【つの版】大秦への旅08・秦氏幻想
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
ユーラシア大陸を往復して、いよいよ日本に戻ってきました。日本には渡来帰化氏族である秦氏(はだうじ、はたし)が存在しますが、一部界隈では「彼らはキリスト教徒だ」「ユダヤ人だ」と信じられています。いわゆる日ユ同祖論の一種ですが、なぜそんな話が出てきたのでしょうか。改めて秦氏について考えてみましょう。
◆機◆
◆楽◆
禹豆麻佐
京都市右京区に太秦(うずまさ)という奇妙な地名があります。時代劇映画の撮影所が多く集まる場所としても有名ですが、平安京を含む山城国葛野(かどの)郡に属し、秦氏の本拠地として知られています。6世紀前半から7世紀にかけて秦氏の首長墓と思しき多くの古墳が築かれ(双ヶ丘古墳群)、推古天皇11年(603年)創建とされる広隆寺や、木嶋坐天照御魂神社などが存在します。広隆寺は秦氏の氏寺で、国宝の弥勒菩薩像で有名です。その境内には大酒(おおさけ)神社があり、秦氏の祖である秦始皇帝・弓月王(ゆんずのきみ)・秦酒公(さけのきみ)を祀っています。
『日本書紀』によると応神天皇14年、弓月君が百済から来てこう上奏しました。「私は、我が国の人夫120県を率いて帰化したいと思っております。しかし新羅人に遮られ、みな加羅国にとどまっています」そこで天皇は葛城襲津彦に命じ、弓月の人夫を迎えに加羅へ行かせましたが、3年経っても戻りませんでした。応神16年8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に兵を授けて加羅へ遣わし、新羅を討って道をつけよと命じました。彼らが新羅の国境へ進むと新羅王は恐れて罪に服し、弓月の人夫と襲津彦らが共に来たといいます。またこの年に百済の阿花王が薨去したといい、西暦405年にあたります。
弓月君は秦氏の祖と書かれていませんが、『古事記』には応神天皇の時代に「秦造(はだのみやつこ)の祖が渡来した」とあり、仁徳記には「秦人(はだひと)を労役に用いた」と書かれています。労働力(人夫)である秦人・秦民を統率し司るのが支配階級の秦造・秦氏でした。
時代は下って雄略天皇の時代、秦酒公(はだの・さけのきみ)という人物がいました。彼は怒りっぽい天皇を琴の音色と歌で宥めたというダビデめいた逸話を持ちますが、雄略15年(471年)にこう進言しました。「秦民は有力な豪族の下で使役され、諸国に分散しており、秦造である私に委ねられていません。これを憂慮致します」
そこで天皇は秦民を召し集め、酒公に賜いました。酒公は彼らを率いて多数の絹布を織らせ、宮中の庭にうず高く積み上げたので、天皇は彼に「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を賜ったといいます。翌年には諸国に命じて桑を植えさせ、秦民を再び分散させて庸調(税となる布)を献じさせました。
弓月君と秦酒公との繋がりは記紀では不明で、なぜ秦をハダと読むのかも記されません。815年に編纂された『新撰姓氏録』ではこう書かれています。
左京諸蕃の太秦公宿禰(うずまさのきみの・すくね)。出自は秦の始皇帝の三世孫・孝武王である。その男子を功満王といい仲哀天皇8年に来朝した。その男子を融通王(弓月王)といい、応神天皇14年に127県の百姓を率いて帰化し、金銀玉帛などの物を献じた。仁徳天皇の時、127県の秦氏を諸郡に分置し、養蚕・機織をさせて絹を貢がせた。天皇は「秦王の献じる糸綿絹帛は、朕の服に用いるに柔軟であり、温かいことは肌のようだ。よって波多の姓を賜う」と詔した。次の登呂志公は秦公酒(はだのきみ・さけ)であり、雄略天皇の時に糸綿絹帛を山のように積んだ。天皇はこれを嘉して禹都万佐(うづまさ)の号を賜った。
山城国の諸蕃、秦忌寸(はだの・いみき)。太秦公宿禰と同祖で、秦の始皇帝の後裔である。巧智(巧満)王(の子、)弓月王は応神天皇の14年に来朝し、上表してさらに帰国して、127県の百姓を率いて帰化し、ならびに金銀玉帛や種々の宝物などを献じた。天皇はこれを嘉し、大和の朝津間の腋上の地を賜ってすみかとした。その男子を真徳王、次を普洞王(浦東君)といい仁徳天皇の時に波多(はだ)の姓を賜った。いまは秦字の訓である。
