【つの版】度量衡比較・貨幣155
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1733年、英国でジョン・ケイにより「飛び杼」が発明され、当時流行していた綿織物の生産速度は飛躍的に向上しました。しかし綿織物の原料となる木綿は輸入品で、綿糸を紡ぐ紡績技術は織布の増産に追いつかず、綿糸価格の高騰を招きます。そこで綿糸を大量生産する紡績技術の改革が進められ、英国の産業革命/工業化はさらに加速することになります。
◆We're Not Gonna◆
◆Take It◆
紡績械革
紡績とは、比較的短い繊維を引き伸ばし(績)て撚り合わせ(紡)、長い糸を作り出すことをいいます。人類は旧石器時代から毛皮や樹皮等を身に纏い、長い繊維(糸・紐)で綴り合せていましたが、これによって比較的短い繊維からも糸が作れるようになりました。糸・紐・縄を組み合わせれば漁網や鳥網となり、目を縮めれば織布となります。「機械」という漢語は、本来機織りを行うための絡繰り(織機)を意味します。
最も原始的な紡績の方法は、縄をなうように手で短い繊維を撚り合わせることです。続いて石や木など(紡錘/つむ、スピンドル)に最初に作った糸の先を結び、それを引っ張りながら回す(スピン)ことで、より楽に繊維に撚りをかけ、糸を紡ぎ出す技術が生まれました。この紡錘は新石器時代から数千年にわたり世界中で用いられ、改良が重ねられています。
13世紀には、この紡錘と「はずみ車(フライ・ホイール)」を組み合わせた人力の紡績機械「糸車(スピニング・ホイール)」が発明されました。起源はインドともペルシアともいい、1237年にはバグダードで糸車のイラストが描かれています。手や足で車輪を回転させ、その勢いを利用して紡錘を回し、小さな力で多くの糸を紡ぐことが可能になったのです。この糸車はたちまち世界中に普及し、やはり様々な改良が重ねられました。
紡績技術の改革は、飛び杼の発明からまもなく始まっています。1738年、ジョン・ワイアットとルイス・ポールという2人の技術者が複数のローラーの回転により紡績を行う機械を発明し、特許を取得しました。1741年夏、彼らは英国中部のバーミンガムに工場を開設して50基のローラーを備え付けました。しかし動力源は2頭のロバのみで、雇った労働者の組織化に失敗し、商業的成功は収められませんでした。ワイアットは多額の負債を被り、1743年には一時刑務所にぶち込まれています。
ワイアットや仲間たちは機械の改良を重ね、ロバではなく水力を利用して多数の紡績機械を動かすところまでこぎつけます。また1748年にはルイス・ポールが手動式の梳綿(そめん/カーディング、繊維の方向を櫛で削って揃える)機械を発明しました。ポールは1759年に、ワイアットは1766年に死去しますが、彼らが発明した機械は英国の繊維産業の発展を支えました。
1764年、ランカシャーの町ブラックバーンの大工ジェームズ・ハーグリーブスは「ジェニー」と名付けた多軸紡績機を秘密に発明しました。これは8つの紡錘を並べて糸車と結びつけ、8本の糸を同時に紡ぐことができる画期的な機械でしたが、糸の価格が下落したため製糸業者の怒りを買い、1768年には彼らに家を襲われて機械を破壊されています。ハーグリーブスはやむなくノッティンガムに移住し、1770年に特許を取得しました。
1768年には、時計職人のジョン・ケイ(飛び杼の発明者とは別人)と起業家のリチャード・アークライトが既存の紡績機を改良し、大型の水力紡績機を発明しています。1771年、アークライトはこれを据え付けた工場をクロムフォードに開設し、数百人の労働者を働かせ、綿糸の大量生産に成功しました。さらに工場労働者のために住居や酒場なども建設し、工場を中心とした生活圏・社会システムを築き上げ、これを英国各地に広めたのです。
石炭蒸気
