【つの版】ユダヤの秘密12・中世終焉
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
14世紀半ば、欧州全土を襲った黒死病の大流行は、民衆によるユダヤ人への迫害をさらに強めました。王侯貴族は財源としてユダヤ人を庇護しますが、懐具合が厳しくなるとユダヤ人を追放し、財産を没収する有様です。それでもユダヤ人はしぶとく生き残っていました。
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修道時代
教皇や聖職者が政治勢力化して腐敗を極める中、これを改革して清貧と敬虔に立ち返るべきだとする動きは定期的に起きていました。イエス自身もユダヤ教の腐敗や偽善を指摘して改革運動を行った人物ですし、529年にはベネディクト会という修道会が設立され、西欧全土に伝道活動を行いました。
彼らは神学研究や歴史記録、農業や技術の分野においても多大な貢献を果たしたものの、荘園領主となって世俗化が進み、10世紀にはクリュニー会が設立されて改革が行われます。これも腐敗したとして11世紀末にはシトー会が現れ、12世紀にはカルメル会、13世紀にはドミニコ会やフランシスコ会、聖アウグスチノ修道会が現れます。フィオーレのヨアキムが「修道士の時代が来る」と予言したように、中世は修道会が盛んに活動した時代でした。
カルメル会以後の修道会は「托鉢修道会」といい、荘園などの私有財産を持たず、教区内からの托鉢・布施によって経営されました(のち緩和)。これらは教皇や聖職者らに認定された(体制内の)改革運動ですが、非認定の改革運動は異端とみなされ、討伐のための十字軍が派遣されています。
また、十字軍時代にはテンプル騎士団などの「騎士修道会」が次々と生まれました。これは聖地防衛のため貴族や騎士らが誓願を立てて修道士となったもので、シトー会などの戒律を遵守しつつ、武装して異教徒と戦いました。
聖地防衛のためとして多額の喜捨が集まったので、テンプル騎士団はこれを流用して荘園経営や金融業を行い、最終的にフランス王に潰されています。ドイツ騎士団はハンガリーやポーランドに呼び寄せられて「北方十字軍」に加わり、領邦を獲得してプロイセン王国の原型を形成しました。聖ヨハネ騎士団はロドス島に拠点を置き、最前線でイスラム教徒と戦い続けます。
カトリック教会内部で行われた様々な改革は、結局は教皇の権威と権力を強め、世俗の王と手を組んだ教皇政権を利するにとどまりました。これに対して異論を唱える者は「異端」とされ、カトリック・キリスト教社会から追放されます。しかし、やがてこの動きが宗教改革に繋がっていくのです。
佛蘭追放
イングランド王とフランス王の戦争は、黒死病の後も続いていました。長年の戦争や疫病、飢饉、農民反乱で財政破綻を起こしたフランスでは、1361年に国王シャルル5世がユダヤ人を呼び戻し、人頭税を納める代わりに家屋と地所の所有、高利貸しの権利を認めるなど厚遇しました。税制改革によって財政は好転…しませんでしたが、イングランド王との戦いは優勢に転じ、ブルターニュ地方を占領することに成功しました。
1380年にシャルル5世が崩御すると、両国は休戦条約を結びます。しかし重税にあえいでいた民衆は暴動を起こし、パリとその周辺のユダヤ人を襲撃、借金証書や質草を略奪しました。シャルル6世は勅令によってユダヤ人を庇護し特権を与えたものの、反ユダヤ暴動を抑えきれず、1394年には最終的なユダヤ人追放令が発布されます。ユダヤ人はドイツやプロヴァンス伯領などフランス王権の及ばぬ領域へ逃れますが、そこでも迫害や追放が行われ、ボヘミアやポーランドへ逃れて行きました。
イングランドでは1290年にユダヤ人追放令が出ており、イタリアでもイベリアでもユダヤ人への風当たりは強まる一方でした。これは黒死病の影響もありますが、欧州諸国では非ユダヤ人も国際交易や宝石・貴金属細工、投資金融などに参入してきたせいもあります。キリスト教徒同士の金貸しは表向き禁止されていますが、商業が発達するとどうしても必要で、いろいろ屁理屈をつけて実質は黙認されたのです。商売敵のユダヤ人はますます迫害され、肩身が狭くなって行きます。
