【つの版】ウマと人類史:中世後期編02・諸国動乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
クビライ崩御後、大元ウルスでは後継者争いで短命の皇帝が続き、皇后の一族であるコンギラト部が実権を握りました。1323年にはこれに反抗した皇帝シデバラが弑殺され、モンゴル高原を統治していた晋王イェスン・テムルが招かれて1324年に帝位に就きます。
◆騒◆
◆乱◆
天暦内乱
イェスン・テムルは、クビライの皇太子チンキムの長子カマラの子で、母ブヤンケルミシュはコンギラト部の出身です。傍系とはいえ正統な血筋をひいており、年齢は30歳と申し分ありません。皇后バブカンはやはりコンギラト部の出自で、建国の功臣アルチ・ノヤンの曾孫にあたりました。
彼女はアリギバ(ラキパクとも)、パドマ・ギャルポ、ソセ、ヨンダン・ジャンボという四人の男児を生み、長男アリギバが5歳で皇太子に立てられます。名前はチベット風ですから、クビライ以来大元の国教的地位にあったチベット仏教の信者で、ヨンダン・ジャンボは1327年に仏戒を受けています。ただ1324年に長男が5歳ですから、いずれもまだ幼児に過ぎません。父イェスン・テムルはアリギバの立太子と同日にパドマ・ギャルポを晋王に封じ、1327年にモンゴル高原へ赴かせ、宗廟を祀らせています。また甥のバラシリをオルドス高原のチャガン・ノールへ派遣して帝国西方を任せ、クビライ時代の三王国(漢地・安西・蒙古)体制への復帰を目指しています。
政治に疎いイェスン・テムルを傀儡として、実権を握ったのはムスリム官僚のダウラト・シャーでした。彼は晋王時代からイェスン・テムルに仕え、息子ハサンを皇帝の宿衛として側近くに侍らせつつ、宮中の様子を探っていました。シデバラ弑殺の首謀者テクシとも連絡を取り、イェスン・テムルを皇帝に擁立したのも彼の功績といいます。彼は宰相に就任して縁故のムスリムを取り立て専権を振るいますが、1328年7月にイェスン・テムルが崩御してしまいました。ダウラトは10歳にも満たぬアリギバを上都で帝位に擁立し、ますます専横をなそうともくろみます。
これに対して、大都に駐屯していたキプチャク軍団の長エル・テムルはクーデターを起こし、武宗カイシャンの子を帝位につけるよう呼びかけます。彼はチョンウルの子、トトガクの孫にあたり、カイシャンの恩顧を受けて活躍し、中央軍政機関の枢密院を掌握する要職にありました。エル・テムルは軍事力と権力でたちまち大都を制圧すると、江陵にいたトク・テムルを招き寄せ、皇帝に擁立します。
トク・テムルはカイシャンと側室のタングート氏の間に生まれた子で、異母兄にイキレス氏の生んだコシラがいましたが、彼はチャガタイ・ウルスに亡命し、アルタイ山脈西麓に駐屯していました。しかしエル・テムルは、彼を担げばチャガタイ家やモンゴル王族の権力が強くなることを恐れ、比較的近くにいたトク・テムルを担いだのです。トク・テムルは「兄がいるから」と即位を拒みますが、後でコシラに譲位させるからと説得されて頷き、9月に大都で即位して天暦と改元しました。
上都のダウラト・シャーはアリギバの権威のもと、大都の反乱軍を討つべく進軍しますが、エル・テムルはこれを撃破します。10月には東方三王家のひとつジョチ・カサル家の王オルク・テムルが大都側につき、上都を包囲します。進退窮まった上都は降伏し、ダウラト・シャーは処刑され、アリギバらイェスン・テムルの子らも始末されます。
しかし、西方では乱を聞きつけてコシラ率いる大軍が動いていました。チャガタイ家やモンゴル皇族、諸王侯の支持を集めたコシラは、アルタイ山脈を越えてモンゴル高原に移動し、カラコルムに入ってトク・テムルに対し帝位を譲るよう要求したのです。エル・テムルはやむなくこれに応じ、1329年春に自らモンゴル高原へ赴くと、皇帝の玉璽をコシラに献じました。ところが8月、上都近郊でコシラが突然崩御します。エル・テムルによる毒殺と見られ、トク・テムルが皇帝に復位し、コシラ派は粛清・追放されます。コシラ派は雌伏し、復讐の時を待ちます。
