【つの版】度量衡比較・貨幣52
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1492年10月、スペインの出資で大西洋を西へ進んだコロンブスは新たな陸地と先住民を発見して翌年帰国し、インディアス(インド)に到達したと報告しました。スペインはこの航路を独占したため、ポルトガルはアフリカ大陸沿岸を巡ってインドやカタイ、ジパングを目指すことになります。
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再度遠征
まずコロンブスの冒険の続きを見ていきましょう。1493年9月25日、コロンブスはキャラック(ナオ)船2隻、キャラベル船15隻に1500人もの船員を載せ、植民地を建設すべくスペインのカディス港から第二回の西廻り航路での航海に出航しました。今回もカナリア諸島を経由して西へ進みますが、前回より南に流され、11月3日には早くも新たな島を発見します。ちょうど日曜日(羅:Dominica/主の日)だったので、コロンブスはこの島をドミニカと名付けました。現小アンティル諸島のドミニカ国です(イスパニョーラ島東部のドミニカ共和国とは別)。
コロンブスらは翌日出航し、北の島に渡ると、スペインの有名な聖母像にちなんでサンタ・マリア・デ・グアダルーペ(グアダルーペの聖母マリア)と名付けます。現フランス領グアドループです。さらに北上してモンセラート、アンティグア、ラ・レドンダなど各地の聖母マリアにちなんだ名を島々につけ、11月14日にはサンタ・クルス(聖十字架)島に到達します。またその周囲の島々をブリタニアの聖人伝説にちなんで「聖ウルスラと1万1000人の処女の島々」と名付けました。現ヴァージン(処女)諸島です。続いて西のやや大きな島に到達し、サン・フアン・バウティスタ(聖洗礼者ヨハネ)と名付けました。現在のプエルトリコです。
これらの島々には、アラワク系のタイノ諸族とは異なる言語を話す人々が住んでいました。彼らは自らをカリフナ(複数形カリナゴ)と呼んでおり、訛ってカリブ(Carib)ないしカニブ(Canib)となりました。アラワク系諸族に続いて南米大陸から島伝いに到来した人々で、アラワクとは対立しており、捕虜は奴隷にしたり、去勢したのち食べたりしていたといいます。コロンブスらは彼らカリブを野蛮な人食い種族(羅:Anthropo-phagii)とみなし、スペインでは人が人肉を食うことをカニバル(Canibal,cannibal)と呼ぶようになったといいます。カーニバル(謝肉祭/Carnival,carnaval)は俗ラテン語「carnem-levare(肉を取り除く)」が語源で人肉食とは無関係です。
11月28日、一行は西のイスパニョーラ島に築いた要塞ラ・ナヴィダードに戻ってきましたが、すでに先住民によって焼き払われ、ヨーロッパ人は皆殺しにされていました。コロンブスらは現地の友好的な先住民と提携し、イスパニョーラ島に黄金がないか探し回り、いくつかの要塞を建設しました。1494年4月末にはフアナ島(キューバ)に渡り、5月5日にその南のザイマカ(ジャマイカ)という島に上陸し、フアナ島の南海岸を8月20日まで探索しますが、黄金も絹も都市文明も見当たりませんでした。
苛ついたコロンブスらは先住民を拷問したり殺したり内ゲバを起こしたりし、飢餓と疫病で大勢が死んでいきます。先住民は武装蜂起するか逃亡し、コロンブスは弟バルトロメを残して1496年6月にスペインへ戻りますが、約束の奴隷も黄金も大した量にならず、スペイン人を失望させました。
バルトロメはイスパニョーラ島南東部に入植地を建設し、カスティーリャ女王イサベラにちなんでラ・ヌエバ・イサベラと名付けました。のちスペインの聖人ドミンゴ・デ・グスマンに捧げられてサント・ドミンゴと改名されました。現ドミニカ共和国の首都です。
北西航路
