【つの版】日本建国06・平城遷都
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
701年に大宝律令が制定され、702年に粟田真人が遣唐(周)使としてチャイナに赴きます。彼は世界帝国の先進文明を学び、704年に帰国しました。この頃持統上皇は崩御しており、まもなく武則天も退位・崩御して唐が復活します。新時代の到来と共に、日本ではさらなる国政改革が進められます。
◆慶雲◆
◆機忍◆
慶雲の改革
当時の日本政界の主要メンバーを見てみましょう。持統上皇崩御後、大宝3年(703年)には天武天皇の子・忍壁皇子が「知太政官事」に任命されて国政を統括していましたが、慶雲2年(705年)5月に薨去します。同年9月、異母弟の穂積親王が30代前半で後任の知太政官事となります。太政大臣ではありませんが、およそそれに匹敵する官職です。
左大臣の多治比嶋は大宝元年(701年)に薨去し、右大臣の阿倍御主人も大宝3年に薨去したため、慶雲元年(704年)に石上麻呂が右大臣に任命されます。藤原不比等は大宝元年3月に正三位・大納言となり、大宝4年正月以前に従二位となりました。この頃、大納言は4人いましたが、慶雲2年4月に2人へ削減され、大宝令で廃止された中納言が再設置されます(令外の官)。粟田真人は高向麻呂、阿倍宿奈麻呂と共に、この中納言に任命されました。慶雲2年には壬申の乱の功臣・大伴安麻呂が大納言となり、11月には大宰帥も兼務しています。
知太政官事:穂積親王
右大臣:石上麻呂
大納言:藤原不比等、大伴安麻呂
中納言:粟田真人、高向麻呂、阿部宿奈麻呂
整理するとこうです。他に下毛野古麻呂が参議・兵部卿、小野妹子の孫の小野毛野が参議となっています。
石上麻呂はもと物部麻呂といい、壬申の乱で大友皇子に最後まで付き従った人物で、物部改め石上氏の氏上として天武・持統朝でも重んじられました。大宝元年には不比等と並ぶ正三位・大納言になりましたが、翌年大宰帥に転任していました。640年生まれですからこの時66歳の長老で、家格でも年齢でも不比等の上にあります。
高向麻呂は蘇我氏の分家・高向氏で(高向玄理は漢人・史で別系統)、大宝2年に参議となっています。阿倍宿奈麻呂はあの阿倍比羅夫の子で、もと引田氏でしたが、大宝3年に阿倍御主人が薨去すると阿倍氏に改め、氏上となったようです。皇族、物部氏、中臣鎌足の子、蘇我氏、春日氏、阿倍氏と、並べればいつものメンバーですね。
なお、平安時代の空想小説『竹取物語』に登場する5人の貴公子は、この頃に活躍した人々がモデルです。石作皇子は石作氏を一族に持つ多治比嶋、車持皇子は車持氏を母とする藤原不比等で、右大臣の阿倍御主人、大納言の大伴御行(安麻呂の兄)、中納言の石上麻呂はそのままです。しかし阿倍御主人が右大臣になった大宝元年には多治比嶋・大伴御行が相次いで薨去しています。全員がぎりぎり生きていた文武5年元日に合わせても、多治比嶋は77歳、藤原不比等は43歳、阿倍御主人は66歳、大伴御行は56歳、石上麻呂は62歳で、美しい姫君に求婚するような年齢でもありません。こう並べると不比等の若さが際立ちますね。
ともあれ、彼らは国政(律令)改革にとりかかります。まず采女(女官)の経費を補うために采女肩巾田を復活させ、次いで官人の給料規定、人事に関する制度の調整を行い、継嗣令を改めて皇族の範囲を四世孫までから五世孫までに広げました。応神天皇の五世孫である継体天皇が今上天皇の直系先祖ですから、四世孫までだとすると問題があったのでしょう。またこの頃は飢饉が頻発しており、農民の負担を軽減するため税制改革や貧窮対策を行い、皇族・貴族の大土地所有を制限する大宝令の遵守を求めました。
文武崩御
しかし慶雲4年(707年)6月、文武天皇が病気に罹り、25歳の若さで崩御しました。子の首皇子は7歳でしかなく、その母・藤原宮子は産後の鬱が悪化したのか、人前に出られない精神状態でした。継嗣令はあるものの皇族や臣下の家門継承に関する規定であり、皇位継承はデリケートな案件なので律令で規定されていません。
知太政官事の穂積親王は天武と蘇我氏の子で、年齢も30代と申し分ありません。他にも長皇子、舎人親王、新田部皇子と天武の子らは何人かいます。しかしこうした場合、持統天皇のように「皇后である/あった皇女」がいれば、彼女が中継ぎとなるのが通例となっていました。
