【つの版】度量衡比較・貨幣20
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
ノルマン人による盛んな交易や戦争、掠奪によって、ヨーロッパの経済は活性化し、商業が盛んになります。そして11世紀末に始まる十字軍運動によって、西欧経済は大いに沸き立つことになりました。
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東羅馬国
十字軍運動の発端は、東ローマ帝国が西欧へ傭兵を求めたことによるものでした。それまでの東ローマはどうしていたのでしょうか。
7世紀中頃から8世紀初めにかけて、東ローマはイスラム帝国と死闘を繰り広げ、二度までも帝都コンスタンティノポリスを包囲されます。地の利とブルガリア、ハザールなどの支援によって持ちこたえたものの、ヨーロッパ側の領土はブルガリアにほとんど征服され、東ローマに残ったのはアナトリアと帝都周辺、ギリシア南部や南イタリア、シチリアなどだけでした。
西暦800年にローマ司教がフランク王カールをローマ皇帝に擁立したのは、このような東ローマの衰退によるものです。9世紀にはシチリアもイスラム勢力に征服されました。ソリドゥス/ノミスマ金貨はなお高い純度を保って発行されていますが、国力の低下は覆うべくもありません。
しかし、東ローマはフランク王国よりも遥かに文明的な先進国でした。9世紀前半のミカエル3世の時代、帝国の歳入は330万ソリドゥス(1ソリドゥス/S=15万円として4950億円)にも及び、うち農民からの土地税が112.5万S(1687.5億円)、世帯ごとに課されるかまど税が125万S(1875億円)と大半を占めます。当時の推定人口は1000万人で、1戸5人として250万戸、1戸から1Sずつ(世帯年収20Sの1/20)集めれば250万Sです。他は付加税や商業税、皇帝直轄地からの収入や官営工場からの収益などです。税は役人たちが各地から取り立て、帝都へ集めて来る仕組みが古くから確立されており、皇帝が租税を集めるために地方へでかけていく必要もありませんでした。
歳出は284万S(4260億円)で46万S(690億円)もの剰余金があります。歳出のうち軍事費が228.8万S(3432億円)と8割を占め、うち地方軍(テマ)の給料が113万S(1695億円)、海軍の漕手の給料が54万S(810億円)、中央軍(タグマ)の給料が32.7万S(490.5億円)、遠征費用12.5万S(187.5億円)などとなっています。テマの兵力10万とみて、1695億円では兵士1人の平均年給が169.5万円でしかありませんが、テマ兵は家族と農業を行って自前で食い扶持程度は稼いでいたため、給与は半分で済みます。
テマの一般兵士が月給1-1.5S(15万-22.5万円)、年給12-18S(180万-270万円)。階級が上がれば給与も上がり、十人隊長は72S(1080万円)、五十人隊長や海兵は144S(2160万円)、大隊長が216S(3240万円)、騎兵は288S(4320万円、地代収入)。将軍/提督(ストラテゴス)は5階級あって最下級でも360S(5400万円)。1階級あがるごとに給与は倍増し、最上級で年収2880S(4.32億円)にも達します。なんたる年収壮大さでしょうか。
これに対して、文官の給与総額は45.2S(678億円)でしかありません。うち属州の農民に対する徴税官吏への給与が25万S(375億円)で半分以上を占め、中央官庁の人員は600人余で給与5.7万S(85.5億円)、平均年収は95S(1425万円)程度です。まあまあの金額ですが、テマの五十人隊長よりも少ないのです。東ローマ帝国は官僚大国というイメージが強いとはいえ、宋と同じく軍事費が歳出の大部分を占める国家であったのです。
