道欽入道親王は永享7年(1435年)に伏見御所を造営して移住し、義教からも目上として敬意を払われ、20年あまり生き続けて事実上の太上天皇(法皇)となりますが、自らは帝位につかなかったこともあり、のちに太上天皇の尊号を奉られるとこれを辞退しています。なお南朝側の北畠満雅らは「明徳の和約に違反した」と称して正長2年(1429年)に反乱を起こしますが敗死しました。

 幕府においては管領や守護大名の権限を抑制し、身分や家柄が固定され形骸化した評定衆や引付衆に代わり、自らが主宰して参加者を指名する御前会議「御前沙汰」を協議機関としました。また訴訟(沙汰)を自らの権限で処理することを好み、自分が神前でのくじ引きで将軍になったことを神意(王権神授説)と考えたこともあってか、境界や朝廷の問題に対してくじ引きや湯起請(盟神探湯)などの神明裁判を多用しています。

 軍事面では将軍直轄の奉行衆を再編・強化し、有力守護への軍事力依存を改めようとしたほか、軍勢催促や戦功褒賞では将軍の御内書と並行して管領奉書を用い、増加する軍事指揮行動に管領を引き込みます。また鎌倉公方の足利持氏が永享の元号を用いず、鎌倉五山の住職を勝手に決定するなど将軍を無視した行動をとったため、持氏討伐を試みました。

 これは関東管領の反対により断念しますが、代わりに周防・長門・豊前守護で筑前代官の大内盛見に命じて少弐氏・大友氏ら反抗勢力と戦わせます。しかし盛見は永享3年に筑前で戦死し、甥の持世が家督を継ぎます。持世の弟・持盛は盛見の甥・満世と手を組んで持世に逆らいますが、持世は義教の支持を受けてこれらを打倒、九州平定を進めていくことになります。

 永享4年(1432年)には義持が中断していた日明貿易を再開し、兵庫港を訪れて自ら遣明船を視察し、義満の時のように莫大な利益をもたらします。同年9月には大勢の家来を率いて義満と同じく駿河国へ富士山の遊覧に向かい、駿府で駿河守護・今川範政の接待を受けています。伊豆から東は鎌倉公方の管轄範囲になるため入りませんでしたが、このことは内外に義教こそが義満・義持に続く天下人であることを強くアピールしました。

万人恐怖

 義教は還俗前は青蓮院の門跡で、一時は天台座主(延暦寺の住職)の地位にありました。この頃の天台座主は義満の甥・持弁でしたが、義教は弟の梶井門跡義承を天台座主の位につけ、延暦寺勢力の取り込みを図ります。ところが延暦寺は永享5年(1433年)に幕府の山門(延暦寺)奉行・飯尾為種、幕府派の僧侶・光聚院猷秀らの不正を弾劾する訴訟を行い、幕府による掣肘に歯向かいます。義教は腹を立てますが、管領・細川持之や三宝院門跡・准三后の満済らが融和策を唱えたため、為種・猷秀らを配流します。

 しかし延暦寺は調子に乗り、訴訟に同調しなかった園城寺(三井寺、寺門)を焼き討ちしたため、怒った義教は自ら兵を率いて園城寺に向かい、寺門派とともに比叡山を包囲します。12月に延暦寺は降伏して和睦しますが、翌永享6年(1434年)には「延暦寺が鎌倉公方と通謀して将軍を呪詛している」との噂が流れます。義教はただちに近江守護らに命じて近江国内の延暦寺領を制圧させ、物資の流入を阻んだうえ、諸将を派遣して攻撃しました。

 追い詰められた延暦寺側は降伏を申し入れ、管領ら幕府宿老の赦免要請もあり、義教はようやく和睦を承諾します。しかし翌永享7年には延暦寺側の使節4人を斬首したため、延暦寺側は怒って根本中堂に火をかけ、24人が焼身入定するに及びます。この炎は京都からも見え、世情は騒然としますが、義教は「比叡山について噂する者は斬罪に処す」と命じ、実際に商人を斬首して混乱を鎮め、義承を改めて天台座主に任じて延暦寺を制圧しました。

 道欽入道親王は『看聞日記』で義教が商人を斬首した件について触れ、「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」と書き残しました。この言葉は義教が暴君で、恐怖政治・独裁政治が行われていたことを象徴するものとして良く知られています。実際彼は猜疑心が強くて怒りっぽい人物だったらしく、これ以前からささいなことで人を処罰・処刑することが多々あったと同時代記録に数多く残されています。庶民や侍女は言うに及ばず、家来の武士や神官・僧侶、公卿や皇族も彼の怒りと処罰を被りました。

 側室の日野重子の兄・義資は特に嫌われており、所領没収のうえ蟄居を命じられ、妹が義教の嫡男を生んだ時に彼の邸宅を訪れた祝いの客も全員処罰されています。のち彼が何者かに暗殺されると義教の手下の仕業との噂が流れますが、この噂を流した参議・高倉永藤は硫黄島へ流刑に処されました。また晩年の世阿弥は永享6年(1434年)に佐渡へ流されています。

