【つの版】ウマと人類史EX20:新皇僭称
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
平将門は、私君・藤原忠平の権勢を後ろ盾にして骨肉との私闘を制し、坂東一円に広く勢力を持つ在地豪族に過ぎませんでした。朝廷も彼の行為を私闘とみなし、積極的に討伐を命じてはいません。しかし武芝や興世王ら国司への不満分子を抱え込み、次第に国府と対立していくことになります。
◆嵐◆
◆雷◆
天慶之乱
さて、常陸国東部に藤原玄明という土豪がいました。彼は領地の収穫物を思うままに横領し、国府に租税を一切納めなかったため、常陸介(事実上の常陸国司)の藤原維幾は天慶2年(939年)に太政官符を受け、彼を逮捕すべく兵を向かわせます。玄明は妻子と私兵を連れて領地を脱出し、行方郡・河内郡にあった不動倉(官営穀物倉庫)を襲撃・掠奪したのち、下総国豊田郡に逃げ込んで将門に庇護を求めました。
維幾は藤原南家の傍流で平高望の娘を娶っており、その子・為憲は将門の従弟にあたります。彼は将門に玄明らの身柄引き渡しを求めますが、将門は「すでに逃亡した」としてこれを拒み、11月(西暦940年1月)に私兵を集めて石岡の常陸国府に出兵、玄明の追捕撤回を求めました。常陸国府は武装を固めて要求を拒否し、両者は合戦となります。将門勢1000人に対して国府勢は3000人でしたが、将門勢が圧勝して国府を占領、国司・維幾を捕縛するに至ってしまいます。為憲は命からがら逃げ出し、下野国にいた将門の宿敵・貞盛のもとに身を寄せます。
将門は私君・藤原忠平への書状で「為憲が国府の威光をかさに着て玄明を圧迫しており、事情を確かめに常陸国府へ出向いたところ、為憲が貞盛と結託して襲って来た」と言っていますが、私兵を率いて常陸国府を攻撃し、国司を捕縛した罪に変わりはありません。前に下野国府を囲んだ時は大赦で罪を赦されましたが、国府を攻め落としたとなると忠平でも庇い切れません。
前武蔵権守の興世王はこの頃将門に身を寄せていましたが、密かに将門をそそのかし、「あなたの罪は軽くない。いっそ坂東を攻め取ってから様子を見ようではないか(坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム)」と進言します。将門はこれに乗って下野・上野の国府に攻め寄せ、恐れた国司らは印綬と鍵を差し出して降伏し、維幾ともども追放され京都へ逃げ帰りました。武蔵・相模・上総・安房はまだ従っていませんが、将門は下総・常陸・下野・上野一円を制圧し、国府に正面から弓を引いた逆賊となったのです。
新皇僭称
軍記物語『将門記』によると、この時将門のもとに巫女が現れ、「我は八幡大菩薩の使いである」と告げました。八幡神は豊前国宇佐神宮を本社とする神で、記紀神話には現れませんが、奈良時代以後に朝廷から崇敬を集め、仏教に帰依したとして八幡大菩薩と呼ばれました。平安初期までには応神天皇と結び付けられ、皇祖神として畏敬されます。
その八幡大菩薩は「朕の位を蔭子・平将門に授けん」と告げます。蔭とは木陰を意味し、転じて「人のおかげ(庇護・援助)」を現し、蔭子とは「父祖の功績のおかげで官位・職階を授かる者」を意味します。八幡大菩薩は応神天皇で、将門は桓武天皇の末裔ですから一応の血縁関係にあり、ゆえに「新たな天皇」に立てるというのです。
なおかつ、その位記(位階を授ける文書)は「左大臣・正二位・菅原朝臣の霊魂」が書き表したとあります。すなわち延喜3年(903年)に大宰府で不遇のうちに没した菅原道真で、死後に怨霊となって政敵や皇族を祟り殺したと信じられており、延喜23年(923年)に名誉回復がなされ正二位・右大臣に復帰しています(正一位・左大臣を追贈されたのは993年)。将門が滝口武者として仕えていた延長8年(930年)6月には清涼殿に落雷し、数人の公卿・官人が死傷する事件も起きており、同年に醍醐天皇が崩御したため、これも道真の怨霊のしわざとされました。