またこの頃、英国では石炭の利用と採掘が本格的に開始されています。人口の増加や産業の発達により、近世の英国では鉄製品の需要が高まっていましたが、古来製鉄には木炭を必要としたため、国内の木材が大量に消費され不足するようになりました。鉄と木炭の不足に対応するため、英国はロシアやスウェーデンから鉄を輸入し、家庭用燃料として国内に豊富な石炭が利用され始めます。石炭による製鉄も試みられたものの、石炭に含まれる硫黄分が鉄を脆くしてしまい、うまくいきませんでした。武器や防具、兵器や船にも必要な鉄を外国に頼るとなると、対外問題が発生した時に大変です。
そこで着目されたのが、石炭を高温で蒸し焼き(乾留)にして硫黄分やコールタールなど不純物を分離させた骸炭(コークス/cokes)です。1612年に英国のスタードバントがこれを用いたコークス製鉄法を発明し、1世紀以上にわたる改良を重ねて、1750年頃から英国全土にコークス製鉄法が普及しました。この間にも石炭の需要は伸び続け、各地に炭鉱が作られました。
炭鉱開発が盛んになると、それに伴って採掘技術も発展します。特に問題となったのが坑内の排水でした。丘や山なら排水用の横穴を掘り、竪穴から搬出すれば済みますが、平野部や地質上横穴が掘れない場合は専用の排水ポンプが必要となります。人や馬のパワーでは揚水能力は15mが限界で、途中に溜池を作り段階的に行っても72mが限界でした。やがて浅い地層の石炭は掘り尽くされ、さらなる技術革新が必要とされ始めます。
1698年、発明家のトマス・セイヴァリは蒸気機関を利用した排水ポンプ「鉱夫の友」を発明し、国王の前で実演して特許を授かりました。蒸気を動力に利用することは古代ローマでも知られており、セイヴァリの発明から8年前にはフランス出身の物理学者ドニ・パパンがシリンダとピストンを用いた蒸気機関の模型を発明しています。セイヴァリはこれを参考に商業化したのですが、技術的に未熟な点が多く、しばしば破裂事故を起こしています。
1712年頃、英国南西部デヴォン州の鍛冶職人トマス・ニューコメンはこれを改良した蒸気機関式の排水ポンプを作成しています。これもエネルギー効率が悪く危険なものでしたが、比較的安価なことから大きな変更を加えられないまま75年間も作成・使用され、英国の石炭産業を牽引しました。
1765年、スコットランド出身のジェームズ・ワットはニューコメン式蒸気機関に改良を加え、エネルギー効率を飛躍的に向上させます。これが商業化するのは1775年からですが、彼の発明により蒸気力は真に実用的な動力源となり、やがて産業革命そのものを牽引することになります。
運河時代
炭鉱や工場の発展により英国内陸部が工業化・都市化されると、物資輸送のためにそれらを繋ぐ運輸業が発達しました。陸路もある程度整備されてはいますが、大量輸送となるとやはり水運が一番です。輸送費で比較すると、水運は陸運の3割しかかからないともいいます。海や河川による水運が届かない場所を結びつけるため、この時代には運河が盛んに掘られました。
1761年、ブリッジウォーター公の出資により、彼が所有するワースリー炭鉱とマンチェスターを結ぶ運河が開削されました。この運河は10年後にはリヴァプール港のマージー川河口まで延長され、大量の石炭が運河を介して内陸から海まで運ばれます。これによりマンチェスターの石炭価格は半減し、ブリッジウォーター公は莫大な収益を獲得しました。これ以後英国各地で運河建設が進み、運河建設事業への投資ブームを巻き起こします。
運河は石炭のみならず、鉄鉱や陶土、食料品などの物資や人間も大量に運搬し、輸送費節減により物価を下落させ、市場を拡大させました。交通が利便になったことで未開地が開発され、新たな都市が成立し、人口は増大していきます。運河の建設・維持管理や関連物の製造のために技術が発展し、雇用が創出され、英国経済は猛烈な勢いで発展していくことになります。
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【続く】
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