 管領の畠山満家斯波義淳、黒衣の宰相と呼ばれた満済らは義教をしばしば諌めて掣肘し、内外の融和につとめていましたが、永享5年から7年にかけて彼らが相次いで没すると、義教を止められる人間はいなくなります。

永享之乱

 この頃、関東管領の位にあった上杉憲実は、鎌倉公方の足利持氏の暴走を制止しつつ幕府との融和につとめていました。永享8年(1436年)に信濃守護の小笠原政康と北信濃の豪族・村上頼清が領地を巡って争うと、頼清は持氏に支援を求めますが、憲実は「信濃は幕府の分国で、鎌倉公方・関東管領の管轄外である」として持氏の出兵を阻止します。持氏はこのことで憲実を恨み、翌年には信濃へ再出兵を目論むとともに、憲実誅伐を計画しました。

 持氏と憲実は会談を行いましたが物別れとなり、憲実は相模国藤沢に下ったのち嫡子を上野へ逃して鎌倉に入り、関東管領の職を辞任すると申し出ます。持氏の引き止めにより一時復職したものの、関東管領が守護職をつとめる武蔵国の文書への署名を拒否し、両者の確執は解消されませんでした。持氏は上杉定頼憲直ら上杉氏傍流を重んじ、憲実との対立を深めます。

 永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子・賢王丸が元服すると、憲実は慣例に従い将軍から諱に一字拝領を賜る(偏諱)よう進言します。初代鎌倉公方の基氏は父・尊氏から「氏」の一字を拝領し、氏満・満兼は義満から「満」の字を、持氏が義持から「持」の字を拝領していますが、足利将軍家は尊氏の子・義詮以来「義」の一字を継承(通字)しており、鎌倉公方は将軍の諱の二文字目を拝領して臣従の証とするのが習わしでした。現在の将軍は義教ですから「教」の一字を拝領し、「教氏」とでも名乗らせるところです。

 ところが義教の将軍即位が気に食わない持氏は、これを無視して賢王丸を勝手に鶴岡八幡宮で元服させて「義久」と名乗らせたうえ、源義家に擬して「八幡太郎」の通称を与えました。無断で将軍家の通字を用いたことは、持氏が息子の将軍就任を望んだためと思われます。憲実はこれを承認するわけにもいかず、元服式に参加せず鎌倉を出奔、領国の上野に入りました。持氏は憲実を討伐するため近臣の一色直兼に兵を授けて派遣し、自らも武蔵府中に布陣します。憲実はついに幕府へ救援を求め、義教は持氏討伐を布告しました。鎌倉公方と室町幕府の全面衝突「永享の乱」の始まりです。

 義教は信濃守護の小笠原政康、駿河守護の今川範忠、持氏の叔父で陸奥篠川にいた足利満直に憲実の救援を命じます。また越前・尾張・遠江守護の斯波義健の家来である斯波持種甲斐常治朝倉教景を関東に派遣し、上杉禅秀の子らを含む幕府軍を出陣させました。さらに義教は後花園天皇に対して治罰綸旨発給と錦の御旗を要請し、朝廷・官軍の権威をもって威圧します。

 この頃、京都の南の大和でも反乱が勃発しています。大和では以前から興福寺の衆徒らが北朝側(筒井氏)と南朝側(越智氏・箸尾氏)に分かれて対立していましたが、幕府は当然北朝側を支援したものの、南朝側の抵抗は激しく、しばしば幕府軍が敗れていました。義教の異母弟で大覚寺門跡の義昭は、義教に「大覚寺統=南朝と通じているのでは」と猜疑心を抱かれて恐怖し、永享9年に逐電しました。翌年義教は「義昭が南朝と組んで挙兵した」と喧伝し、後花園天皇に同じく治罰綸旨発給と錦の御旗を要請し討伐を行わせています。もっとも義昭がこの反乱に関与していたかは疑わしく、阿波・土佐を経て日向国まで逃げ延び、後に自害に追い込まれました。

 持氏は幕府軍を迎撃するため箱根に出陣し、鎌倉の留守を相模三浦氏の当主・三浦時高に任せます。しかし幕府軍は各地で持氏軍を散々に打ち破り、形勢不利と見た時高は幕府の誘いに応じて寝返ります。追い詰められた持氏は11月に幕府軍に降伏して出家し、憲実は持氏の助命と義久の鎌倉公方就任を嘆願しますが、義教は許さず重ねて討伐を命じました。永享11年(1439年)2月、憲実はやむなく持氏らを包囲し、持氏・義久らは自害に追い込まれます。ここに4代90年続いた鎌倉公方は断絶することとなりました。

◆室町◆

◆無頼◆

【続く】

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三宅つの
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