欽察軍閥
復位したトク・テムルは、エル・テムルの傀儡として鼻息を伺いつつ、3年あまり在位しました。エル・テムルはイェスン・テムルの未亡人を娶り、トク・テムルの子グナダラ(エル・テグス)を自邸で養育し、自らの子を皇帝の養子として宮中で育てさせます。またコシラの子トゴン・テムルを「実はコシラの子ではない」として、高麗に追放します。
1332年には安西王家のオルク・テムルを帝位に擁立せんとする陰謀が発覚し、彼は処刑されましたが、同年8月にトク・テムルも29歳で崩御します。トク・テムルは異母兄コシラの子を即位させるよう遺言しますが、エル・テムルはこれを無視し、コンギラト部出身の皇后ブダシリに働きかけ、彼女の子エル・テグスを擁立しようとします。ブダシリは強く反発し、エル・テムルはコシラの次男でわずか7歳のイリンジバル(リンチェンパル)を擁立しました。
彼の母バブシャはナイマン部の出自で、コシラがアルタイ山脈の西に亡命していた時に生まれた子です。幼い皇帝を立てて摂政となったエル・テムルは変わらず国政を牛耳ったものの、イリンジバルは即位から43日で崩御してしまい、エル・テムルは再びエル・テグスを擁立しようとします。ブダシリは「彼は幼少であるから」と強く拒み、コシラの子トゴン・テムルを立てるよう求めました。
彼はコシラとカルルク部族のマイラダクとの間に生まれた子で、すでに13歳となっており、イリンジバルよりは年上でした。先に高麗へ流された後、はるか南の広西道宣慰司静江府(現広西チワン族自治区桂林市)に流され、疫病で死ぬことを期待されていた身です。エル・テムルは彼が思い通りにならないことを恐れ、「トゴン・テムルが崩御したらエル・テグスを帝位につける」とのブダシリの約束を取り付けて、ようやく彼を大都に招きます。
エル・テムルは即位式を先延ばしにするなど姑息な妨害活動を行いますが、1333年4月に病死します。続いてエル・テムルの協力者であったメルキト部の軍閥バヤンが台頭し、エル・テムルの娘ダナシリをトゴン・テムルに娶らせ、6月に即位式を挙げます。バヤンは1335年にダナシリ含むエル・テムル派を粛清して実権を握り、キプチャク軍閥はここに滅びました。
バヤンはエル・テムルに代わって専横を極め、成人したトゴン・テムルは彼の排除を画策します。1340年、バヤンの甥トクト(トクトガ)は、叔父の留守中に宮廷クーデターを起こし、バヤンを失脚させました。バヤンは広東へ流される途中、失意のうちに世を去っています。トクトによる政権掌握によって、長く続いた大元の内乱はある程度安定しましたが、大元の屋台骨は大いに揺るぎ、各地で反乱が頻発することになります。
察合動乱
モンゴル帝国の西方にも目を向けてみましょう。大元と対立したチャガタイ家の当主エセン・ブカは1318年頃に逝去し、共同統治者であった弟のケベクが単独の君主として即位します。彼はカシュカ川のほとり、マーワラーアンナフルのナフシャブに都を置いてカルシ(宮殿)と名付け、貨幣を発行し徴税区画を定めて国政を立て直しました。また国内の宗教と文化を公正に庇護し、大元やフレグ家とも友好関係を結んでいます。
1326年にケベクが逝去すると、弟のイルジギデイが即位します。彼は大元での内乱に介入し、コシラを帰国させて帝位につけましたが、即位後まもなく崩御し、チャガタイ家の影響を大元に及ぼすことは失敗しました。見返りとしてチャガタイ家には東部天山地方が譲渡され、莫大な贈物を受け取っています。イルジギデイが1330年頃に逝去すると、弟ドレ・テムルが跡を継ぎますが、彼はまもなく世を去り、弟タルマシリンが即位しました。
タルマシリンの名は梵語ダルマ・シュリー(正法・吉祥)から来ており、仏教に由来しますが、彼はイスラム教に改宗し、アラーウッディーンと名乗っています。とはいえ非ムスリムを積極的に迫害はせず、他の宗教や文化も尊重しましたが、このことで両方から敵視されました。特にインドに遠征してデリーのムスリム国家トゥグルク朝と戦い、各地で略奪を行ったため、ムスリムからも恨みを買います。