次を雲師王、次を武良王。普洞王の男子が秦公酒である。雄略天皇の時に上奏し、「普洞王の時、秦民はみな劫略され、いま見て在る者はかつての十分の一にもなりません。勅使を遣わして彼らを招き集めて頂きたい」と言った。天皇は小子部雷を遣わし、大隅の阿多隼人らを率いて彼らを探し集めさせ、秦民92部1万8670人を得た。ついに酒に賜い秦民を率いさせた。彼は秦民に養蚕絹織を行わせ、朝廷に貢ぎ積み重ねたが、その絹布の量は山岳のようであった。天皇はこれを嘉して特に籠命を降し、号を賜って禹都万佐といった。これは利益が満ちて積み重なる(うず高く増す)という意味である。
諸秦氏を使役して八丈大蔵を宮の側に構え、貢物を納めた。ゆえにその地を名付けて長谷朝倉宮という。この時、初めて大蔵の官員を置き、酒公を長官とした。秦氏らの一祖である。子孫はあるいはそこに居住し、あるいは行事に依って移住した。別にいくつかの同胞氏族がある。天平20年(748年)、京畿にいる秦氏にみな改めて伊美吉(忌寸)の姓を賜った。
だいぶ詳細になりました。天武天皇が定めた八色の姓(やくさのかばね)では真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置と並びますから、秦氏の長である太秦公宿禰は朝臣の下の中堅氏族で、秦忌寸はその下に置かれた秦人となります。伝説的とはいえ、渡来の経緯や年代もはっきりしています。
ただ、前259年生まれで前210年に崩御した始皇帝の三世孫(曾孫)の孫が、西暦405年に生きているはずがありません。代々30歳で子を儲けたとしても始皇帝の子が前229年、孫が前200年、曾孫が前170年、玄孫が前140年、その子が前110年頃の生まれです。弓月君が500歳以上生きていた仙人とかでなければ、途中をすっ飛ばしたか、始皇帝が先祖というのが単なる箔付けの嘘というだけです。まあ嘘は百も承知で神話的先祖としたのでしょう。
雄略天皇15年は西暦471年とされ、弓月君が405年に来てから66年も後です。酒公は弓月君の子にしては長生き過ぎますから、孫か曾孫でしょう。秦忌寸条では巧智(巧満)ー弓月(融通)ー真徳ー普洞(浦東)ー酒公とします。双ヶ丘(ならびがおか)古墳群は6世紀初頭から築造されていますから、太秦(うずまさ)の号を賜った酒公の墓から始まるのでしょう。
欽明天皇の時代には、秦大津父(はだの・おおつち)がいます。彼は山城国紀伊郡深草郷(京都市伏見区深草)出身の商人でしたが、欽明天皇が少年の頃(継体天皇の時代)に見いだされ、540年に欽明が即位すると大蔵司に任命されました。また秦人7053戸を管掌する秦伴造ともなっています。彼と酒公の関係は不明ですが、後世の系図では曾孫とされます。
7053戸は、1戸5人として3万5265人です。酒公の時には92部1万8670人(1部平均203人)でしたから2倍近くに増加しています。弓月君は120県の秦民を率いて来ましたが、1県平均200人とすると120県で2万4000人。この頃の倭国の人口は数百万人ですから、古代においては結構な人口規模です。
秦造河勝
聖徳太子の時代には、秦河勝(はだの・かわかつ)がいました。彼の名は『日本書紀』推古紀・皇極紀に見えます。推古11年(603年)11月、皇太子の厩戸皇子(聖徳太子)が「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を得て恭しく拝む者はいるか」と諸大夫にいうと、秦造河勝が進み出て貰い受けました。彼は蜂岡寺(広隆寺)を築造し、本尊としてこの仏像を安置したといいます。おそらくは国宝の弥勒菩薩半跏思惟像です。
蜂岡山広隆寺は別名を秦公寺・太秦寺・葛野寺・川勝寺・桂林寺・三槻寺ともいい、秦氏の氏寺です。承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、推古30年(622年)に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとあります。これは別の寺院が後に合併されたことを指すともいいます。また創建当初は北区の北野廃寺跡にあったようですが、平安京遷都の時に現在地に移転したとする説が有力です。