この頃、ヴェネツィア人のジョヴァンニ・カボート/ジョン・カボットが英国の支援を受けて大西洋を横断しています。彼は貿易商人でしたが1488年に破産してヴェネツィアを去り、スペインやポルトガルを経て1495年に英国へ赴きます。カボットはコロンブスが大西洋を横断したことを聞き、「地球は丸いのだから、北寄りの航路で行けば近い」と考え、英国王ヘンリー7世に北寄りの西廻り航路でのジパング等の探索を提案しました。
11世紀には北欧の冒険家レイフ・エリクソンが西の海の彼方に陸地を発見し「ヴィンランド」と名付けていますし(コロンブスも知っています)、アイルランドでは西の海の彼方に「ブラジル」などの島があるという伝説もありました。なによりすでにコロンブスが新しい土地を発見しているのですから期待は持てます。英国王はカボットに資金提供し、1496年夏にブリストルから出航させます。この年の航海は失敗しましたが、翌年6月24日には大西洋の彼方に新たな陸地(テラ・ノヴァ)が発見されます。現在のニューファンドランドで、いにしえのヴィンランドはここのことと推定されています。
帰国したカボットは国王に歓迎され、10ポンドの賞金と20ポンドの年金を賜ります。当時の一般労働者の年収が5ポンドといいますからそれなりのカネですが、カボットはこれに飽き足らず1498年5月に再び航海に出、病死したのか沈没したのか二度と戻ってきませんでした(生還したとも)。しかしこの航路はジョンの息子セバスチャンら後継者によって引き継がれ、周辺の探索が続けられることになります。教皇子午線やトルデシリャス条約によればこのあたりもスペイン領になるはずですが、英国は無視しています。
印度到達
西半球の探索が進む一方、ポルトガルは従来どおりアフリカ沿岸の探索を続けています。1495年に国王ジョアン2世が崩御すると、従弟(ドゥアルテ1世の孫)にあたる王太子マヌエルが跡を継ぎ、東廻りでインドを目指す計画を実行に移します。1488年にはアフリカ大陸南端まで到達しているのですから、その東へ出れば既知の航路が存在します。
1497年7月8日、マヌエルはポルトガルの騎士階級出身のヴァスコ・ダ・ガマを司令官に任命し、4隻(ヴェルデ岬までの随行艦1隻を含めて5隻)147人からなる船団をインドへ向けて出航させました。うち1隻は食糧を積んだ貨物船で、途中で解体される予定ですから、インドへ到達する頃には3隻になっているはずです。船団はヴェルデ岬を経てシエラレオネ沖に到達し、風と海流に乗って南大西洋を南西寄りに進みます。
海流図を見れば、シエラレオネの南には南赤道海流が東から西へ流れており、続いてブラジル海流が南へ流れ、南大西洋海流が東へ、ベンゲラ海流が北へ流れて大きな渦を巻いています。北大西洋にもカナリア海流→北赤道海流→メキシコ湾流→北大西洋海流という海流の渦があり、これと風を利用すれば欧州やアフリカと新大陸を往来できます。
11月9日、一行は西風に乗ってアフリカ大陸南西岸に到達し、22日に喜望峰を通過、25日にはサン・ブラス湾で貨物船を解体します。12月にはアフリカ大陸南端を通過して北上を開始し、その沿岸をナタール(聖誕祭、クリスマス)と名付けました。しかし長い航海で船員たちはビタミン不足による壊血病にかかり、死者も次々と出始めます。
1498年3月2日、一行はアフリカ大陸南東部、マダガスカル島の対岸にあるモザンビーク島に到達します。ここはスワヒリ文化圏の最南端にあたり、アラビア語やスワヒリ語を共通語とするムスリム(イスラム教徒)が港町を築いて支配していました。
スワヒリ(アラビア語で「海岸」を意味するサワーヒルから)はアラブ・ペルシア・ヒンドゥー系の外来文化と土着の文化が融合した独特の文化圏であり、西暦1世紀の『エリュトゥラー海案内記』にもこの地域のことが記されています。内陸のジンバブエでは黄金が産出したため、10世紀頃にはペルシア南部の港町シーラーズの商人がタンザニアにキルワ王国を築き、交易路を支配して繁栄しました。辺境ではありますが高度な文明圏で、14世紀には金貨も発行され、イブン・バットゥータらもその繁栄ぶりを讃えています。