文武には皇族の皇后がいませんが、母の阿閇皇女は天智天皇の娘で、草壁皇子の妃です。彼女は文武が即位した際に「皇太妃」とされ、持統崩御後は後見人の立場にいました。そうしたわけで、彼女が慶雲4年(707年)7月に47歳で天皇に即位しました。推古・皇極/斉明・持統に続く史上4人目の女帝、元明天皇です。
文武天皇は倭根子豊祖父(やまとねこ・とよおほぢ)天皇と諡され、797年に天之真宗豊祖父(あめのまむね・とよおほぢ)天皇と追諡されました。諱の珂瑠(軽)とは無関係ですが、彼の祖父は父方では天武天皇、母方では天智天皇ですから、そうした系譜を重視した諡号でしょう。陵墓は檜隈安古岡上陵で、明日香村の栗原塚穴古墳に治定されますが、形態などから同村平田の中尾山古墳を真陵とする説が有力です。
この付近には有名な高松塚古墳もあります。被葬者は不明ですが40代から60代の男性と推測され、705年に薨じた忍壁皇子とする説が有力です。同様に華麗な壁画で知られるキトラ古墳は、阿倍御主人の墓と思われます。
元明天皇
慶雲5年(708年)正月、武蔵国秩父郡から「和銅(にぎあかがね、自然銅)」が献上され、これを瑞祥として和銅と改元します。2月には北方の平城(なら、奈良)に新たな都を造営すると詔勅を発しました。
5月には銀銭を、7月には銅銭を鋳造し、8月に銅銭を「和同開珎」として発行しました。既に近江朝で無文銀銭、天武朝で富本銭が作られており、金属貨幣が一応存在してはいましたが、広くは流通しなかったようです。一般には布や米、鉄の延金が貨幣として流通し、物々交換も行われていました。当初は全然普及せず、使用を奨励する詔勅が出されています。
また人事を先代から引き継ぎ、穂積親王を知太政官事に留任し、藤原不比等を正二位・右大臣に据え、右大臣から左大臣となった石上麻呂と共に国政を委ねました。位の上では左大臣が格上ですが、石上麻呂は既に70歳近く、51歳の不比等が事実上の宰相であったことは明らかです。
平城遷都
和銅3年(710年)3月、藤原宮・新益京から平城宮・平城京(ならのみやこ)へ遷都します。まだ宮の一部とその周辺ができただけで、数十年かけて段階的に整備されました。新益京とは異なり宮は京の北端中央に置かれ、南北に朱雀大路が走り、碁盤の目のように街路が縦横に作られます。粟田真人らが見て来た長安をもとにしたのは明らかでしょう。石上麻呂は旧都の留守を命じられ、藤原不比等が女帝を輔佐します。
平城と書いて「なら」と読むのは、北の「ならやま(平城山)」にちなみます。奈良盆地と京都盆地を隔てるこの丘陵は、なだらかな南向きの斜面があり、平らかでなだらかなことから「なら(平ら)」と呼ばれました。土地を均(なら)す、の「なら」です。『古事記』では那良、『日本書紀』では那羅・乃楽・儺羅などと当て字され、『続日本紀』や『万葉集』等では奈良、寧楽、また意訳して平と表記されました。平城とは平(なら)にある王城であることからの当て字です。特に外来語ではありません。
奈良は奈良盆地北端にあり、東は伊賀、南は倭(ヤマト)、西は河内、北は山背に通ずる要衝の地です。かつて4世紀中頃には倭王がヤマトから佐紀へ遷りました。風水的にも北に山を背負い、南に平野が開け、左右に山並みが南北へ走り、日当たりがよく水はけもよさそうです。
また不比等は、藤原氏の氏寺である厩坂寺を平城京の左京へ遷し、興福寺と名付けました。氏神である春日大社の創祀は768年なので、まだ先です。
古事記と風土記
この平城京(奈良京)において、和銅5年(712年)に天皇に献上されたのが『古事記』です。編者の太安万侶(おおの・やすまろ)は壬申の乱の功臣・多品治(おおの・ほむぢ)の子ともされます。多(おお)氏は九州や東国の国造と同族で、畿内の本流は大和国十市郡飫富(おふ)郷に居住しました。
古事記原文:http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html
これは天武天皇の時に稗田阿礼が読誦していた『帝紀』『旧辞』に基づくものとされ、天地開闢から推古天皇の世にまで及びます。神武天皇から応神天皇までを中巻、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とし、それ以前は上巻として神代のことを記しています。内容が詳しく登場人物の台詞もあるのは顕宗天皇までで、後は系譜や陵名が並べられ、在位年数も定かでありません。