道真の政敵・藤原時平は、将門の私君・忠平の兄にあたり、909年に39歳の若さで病死したことから道真の祟りに遭ったと信じられました。道真の子息たちも左遷として坂東諸国の国司に任じられていましたから、道真のことは将門もよく知っていたでしょう。道真の没年と将門の生年が同じ(あるいは近い)ことから、将門を道真の生まれ変わりとする伝説もあります。中央政府への恨みを持つ者をまとめるにはうってつけのビッグネームです。
将門は位記をうやうやしく受け取り、興世王・藤原玄茂(玄明の一族か)らは「新皇」の称号を奉りました。後世の書物では不敬として「平親王」ともしますが誤りです。ただ将門から忠平への書状では「私は柏原帝(桓武天皇)の五代の孫にあたり、永久に半国を領有してもそのような天運はないと言えましょうか」としていることから、この時点では日本全土の征服は目論んでおらず、東国の天皇になることを目指したもののようです。とはいえ驚天動地の謀反には違いありません。
また将門記によると、弟の将平らは「帝王の業は智や力で競争するものではなく、古来の天命によるものです」と兄の新皇僭称を諌めましたが、将門は次のように答えました。「今の人は武力で勝利した者を君主とする。国内にその例がないとしても、外国にはその例がある。去る延長年中(923-931年)に大赦契王(大契赧王=大契丹王)が渤海を滅ぼして東丹国を建てている(926年)。これは武力によるではないか」云々。
『日本紀略』によると延長7年(929年)12月、丹後国竹野郡大津浜(現京都府京丹後市)に東丹国の使節が来着し、日本に「渤海が契丹に征服されて国号・国王が代わった」ことを告げました。朝廷はこの使節を追い返しましたが、ちょうど将門が京都で滝口武者をしていた頃ですから、将門はこのことについて知っていたのです。チャイナでは唐が滅んで五代十国の乱世となり、936年には騎馬遊牧民の契丹が五代の後晋から燕雲十六州を割譲させて北東アジア全域に強大な勢力を振るっていました。ならば多くの騎馬武者を従える将門が京都の朝廷から派遣された強欲な受領たちを打ち払い、東国の王となっても悪くはない、という理屈でしょうか。
天慶2年12月(西暦940年1-2月)、新皇将門は除目(官位の任命)を行います。興世王は上総介に任じられ、将門の弟・将頼は下野守、将文は相模守、将武は伊豆守、将為は下総守とされ、家臣の多治経明は上野守、文屋好立は安房守、藤原玄茂は常陸介に任命されました。除目は坂東にとどめていますが、あからさまな朝廷への反逆です。
およそ朝敵(朝廷の敵)とされた人物は多くいますが、中央政権を奪おうとした藤原仲麻呂/恵美押勝や道鏡らはさておき、地方に割拠して日本国/倭国の支配から独立しようとした者には、近くは蝦夷のアテルイ、遠くは筑紫君磐井らがいます。しかし坂東で「新皇」を僭称し、勝手に国司を任命して独立王朝を建てようとした例は前代未聞です。知らせを受けて驚愕した朝廷は、ただちに藤原忠文を右衛門督・征東大将軍とし、将門討伐に赴かせました。
彼は藤原式家の出身で、若い頃に左馬頭・左衛門権佐・右近衛少将等の武官を務めたこともありますが、当時は参議として公卿に列しており、68歳の老人です。自ら戦って38歳の将門を討ち取るような武人とは言えません。前武蔵介の源経基は「将門の謀反は誣告ではなかった」として罪を許され、忠文の副将として随行しますが、彼もさしたる武功はありません。将門討伐の中心となったのは、平貞盛ら坂東の武者たちでした。
◆大◆
◆変◆
【続く】
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