モザンビークの住民は思わぬ方角から来た見知らぬ船を見て警戒します。ヴァスコらは案内人と水と食糧の提供を要請しましたが、払うカネもないためうまくいかず、やむなく水場に艦砲射撃をかまして住民をブッ殺します。さらに住民数人を捕虜にして人質をとり、地元の船2隻を積荷ごと奪い、無抵抗で水をゲットしたのち、意気揚々とモザンビークを去っていきました。なんとも乱暴です。彼らはさらに北上して現ケニアのモンバサやマリンディに到達しますが、船長たちは船を降りて上陸しようとせず、人質を交換したあとで乗組員だけが上陸しました。襲撃を警戒したためですが、現地住民はこの地域の慣習に従わない異国人への不信感を募らせます。
この頃マリンディにはインド人がおり、ポルトガル人が示した聖母マリア像や十二使徒の絵に拝礼したため、ヴァスコらは彼らがキリスト教徒であると考えました。インドやスリランカにはペルシア経由でネストリウス派キリスト教が伝来しており、その一派だったのでしょう(マルコ・ポーロもこれらの地にキリスト教徒がいると報告しています)。ヴァスコらは喜んで彼らの国に行きたいと願い、彼らを案内人としてインドを目指します。
古来の貿易風と海流に乗って船はインド洋を横断し、5月20日にインド南西部のカレクト(カリカット、現コーリコード、漢名:古里国)に到達します。マルコ・ポーロから300年余り、鄭和の到来から91年を経て、ついにポルトガル人はアフリカ経由でインド洋を横断し、インドに着いたのです。
帰国困難
ヴァスコらは慎重に情報を集め、5月28日に付近の港に上陸すると、カレクト国王に謁見してポルトガル国王の親書を渡し、贈り物を献じます。しかし贈り物があまりに貧弱だったので嘲笑され、港湾使用料を払わなかったので現地人とも対立します。8月、ヴァスコは国王に帰国したいと使者を介して申し出ますが、インドからアフリカへ向かうには季節風が吹く12月以後が適しているため、国王は怪しんで使者を監禁し、出航を禁止します。
ヴァスコらはまたも人質をとって使者の解放を要求し、8月末に追手へ砲撃しながら逃げ出します。インド西海岸を北上し、9月20日にゴアの近くのアンジェディヴァ島に上陸しますが周辺諸国と揉め事を起こし、10月5日に出発します。しかし貿易風に乗れず、3ヶ月かけて翌1499年1月にようやくマリンディまで戻りました。壊血病などのためここまでで60人が死亡し、3隻の船を維持することが困難になったので、ヴァスコらは1隻を処分して2隻とします。あとはアフリカ沿岸を進み、1隻は7月に、ヴァスコらの乗ったほうは9月にリスボンに帰り着きます。往復で総勢92名が死亡し、帰国できたのは55名でした。
ポルトガル国王マヌエルはヴァスコらを大歓迎し、王族や貴族に許される「ドン」の称号を与え、インド提督・終身インド艦隊総司令官に任命します。さらに相続可能な年金750クルサード(1クルサード=400レアルとして30万レアル)、終身年金3000クルサード(120万レアル)を賜りました。
クルサード金貨はヴェネツィアのドゥカートと等価とみて現代日本の12万円相当(レアルは300円)とすれば、750クルサードは9000万円、3000クルサードは3.6億円に相当します。
ヴァスコは長老ヨハネの国を発見できず、行く先々の国々で武力紛争を起こしたものの、ついにポルトガルからアフリカを巡ってインドに到達する航路を開拓しました。これよりポルトガルは大砲と兵隊を積んだ艦隊を次々とアフリカやアジアへ派遣し、軍事力によって沿岸諸国を従わせ、海上交易路を支配下に置いていくことになるのです。
◆Inner◆
◆Circle◆
【続く】
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