教会論駁
1376年、イングランドの聖職者ジョン・ウィクリフは「聖職者の権威は聖書に基づいており、堕落して信仰を失った聖職者による秘蹟(洗礼など)は効果がない」「聖職者は全財産を放棄して清貧に戻れ」と説きました。彼はオックスフォード大学の教授であり、哲学と神学に基づいて論理的に教会を批判したのですが、多くの聖職者からは当然激しく叩かれました。
当時のイングランドは長年続いたフランス王との戦争で疲弊しており、国王エドワード3世は息子のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに実権を委ねていました。イングランドの貴族や聖職者、平民(富裕市民)からなる議会は王家の悪政に反抗し、国政改革を行うべきだと強く主張します。そうした中でウィクリフが現れたのは、聖職者からの財産没収を狙った王家の思惑もあったようです。それが証拠にランカスター公は彼を庇護しています。
政治的思惑はあるにせよ、聖職者が腐敗し堕落していたのは天下万民が知るところでしたから、ウィクリフは割と支持者を獲得しました。イングランド人の稼いだ富が、ローマ教皇に教会税として取られるのも気に食わなかったでしょう。また彼は聖書を英訳し、各地に仲間を派遣して改革思想を喧伝したので、教会から激しく非難されました。
ウィクリフ派は、反対派からは「ロラード派」と呼ばれました。オランダ語で「つぶやく者」を意味するとされますが、のち「(良い麦畑に生える)毒麦」「詐欺師、怠け者」を意味するとも解釈されました。
1377年にエドワード3世が崩御し、ランカスター公の甥にあたるリチャード2世が10歳で王位を継承すると、ランカスター公は彼の補佐役筆頭として実権を握ります。しかし大陸遠征の費用を集めるため人頭税を課し、怒った下層農民や労働者が1381年に大反乱を起こします。指導者の名から「ワット・タイラーの乱」と言いますが、この反乱軍によってケントの牢獄から救出されたのが、ロラード派の過激な説教者ジョン・ボールでした。
彼は熱狂的な演説で農民反乱を煽り立て、「アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が地主(ジェントルマン)であったか!」との名言を叫んだといいます。しかして王政打倒の運動とはならず、「リチャード王と真の庶民(コモンズ)のために」をスローガンとし、リチャード2世の名のもとに進撃しました。彼らはロンドンを占領するとランカスター公の屋敷を焼き払い、土地証書を焼却し、国王に「国王と法に対する反逆者を捕らえ処刑せよ」「民衆は農奴ではなく自由意志を持ち、領主に対する臣従や奉仕労働の義務を持たない」との特許状を発布するよう要求しました。
国王はやむなくこれを許可し、カンタベリー大司教兼大法官や財務長官が民衆に殺害されます。しかしロンドン市長が国王と会見に来たワット・タイラーを斬り殺し、国王は反撃に転じて反乱軍を討伐、ジョン・ボールらも絞首刑に処されました。反乱鎮圧後、ウィクリフ/ロラード派は危険思想として弾圧され、ウィクリフは1384年に逝去し、ランカスター公も失脚します。しかしロラード派はその後もイングランドやオランダに残存しました。
窓外投擲
15世紀初頭、ボヘミアのプラハ大学の学長ヤン・フスは、ウィクリフの思想に賛同して聖職者を批判しました。当時のボヘミア王は皇帝カール4世の子ヴェンツェル(ヴァーツラフ4世)でしたが、彼はプラハの大司教と激しく対立し、1393年には大司教代理ヤン・ネポムツキーを殺害したため反乱に遭い、1402年には異母弟のハンガリー王ジギスムントに一時監禁される有様でした。1403年に帰国したヴェンツェルは王権安定のため、聖職者と対立するフスを支援します。プラハ大学はウィクリフ派(フス派)の牙城となり、対立する教授や学生はドイツへ追放されました。これには地元のチェコ人(ボヘミア人)とドイツ人の民族対立も絡んでいたようです。