1333年、イリ地方の遊牧民はドレ・テムルの子ブザンを君主に擁立し、翌年タルマシリンを廃位して殺害しました。ブザンはムスリムを迫害しますがまもなく逝去し、ネストリウス派キリスト教徒でドゥアの孫にあたるジンクシが擁立されます。1338年、ジンクシは弟イェスン・テムルに毒殺され、1340年にはオゴデイ家のアリー・スルターンが彼を倒してチャガタイ家を乗っ取ります。こうした混乱の中、1336年にバルラス部の貴族の家にテムルという子が生まれました。彼こそがティムールです。
旭烈絶家
さらに西方、イルハン朝ことフレグ・ウルスでは、さらに事態は深刻でした。1316年に国王オルジェイトゥが若くして逝去すると、息子アブー・サイードが12歳で即位します。宰相のラシードゥッディーンとアリー・シャーが後見人となりますが、二人は犬猿の仲でした。
1317年、アリー・シャーの讒言でアブー・サイードは失脚し、翌年には息子ともども処刑されます。しかしモンゴル系の将軍チョバンが台頭してラシードゥッディーン派を引き継ぎ、アリー・シャーは失脚しました。チョバンはアブー・サイードの妹を娶って実権を掌握し、チャガタイ家やジョチ家の侵攻を防いだものの、次第にアブー・サイードと対立を深めます。1326年にチョバンは失脚してヘラートへ亡命し、翌年殺害されました。
アブー・サイードはチョバンの娘バグダードを離縁させて強引に妃としますが、他の妃を寵愛するようになったため彼女の恨みを買い、1335年に暗殺されます。アブー・サイードには跡継ぎの息子がなく、フレグ家の王統は断絶しました。ちょうどジョチ家との戦争中だったため、群臣は同じトルイ裔であるアリクブケ家のアルパ・ケウンを擁立しました。
彼の祖父ミンガンは、1307年に中央アジアからオルジェイトゥのもとへ訪れて服従を誓い、ホラーサーン地方に駐屯していました。アルパ・ケウンはその軍勢を率いてアブー・サイードの軍隊に加わっていたのです。彼は即位するとバグダード妃を処刑し、一致団結してジョチ家の軍勢を撃退しましたが、危機が去ると権力を強めようとしたため反発が起こります。
1336年、イラクのバグダードを統治していたオイラト部族のアリー・パーディシャーは、アルパ・ケウンの即位を不服としてフレグ家の王族ムーサーを擁立します。アルパ・ケウンはこれを討つべく攻め込みますが、味方の多くが裏切って大敗し、処刑されます。しかしバグダードの元夫ハサン(大ハサン)が別のフレグ家の王族ムハンマドを擁立し、ホラーサーンでは別の貴族らによってジョチ・カサル家のトガ・テムルが擁立されます。
ムーサーはトガ・テムルと結んでムハンマドおよび大ハサンと戦いますが戦死し、トガ・テムルはホラーサーンへ逃れて自立します。大ハサンはムハンマドを伴ってタブリーズに入城しますが、1338年にチョバンの孫シャイフ・ハサン(小ハサン)と対立し、ムハンマドは小ハサンに敗れて処刑されます。小ハサンはチョバンの妻サティ・ベク、ついでフレグ家のスライマーンを擁立し、大ハサンはフレグ家のジハーン・テムルを擁立しますが、1340年にどちらも廃位されます。大ハサンはイラクを支配するジャライル朝を、小ハサンはタブリーズを首都とするチョバン朝を建て、自ら王位を称したのです。トガ・テムルは一時大ハサンと和解しますが、すぐに決裂し、1353年に暗殺されて、ボルジギン氏の王統はイランでは絶えてしまいました。
これ以後、旧フレグ・ウルスの地にはジャライル朝、チョバン朝、ファールス地方のインジュー朝、イラン高原中央部のムザッファル朝、ヘラートのクルト朝などが割拠し、統一政権は消滅します。この状態はティムールによる大征服まで数十年続きました。このようにモンゴル帝国内の諸国が混乱する中、北西の大国ジョチ・ウルスはウズベク・ハンのもと最盛期を迎えています。次回はその様子を見ていきましょう。
◆空◆
◆海◆
【続く】
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