推古18年(610年)10月、新羅の使者が来訪した時、河勝は土部連菟とともに導者(案内役)を務めました。
それから30年余り後、皇極天皇3年(644年)に常世神の事件が発生します。芋虫を常世神として崇めさせ人心を惑わしていた新興カルト宗教を、葛野にいた河勝が懲らしめたという話です。これを人々は「太秦(の秦河勝)は、神の中の神だと評判の常世の神を打ち懲らしたぞ」と讃えたといいますが、彼が唯一神を崇めていたわけではなく、迷信を鎮圧しただけです。
河勝と大津父や酒公との系譜関係は明らかでありませんが、秦造の地位にあるからには彼らの同族に違いありません。生没年も定かでありませんが、仮に聖徳太子と同年とすると574年生まれで、603年には30歳過ぎ、644年には80歳の高齢です。まああり得なくもない年齢でしょう。後世には聖徳太子に仕えた名臣として称揚され、917年編纂という『聖徳太子伝暦』では物部守屋の討伐(587年)に加わり、守屋の頸を刎ねたとします。
中世の醍醐寺本『聖徳太子伝』によると、百済から伶人(うたびと)が渡来した時、聖徳太子は彼らを大和国桜井村に居らせ、秦河勝の子や孫ら15人に命じて舞楽を学ばせました。そして四天王寺に32人の伶人を調え置き、毎年の大法会に際して舞楽を行わせたといいます。『日本書紀』には推古20年(612年)に百済人の味摩之が帰化し、呉国の伎楽の舞を伝え、倭の桜井で少年らに伎楽の舞を教え、真野首弟子と新漢済文が習い伝えたとあります。秦氏に伎楽を習う家があり、起源を推古紀に取材したのでしょう。
河勝奇譚
室町時代に世阿弥が著した『風姿花伝』、及び彼の娘婿の金春禅竹が著した『明宿集』には、「聖徳太子の御目録にいう」などとして秦河勝の神話的な由来譚を伝えています。
それによると、欽明天皇の時に泊瀬川(初瀬川)が洪水を起こし、上流から一つの壺が流れて来ました。ある人が三輪の杉の鳥居のほとりで拾い上げると、壺の中には玉のような赤子がいました。人々が朝廷に報告したところ、天皇の夢枕にその赤子が現れ、「我は大国・秦の始皇帝の再誕である。日本に生まれ出る機縁があってここに出現した」と告げました。
天皇は不思議に思い彼を養育させたところ、15歳にして才智は人に越えたので、彼に秦の姓と河勝の名を授け、大臣に任命しました。彼は物部守屋の反乱を鎮圧し、聖徳太子に命じられて66番の物真似(猿楽)を行い、天下に太平をもたらしたといいます。河勝はこの芸を子孫に伝えると、摂津国難波の浦より「うつほ舟」に乗って西海へ出、播磨国坂越(しゃくし)の浦に漂着しました。人々がこれを陸に上げると姿は人間に変わり、諸人に憑依して祟り奇瑞をなしたので、神と崇めたところ国は豊かになったといいます。また河勝は能の「翁」であるとか宿神であるとか様々な奇説が伝わっています。
河勝が乗ったという「うつほ舟」は、中世近世の伝説にしばしば現れ、UFOめいた形状のものもあります。高句麗王や新羅王の始祖神話にも金の卵や箱が出てきますし、川上から流れてくるのは桃太郎じみていますね。
また、広隆寺には牛祭という奇祭があり、摩多羅神(またらじん)という謎めいた鬼神を祀っています。これは大黒天とも荼枳尼天ともいい、「翁」=秦河勝と同一視されることもあります。
仏教のメシアである弥勒菩薩、キリストめいて厩の前で生まれた厩戸皇子=聖徳太子、大秦寺めいた太秦寺、そして謎の渡来人・秦氏…なるほど、こう並べてみればそれっぽい要素は揃っていますね。後は妄想で繋ぎ合わせれば完成です。秦河勝は迷信として怒りそうですが。
しかし秦氏や聖徳太子とキリスト教を結びつけて論じた記述は、16世紀のイエズス会の報告にも、江戸時代のオランダ人の報告にもありません。ましてユダヤ人やイスラエルと結びつけた話もありません。こうした話は19世紀になってようやく出現したのです。
◆平安◆
◆京都◆
【続く】
◆