1409年、ヴェンツェルとジギスムントはピサで枢機卿らによる教会会議を開催させ、アレクサンデル5世を新教皇に選出させます。ローマとアヴィニョンの教皇たちはこれを認めず、アレクサンデルも翌年急逝しますが、ヴェンツェルらはフィレンツェの豪商メディチ家と結んでヨハネス23世を擁立します。ここに三人の教皇が鼎立する異常事態となりました。1410年、ジギスムントは神聖ローマ皇帝(ローマ王)に即位します。
しかし、ヨハネスはプラハ大司教の訴えを聴き入れてフスを異端とし、破門に処します。さらにローマの教皇を支持するナポリ王を討伐する十字軍を呼びかけ、軍資金調達のために贖宥状を販売し、フスから激しく非難を受けました。民衆はフスを大いに讃えたものの、ヴェンツェルは国際的に孤立して庇護しきれなくなります。1414年、皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議を開催し、フスの身の安全を保証して呼び寄せますが、あっさり裏切って逮捕監禁し、1415年には火刑に処してしまいました。
コンスタンツ公会議では教会分裂の解消についても話し合われ、1417年にローマ教皇マルティヌス5世が選出されて一応の解決を見ます。その後も対立教皇はアラゴンなどで1449年まで現れましたが、国際的にも正式な教皇とは認定されませんでした。イングランドとフランスは1412年に戦争を再開し、オルレアンに現れたジャンヌ・ダルクは1431年に火刑に処されています。
ヴェンツェルはジギスムントの仲介でローマ教会と和解し、1419年にはフス派の牙城であったプラハ市の新市街参事会を解散させます。怒ったフス派はプラハ市庁舎を襲撃し、ローマ教会派の議員らを窓から投げ落として皆殺しにしました。ヴェンツェルはショックを受けて逝去し、ジギスムントがボヘミア王を継いでフス派を迫害します。ここにフス戦争が始まりました。
ヤン・ジシュカらに率いられたフス派の軍勢は、ポーランドやリトアニアのフス派と結び、鉄砲やウォーワゴンなどの兵器を用いてカトリック軍(十字軍)と激戦を繰り広げました。カトリックに迫害されていたユダヤ人も資金援助したといいますが、カトリック側のプロパガンダもあり詳しいことはわかりません。フス派は有利に戦いを進めたものの内紛で分裂し、1434年にはカトリックと結んだ穏健派(ウトラキスト)によりフス派の過激派は壊滅します。ウトラキストはその後もボヘミアを支配下に置きました。
君府陥落
この頃、バルカン半島はほとんどがオスマン帝国の手に落ち、ハンガリーはカトリック世界の最前線となってイスラム勢力と戦っていました。バルカン半島からアドリア海を渡ればすぐイタリアですから、皇帝や教皇は欧州諸国に呼びかけて十字軍を結成し、オスマン帝国と戦っています。
1402年、バヤズィト1世がアンカラの戦いでティムール率いるモンゴル軍に撃破され、オスマン帝国は一時衰弱します。続くメフメト1世、ムラト2世は国力を立て直し、1444年にはブルガリアのヴァルナでハンガリー・ポーランド王率いる十字軍を打ち破りました。
1451年にムラト2世が急逝すると、若い皇子メフメト2世が即位します。彼はハンガリーと休戦すると、もはや他の領土をほぼ失った東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲し、1453年5月29日に陥落させました。千年を超えて続いた東ローマ帝国は滅亡したのです。ここに欧州の中世は終焉を迎え、新たな時代――近世が始まることになります。
◆OH MY◆
◆GOD◆
【続く】
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