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【つの版】度量衡比較・貨幣37

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 モンゴル帝国の諸ウルスはジョチ・ウルスを除いて14世紀中頃に崩壊し始め、宗主たる大元ウルスも1368年に明朝に敗れてモンゴル高原へ撤退しました。明朝は元朝の制度を引き継ぎつつ、新たな貨幣を発行します。

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大明宝鈔

 1361年、呉国公を称していた朱元璋は、応天府に宝源局を設立して大中通宝という銅銭を発行しました。前年に西の漢王・陳友諒を撃退した記念と思われますが、のち江西を併合するとここに宝泉局を設置し、大中通宝を盛んに発行し流通させています。元朝は銅銭の代わりに交鈔や塩引といった紙幣を発行していましたが、塩の主要供給地である江南が離反したため紙幣の価値が激減し、この頃には銅銭のほうが信用されていたのです。

 朱元璋は銅銭の私鋳を禁じ、物価上昇を抑えるため官直(公定価格)を定め、米1石が3000文であったのを1000文としました。また交鈔4文を大中通宝1銭とし、10銭=40文を1両、10両=100銭=400文を1貫と定めました。

 1368年、朱元璋は応天府で皇帝に即位し、国号を大明、元号を洪武とし、大中通宝に代わって洪武通宝を発行しました。1文銭のほか2文・3文・5文・10文に相当する重量の銭も作られましたが、不評だったので1371年に1文銭以外は発行を停止しています。また銅銭の材料となる銅が不足していたために、結局は紙幣を発行することとなります。

 1375年(洪武8年)3月、明朝は「大明通行宝鈔」と名付けた紙幣を印刷・発行しました。『明会典』によると、これは方形で縦1尺(33.8cm)、横6寸(22cm)もあり、1287年に元朝が発行した至元通行宝鈔(30cm×22cm)より縦にやや大きく、史上最大の紙幣と呼ばれます。色は青灰色で外枠は龍文華欄、上部に「大明通行寶鈔」及び「大明寶鈔天下通行」の文字があり、中央部に額面金額の数字(1貫=1000文および500文から100文までの6種類)と銅銭の束の絵図が示されています。

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 その下には「中書省(中央官庁)がこれを発行し、銅銭との使用を許可した。偽造者は斬刑とし、密告して捕らえた者は銀250両を褒賞として与え、また犯人の財産をその者に与える」とあります。印刷後は官印が押され、発行の日付が記入されます。宝鈔1貫は銅銭1000文=銀1両(37.3g)=金1/4両=米1石に相当すると定められ、民間では金銀を取引に使用せず銅銭と宝鈔のみで取引すること、商業税は銅銭3、宝鈔7の比率で納めること、元朝の紙幣は無効であることなどが布告されました。

 宋朝や元朝では銭/交鈔1貫=銀1両=絹1疋=米1石で、庶民1人の1日の最低生活費が銭100文ほどでしたから、これを現代日本円の5000円相当とすれば1貫=5万円となります。ただ金1両は銀10両(50万円)でしたが、銀4両(20万円)に値下げされています。銀錠1つは50両(250万円)です。

 宝鈔は主に軍人への賞賜に用いられたものの、銭にも塩や銀にも兌換できず、発行額も1385年までの10年に年間500万錠(2500万貫)程度で元朝より少なく、あまり流通しませんでした。民間では密かに金銀が使われ、あるいは布や米、塩が用いられ、宝鈔の価値は下落していきます。宝鈔1貫は1385年に米0.4石、1397年に米0.2石、1402年には米0.1石(1斗)まで下落し、銅銭に対しては1390年に銭250文、1394年に銭160文まで下がりました。

 明朝は宝鈔の価値を維持するため、破損したり古くなったりしたもの(昏鈔)を3%の費用で新札に交換させましたが、民間では昏鈔の方が新札の2倍の価値があるとして流通しており、効果がありませんでした。1389年には10文から50文までの少額宝鈔も発行され、銅銭の発行を停止して金銀の使用禁止を繰り返しますが、やはり効果がありませんでした。

 1398年に洪武帝が崩御し、靖難の変を経て1402年に永楽帝が即位すると、戦乱や外征のため財政問題はさらに逼迫します。永楽帝は塩を強制的に販売して宝鈔で支払わせる戸口食塩法を制定しますが、1409年には北京に宝鈔提挙司を設置して宝鈔を増発し、ますます価値の下落を招きます。1404年には宝鈔100貫でようやく米1石(つまり1貫=米0.01石)にしかならず、米1石を5万円とすれば、宝鈔1貫は500円(50銭)でしかなかったのです。ケツを拭く紙にするにはやや高価ですが。

永楽通宝

 1411年(永楽9年)、明朝は新たな銅銭「永楽通宝」を発行します。宝鈔だけでは財政がおっつかず、洪武帝の崩御からも12年以上経過したため、新たな元号を入れた銅銭を鋳造したのです。宝鈔よりは地金価値により信用され、それなりに流通したものの、民間ではもはや銀や現物による取引が主流となっており、銅銭を用いる際も唐銭や宋銭の方が古くて信用があるとみなされていました。奇妙な話ですが「古くからその価値で取引に用いられた」ということで古い貨幣の方が信用があったのです。それでも永楽通宝などの明銭は交易路に乗って世界各地に輸出され、鄭和らが赴いた東アフリカのケニアや、朝鮮・琉球・日本においても流通していました。

 この頃、日本は明朝と国交を回復し、盛んに貿易を行っていました。「日本国王」源(足利)義満からの公式の朝貢使節による貿易の他、使節団に同行した商人の私貿易も許可され、莫大な利益をもたらします。義満は明朝の使節団を迎えるため、私邸の北山山荘(北山鹿苑寺)に金箔張りの舎利殿(いわゆる「金閣寺」)を建立して驚かせたといいます。

 1408年に義満が逝去すると、室町幕府は1411年に対明朝貢貿易を一時停止し、朝鮮・琉球を介しての間接貿易に切り替えます。異国の天子に日本の将軍が国王の冊封を受けて朝貢するのは流石に問題視されたためですが、実利には変えられず、1432年に復活しています。また明朝にとって蛮夷が徳を慕って朝貢に来ることは歓迎すべきことですし、私貿易や海賊行為を行っていた倭寇への対策にもなりましたが、あまり頻繁に来られると下賜品にかかるカネもバカにならず、しばしば回数制限を行っています。1401-10年まではほぼ毎年使節が往来していましたが、次は1433年、1435年と2回行ったのち1453年まで20年近く停止されています。

 この貿易において、日本からは硫黄や銅などの鉱物、扇子・刀剣・漆器・屏風といった工芸品が輸出され、明朝からは生糸・織物・書物、そしてが輸出されました。銅不足なのに銭が輸出されるというのも妙な話ですが、日本の銅には銀が含有されていたため、明でこれを抽出していたといいます。日本では宋銭や唐銭が流通していましたが、明銭は量が少ないうえ上述の理由で信用されにくく、当初はあまり好まれませんでした。日本で永楽通宝が好まれ始めるのは16世紀からで、なおかつ日本で私鋳されたものが多かったようです。次回はこの頃の日本や琉球、朝鮮の貨幣について見ていきます。

◆昇◆

◆龍◆

【続く】

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