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【つの版】度量衡比較・貨幣162

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1775年、北米植民地では英国の支配に反抗する民兵の武力蜂起が勃発し、翌年7月に独立を宣言して国号を「アメリカ合衆国」としました。アメリカはフランスなど欧州諸国に支援を求め、独立戦争を継続します。

◆紐◆

◆育◆


紐育攻防

 アメリカ独立宣言が大陸会議で採択された頃、アメリカ合衆国大陸軍総司令官ジョージ・ワシントンニューヨークに駐屯していました。英国の将軍ウィリアム・ハウは、同年3月に英国軍を率いてボストンを離脱し、ノヴァスコシア州ハリファックスに移って反撃の体勢を整えていましたが、ワシントンはニューヨークを守るため4月に移動し、堡塁や砲台等を設営します。また英国に同調する王党派(ロイヤリスト)も排除しました。

 これに対し、ハウ率いる英国軍は6月9日にハリファックスを出港し、海上からニューヨークへ向かいます。29日に出現した英国艦隊は45隻でしたが、数日後には彼の兄リチャード率いる130隻が現れ、規律も訓練も武装も不足していた大陸軍の兵士らは恐れ慄きます。7月2日には英国軍がスタテン島に上陸して陣営を敷きました。ワシントンは兵士や市民に独立宣言を読み聞かせて勇気づけ、ハウはワシントンと交渉を望み、降伏勧告を行います。

 8月12日、スタテン島に集結した英国軍は3万2000人に達し、艦隊の数は400隻を超えました。英国の兵士のうち8000名は北ドイツのヘッセン=カッセル方伯領からのドイツ人傭兵で、方伯フリードリヒ2世が英国王ジョージ3世の義理の叔父(妻がジョージ2世の娘)であった縁によります。英国王室も北ドイツのハノーファー選帝侯国出身ですから、ドイツ人傭兵はアメリカ独立戦争に対して大勢投入され、アメリカ側では彼らをヘシアン(ヘッセン人)と総称しました。職業軍人であるため練度も高く手強い相手です。

 対する大陸軍は、かき集めても1万9000人で、銃砲は不足しており、海軍の持ち合わせもありません。かつ英国軍が東のロングアイランドへ向かうのか、それとも北のマンハッタン島へ向かうのかもわからず、いずれかを陽動として両方に攻めてくる可能性もあります。やむなくワシントンは軍を2つにわけ、自らはマンハッタン島に陣を敷きました。

 8月22日、英国軍の前衛4000人がロングアイランド西側に上陸し、正午までに1万5000人が上陸を果たします。ワシントンは陽動と見て1500の援軍しか送りませんでしたが、数の上で圧倒的に優勢な英国軍は5日後にはロングアイランドのアメリカ軍を蹴散らし、守将ジョン・サリバンを含む1000名以上を捕虜とします。アメリカ軍は300名の戦死者を出して敗走し、ワシントンのいるマンハッタン島へ逃げ込みますが、ハウは深追いを避けてロングアイランドにとどまり、圧力をかけながら改めて交渉を呼びかけます。

 フィラデルフィアの大陸会議はジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、エドワード・ラトリッジらを派遣し、9月11日に会合が行われました。しかしアメリカ側は独立宣言を譲らず、ハウにも限られた権限しかなく交渉は決裂します。9月15日、ハウは英国艦隊を率いてマンハッタン島に侵攻し、艦砲射撃を行ってアメリカ軍を追い散らし、上陸に成功しました。

 ワシントンは逃げ散ったアメリカ軍をなんとかまとめ直し、マンハッタン島の北のハーレムハイツまで攻め込んできた英国軍に必死の抵抗を行って一時撤退させます。しかしマンハッタン島南部を含むニューヨークの大部分は英国軍に占領され、大陸軍の民兵らも士気がガタ落ちしたため、やむなくワシントンはさらに北へ後退します。10月末にはホワイト・プレインズで、11月にはワシントン砦で打ち破られ、ワシントンは少なくなった手勢を率いてニュージャージー、ペンシルベニアへ逃亡しました。