9世紀後半から10世紀にかけて、東ローマはマケドニア王朝のもとで中興し、中世における最盛期を迎えます。885年には南イタリアを再征服し、イスラム帝国の分裂に乗じて東方へも勢力を広げ、アルメニア東部やシリア北部を奪還、北はキエフ・ルーシと結んでマジャル人やブルガリアを牽制し、ついにはブルガリアを打ち破ってバルカン半島を征服します。
11世紀初め、東ローマ帝国は皇帝バシレイオス2世のもとアルメニアから南イタリアに及ぶ大国となりました。バシレイオスは大土地所有を制限して皇帝権力を強め、緊縮財政をとって国庫の貯蓄を増やす一方、農民兵に頼らず屈強な傭兵をカネで雇って軍事力としています。特にキエフ・ルーシからやってくるヴァリャーグ(ヴァイキング)たちは皇帝の親衛隊にすら取り立てられました。しかしこの時代を頂点として、東ローマ帝国は再び衰退していくことになります。
東羅衰弱
きっかけの一つは、11世紀前半に南イタリアで起きた反乱でした。聖地巡礼がてら傭兵先を探していたノルマン人たちがこれに加わり、次第に勢力を広げていきます。ローマ教皇は神聖ローマや東ローマ、イスラム勢力との争いに備えて彼らを手懐け、正式に封地と爵位を与えました。
東ローマではバシレイオスの崩御後に暗君や幼帝、女帝が続き、国政が混乱していました。中央集権のために文官貴族や傭兵団が優遇され、軍事貴族や農民たちは圧迫されて不満を抱くようになり、反乱や暴動が頻発します。西方ではノルマン人が南イタリアやシチリアで暴れまわり、北方ではブルガリア人が反乱を起こし、騎馬遊牧民のペチェネグやキプチャク(クマン)も襲来します。東方からはテュルク系オグズ族がイスラム化したセルジューク朝が攻め寄せ、1071年に東ローマ軍を打ち破ってアナトリアに侵入します。
皇帝ロマノス4世は捕虜となり、同年には南イタリアにおける最後の拠点バーリもノルマン人に奪われ、帝国は大混乱に陥ります。財政悪化に伴って金貨の純度は低下し、この頃には5割を切っていました。信用を失った金貨の代わりに、軍事貴族たちは軍事奉仕の見返りとして大土地所有を認められ、プロノイア制が始まります。プロノイアとは予想・配慮の意で、その土地から予想される収入を意味し、同時代の日本の武家の所領、西欧の騎士の封土、イスラム世界のイクターなどに相当します。
皇帝は大土地所有者への課税ができなくなり、自らの直轄地からの税収で国家財政を賄わざるを得なくなります。直轄地には重税が課され、農民は逃亡や反乱を起こし、帝室経済は赤字続きとなります。
1092年、皇帝アレクシオスは、純度がゼロまで下がったソリドゥス金貨を廃止し、新たな金貨ヒュペルピュロン(「非常に精錬されたもの」の意)を発行しました。重量は4.45gあり、古い貨幣を再利用したため24金ではなく20.5金でしたが、当時としては充分な価値を持ちます。1ヒュペルピュロンは3エレクトロン(金銀合金)トラケア貨、48ビロン(銀銅合金)トラケア貨、864テタルテロン銅貨と等価とされますが、次第にこれらの価値も減少していきます。また形状も円盤型ではなく、お椀のように中央がへこんだ形になり、軽く薄くなっていきました。
かくも衰えたりとはいえ、東ローマ帝国はなおも莫大な富を所有し、セルジューク朝などの外敵に対抗していました。1092年にセルジューク朝の宰相ニザームルムルクが暗殺され、まもなくスルタンのマリク・シャーも逝去すると、後継者争いでセルジューク朝は混乱します。アレクシオスはこれに乗じて東方領土の回復を図り、南のファーティマ朝と手を組むとともに、西欧諸国へ「聖地奪還」のための傭兵を送るよう打診します。
ヴァリャーグやノルマン人など多くの外国人傭兵を抱えていたアレクシオスにとってはいつものことでしたが、西欧諸国では必要以上の反応が引き起こされ、熱狂的な十字軍運動が始まることになるのです。
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【続く】
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