
【つの版】日本刀備忘録42:籤引将軍
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
足利義満の子・義持は第4代の征夷大将軍として武家政権を引き継ぎますが、父ほどのカリスマはなく、南朝の残党や関東の諸将らが各地で挙兵し、朝鮮が対馬に侵攻するなど内憂外患に悩まされます。これらは鎮圧されたものの、義持の最大の敵となったのは第4代鎌倉公方の足利持氏でした。
◆くじびき◆
◆アンバランス◆
足利持氏
持氏は足利尊氏の4男・基氏の曾孫にあたり、義持より12歳年下です。父の逝去により鎌倉公方に就任した応永16年(1409年)には10歳でしかなく、応永23年(1416年)には前関東管領の上杉禅秀が反持氏派の諸将と結託して反乱を起こし、持氏を鎌倉から追い出しています。義持は越後・信濃・常陸等の諸将に命じてこれを鎮圧させ、持氏を鎌倉に帰還させます。
当然ながら鎌倉公方や関東管領の権威と権力は失墜し、「京都扶持衆(京都御扶持者)」が台頭します。彼らは鎌倉府の管轄国内の武士でありながら鎌倉公方ではなく京都の将軍義持の直接指揮下に入り、鎌倉公方を牽制する役目を与えられていました。メンバーは甲斐の武田氏、下野の宇都宮氏、白河の結城氏や奥州の伊達氏・蘆名氏・南部氏など錚々たる面子で、上杉禅秀の乱では禅秀を支援するか中立的立場を取っていました。
これに対し、持氏は甲斐守護に甲斐武田氏の傍流・逸見有直を、常陸守護に佐竹義憲を任じて幕府派に抵抗し、常陸の領主・小栗満重の反乱討伐に赴きます。彼は京都扶持衆の一人で、以前から所領回復のためにしばしば鎌倉公方に対して反乱を起こしていましたが、応永29年(1422年)には上総守護の宇都宮持綱や桃井宣義、佐々木基綱らと共謀して、一時は下総国結城城を奪う勢いを見せました。翌応永30年(1423年)、持氏は大軍を率いてこれを討ち、反乱軍はたちまち崩壊し、満重は居城で自刃して果てました。宇都宮持綱も同年に家中の親鎌倉府派に殺害され、関東は大いに動揺します。
義持はこれを持氏による「私戦」であると激しく非難し、管領や西国諸将に持氏討伐の是非を諮問しました。同年7月には駿河・信濃の守護や武蔵の国人、持氏の叔父にあたる満直や、奥州探題の大崎氏に持氏討伐を命じるなど、緊張は頂点に達します。追い詰められた持氏は応永31年(1424年)2月に義持へ起請文を送り、和睦を申し出ることとなりました。しかしこの緊張関係はその後も続き、天下を揺るがすことになります。
義持出家
これに先立つ応永30年3月、38歳の義持は17歳の息子・義量に将軍職を譲り、4月には秘密裏に出家して道詮と号しました。父・義満も彼と同年に出家しましたが、大御所として実権を握り続けたため、義持もこれを真似て息子への政権委譲がスムーズに行くよう譲位したのです。しかし義量は応永32年(1425年)2月末に病を得て急死してしまい、跡継ぎとなる息子も弟もいなかったため、義持は将軍不在のままで政権を握り続けます。義持には4人の弟がいましたが、自分に男児が生まれるとの石清水八幡宮の託宣を受けたこともあり、新たに後継者を決めることもありませんでした。
将軍は不在でもなんとかなりますが、時の天子・称光天皇は病弱で跡継ぎが望めず、皇位継承問題が持ち上がっています。応永29年(1422年)には一時危篤状態となり、義持が後小松院の代理として伊勢神宮に参詣したほどでした(坂上田村麻呂と鈴鹿御前の話もこの時に記録されています)。幸いこの時は回復したものの、義持と後小松院は跡継ぎ不在を危ぶみ、称光天皇の弟である二宮(小川宮)を儲君・東宮(皇太子)に立てます。しかし天皇と小川宮の仲は険悪で、応永32年には小川宮も急逝してしまいました。このままでは南朝(大覚寺統)に皇位が移ってしまうため、後小松院は同じ北朝系の伏見宮貞成(後小松院の祖父の兄・崇光天皇の孫)を親王としますが、称光天皇に反発されて貞成が出家に追い込まれるなど難航しています。