華盛渡河

 この頃、カナダ侵攻作戦を行っていたアメリカ軍も反撃にあって打ち破られ、モントリオールの南のタイコンデロガ砦まで押し戻されていました。大陸会議の議場が置かれたペンシルベニア州フィラデルフィアはニューヨークから100マイルと離れておらず、危険を感じた大陸会議は12月に南西の港町ボルチモアに議場を遷します。アメリカ合衆国は風前の灯と見えました。

 英国軍は敵軍のうち3000名を捕虜とし、2000名を死傷させ、勢いに乗じて敵軍を追跡します。しかし冬の到来により追跡を停止し、ニュージャージー州の占領地で冬の宿営に入ります。英国本土は戦勝の報に湧き、英国軍も相次ぐ勝利にやや弛緩していました。そこでワシントンは反撃を決意します。

 1776年のクリスマスの夜、ワシントンはペンシルベニア州からデラウェア川を渡ってニュージャージー州トレントンに上陸し、翌日にはドイツ人傭兵を打ち破ってトレントンを奪い、900名近い敵兵を捕虜にしました。ついで翌年1月3日には進軍してきた英国軍1200名をプリンストンで迎撃し、勝利をおさめました。ニュージャージーの民兵は冬の間も英国軍にゲリラ戦を仕掛け続け、たまりかねた英国軍はニューヨークまで撤退します。

 この勝利はアメリカを大いに勇気づけましたが、ニューヨークは占領されたままですし、英国軍が優勢な状況は覆せません。英国側は冬営中に1777年中の作戦を計画し、ハウ率いる主力はフィラデルフィアへ進軍すること、ジョン・バーゴイン率いるカナダ軍は南下してハドソン川流域を制圧することになります。ハドソン川の東のニューイングランドを孤立させ、大陸会議との連携を断ち切り、降伏を促そうという作戦です。

来義勇兵

 こうした中、1777年初頭には例のボーマルシェの商船が密かにアメリカに到達し、武器弾薬などの軍需物資を合衆国に提供しました。アメリカ側は大いに喜んだものの、交渉時の話の行き違いで代金(カネは問題があるのでバージニア産のタバコ)が支払われず、戻った船は空荷でした。フランスの外務大臣ヴェルジェンヌはやむなく100万リーヴルをボーマルシェの会社に追加融資し、アメリカ合衆国への「私的な」支援を継続させています。

 同年6月、フランスの若き軍人ラファイエットがサウスカロライナ州に上陸します。彼は由緒正しい貴族の家に生まれましたが、2歳の時に父が七年戦争で戦死し、12歳で母と曽祖父を亡くし、年収12万リーヴルに及ぶ莫大な遺産を受け継ぎました。やがて彼はアメリカ独立戦争に魅力を感じ、父の仇である英国と戦うことを望むようになります。1776年にアメリカ合衆国の使節サイラス・ディーンがフランスを訪れた時、彼は従軍を申し入れました。

 フランス政府は直接アメリカを支援するわけにはいかないため、彼は私財を投じて帆船を購入し、同調した仲間たちを率いて自ら大西洋を渡ります。大陸会議はフランクリンからの推薦状もあって彼らを歓迎しました。この時ラファイエットとともにアメリカへ渡った義勇兵の中に、コシチュシュコ(コシューシコ)とプワスキ(プラスキ)というポーランド人もいます。

 彼らは反ロシア派ポーランド貴族の武装組織「バール連盟」の残党で、フランスに亡命中でしたが、ラファイエットに勧められてアメリカ独立戦争に参加しました。民兵の寄せ集めであった大陸軍は、彼らの指導のもとで本格的な軍隊として鍛え直されていくことになります。

◆波◆

◆蘭◆

【続く】

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三宅つの
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