太安万侶は墓誌もありますから実在の人物ですが、稗田阿礼は実在が定かでありません。また『古事記』は長らく『日本書紀』の参考文献として扱われており、鎌倉時代後期に伊勢神道と関わる形で広まり始めたため、古くから「序文は疑わしく、後世の偽書ではないか」と疑われています。しかし少なくとも「上代特殊仮名遣」が古事記には使用されており、日本書紀に匹敵する程度には古い伝承を残していると思われます。
翌和銅6年(713年)5月、天皇は諸国に『風土記』の編纂を命じ、郡や郷名を好字(縁起の良い字)に改めさせました。このうち天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』だけが完本で現存しており、播磨・常陸・肥前・豊後の風土記も一部欠損しつつも概ね残っていますが、ほかは散逸して逸文が残るばかりです。また逸文と称しつつ後世に捏造された文章もあるため油断がなりません。これら風土記には古事記・日本書紀等に収録されていない、その土地独自の神話伝説が残されており、興味深いものです。ただ朝廷に献上するものですから、記紀神話の影響がないとは言い切れません。
元正天皇
和銅7年(714年)6月、首皇子が14歳で元服し、立太子されます。しかしまだ幼少かつ病弱で、天武の皇子らやその取り巻きが皇位を狙っているため、即座に即位させるには不安が残ります。そこで元明天皇は同年9月に「年老いたから」との理由で生前退位し、自らの娘である氷高(ひだか)内親王に皇位を譲りました。5人目の女帝、元正天皇です。
彼女は草壁皇子と元明天皇の娘で、文武天皇の同母姉にあたり、天武9年(680年)産まれですからこの時35歳です。高貴過ぎる身分ゆえか結婚相手がおらず(異母姉なら文武の皇后だったでしょうが)、未婚のまま母から譲位されて皇位についたという前代未聞の女帝でした。夫も子もいないため、当然ながら首皇子が成人するまでの中継ぎです。卑彌呼めいたシャーマン・クイーンとして女王に擁立されたわけではありません。実際724年には首皇子に譲位して太上天皇となりました。
和銅8年(715年)7月、知太政官事の穂積親王が薨去します。同年9月に霊亀と改元され、霊亀3年(717年)に左大臣・石上麻呂が薨去しました。この年には多治比縣守・大伴山守・藤原宇合ら557名を遣唐使として送り、翌年に主だった者たちは帰国しています(阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らは留学生として残留)。
霊亀3年11月に養老と改元され、翌養老2年(718年)には長屋王が式部卿から大納言に抜擢されました。彼は天武の子・高市皇子と天智の娘・御名部皇女の長男という貴種で、元正天皇の妹・吉備内親王を妻としており、年齢的にも40代前半という有力な皇族でした。かつてなら倭国の大王・日本国の天皇に即位できたかも知れませんが、既に皇太子には首皇子がおり、それに次ぐ皇族中の大物政治家として幅を利かせることとなります。
この頃、藤原不比等は皇太子に娘の安宿媛(光明子)を娶らせています。彼は養老律令の編纂に携わりつつ、舎人親王らが進めていた日本書紀の編纂にも関わり、養老4年(720年)5月にはついに完成させました。天武10年(681年)の国史編纂の勅命からは40年が経過しています。
同年8月3日、不比等は61歳で薨去しました。10月に正一位・太政大臣を追贈され、文忠公(漢風)・淡海公(和風)と諡号を賜りました。彼の子らは藤原氏の血を引く首皇子(聖武天皇)を盛り立て、長屋王と対立することになりますが、ここで歴史を追うのは終わりにしましょう。唐では712年に玄宗皇帝が即位し、唐の最盛期「開元の治」が始まっていました。
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さて、このような時代に完成した『古事記』と『日本書紀』は、倭国・日本国の起源と歴史について神代の昔から筋道を立てて記述しています。それはチャイナの史書に記された倭国の姿とは異なりますし、現代の考古学的見地からも随分違った、神話幻想に満ちたファンタジックな「歴史」です。しかしそれこそが当時のREALであり、そう描かれる必要があったのです。それは古事記にも書かれています。
◆忍◆
◆殺◆
【続く】
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