そうした中での応永34年(1427年)9月、幕府宿老で播磨守護の赤松義則が70歳で逝去し、嫡男の満祐が跡を継ぎます。赤松氏は村上源氏の一流とされ、鎌倉時代より播磨国赤松村の地頭をつとめ、義則の祖父・円心(則村)とその子・則祐は後醍醐天皇・足利尊氏らを輔佐して建武政権・足利幕府の樹立に多大な功績を挙げました。以後赤松氏は播磨一国の守護となり、一族は摂津・美作・備前の守護に任じられ、西国有数の守護大名として幕府に重きをなす存在となります。ただ摂津守護職は応安7年(1374年)に細川頼元に譲られたため、この頃には播磨・美作・備前の三国の守護でした。
義持はこの機に赤松氏の勢力を削ごうと考え、「播磨を没収して幕府直轄地とし、近習の赤松持貞(円心の子で美作守護の貞範の孫)を代官とする」との命令を発します。怒った満祐は京都の自邸を焼き払って播磨へ退去し、一族を集めて合戦の準備を始めました。義持は「備前と美作も没収し、赤松満弘・貞村に与える」と宣言したうえ、周辺の守護大名である山名氏や一色氏に対して満祐の討伐を命じました。
しかし管領の畠山満家は討伐に反対して仲介に乗り出し、一色氏・細川氏も従わず、乗り気なのは義持と旧領回復を目指す山名氏だけという有様でした。幕臣らは協議の末に諸悪の元凶たる持貞を排除することとし、義満の側室であった高橋殿に「持貞が義持の側室と密通している」と告発させ自害に追い込みます。満祐は罪を許され、播磨・美作・備前三国を相続しました。
籤引将軍
翌応永35年(1428年)正月、義持は病を発して重態に陥り、管領をはじめ幕臣たちは後継者選定のために協議を行います。義持自身には後継者を決めるつもりがなかったため、醍醐寺座主の満済(義満の猶子)の提案により「出家している義持の弟4人から1人をくじ引きで決める」ことになります。その4人とは青蓮院門跡の義円、相国寺の虎山永隆、大覚寺門跡の義昭、梶井門跡の義承で、義持の薨去直後に石清水八幡宮でくじが開封されました。
これにより選ばれたのは、義持の同母弟かつ最年長(応永元年/1394年生まれ)の義円で、諸大名の度重なる推挙により応諾します。3月、義円は還俗・元服して足利義宣と名乗りますが、「世を忍ぶ」に通じて縁起が悪いというので翌年3月に義教と改名し、参議・近衛中将・征夷大将軍に就任しました。この間に元号が応永から「正長」と改められ、称光天皇が崩御し、伏見宮貞成親王の子・彦仁王が践祚(後花園天皇)しています。後小松院が院政を敷く体制は変わりません。
足利将軍家も皇室もギリギリのところで跡継ぎが間に合ったわけですが、後花園天皇はともかく足利義教の将軍就任は当初から怪しまれました。彼は元服前に出家したため還俗当初は無位無官で、「髪が伸びるまでは罪人と同然」として官位も受けられませんでした。また僧侶が還俗して征夷大将軍になった例は護良親王がいますが、彼は父・後醍醐天皇や足利尊氏と対立して非業の死を遂げており、悪しき前例とみなされていました。
また鎌倉公方の足利持氏は、自分が将軍職を継ぐべきだと主張して義教の就任を認めず、「還俗将軍」と呼んで軽んじ、就任祝いの使者も送りませんでした。正長2年9月には「永享」と改元されますが、持氏はこれをも認めず正長の元号を使い続けています。内外に火種を抱える中、新将軍は難しい舵取りを強いられることとなりました。
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【続く】
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